第2話 就職活動
大学3年生を終えると、本格的に就職活動を迎えることになる。法学部を出ているので、就職というと、
「どこでもつぶしが利くからいいよね?」
などと、楽天的なことを言われたものだが、この不景気で就職難の時代に、
「潰しが利く」
などと言われても、正直、気休めにもならない。
歴史が好きで歴史の勉強はしているが、だからと言って、それが大学の成績に反映してくるなどありえない。彼の考え方や生き方に影響を与えるであろうことは分かっているが、もっとシアルな実生活に何らかの影響があるとは、決して思えないのだ。
就職活動をしていても、
「就職してから、どのような仕事がしたいですか?」
と言われても、実際にぴんと来るものではない。
就職活動というと、まずは、受ける会社のことを徹底的に調査して、どこを切り取って質問されても、うまく答えることができるように、最初から原稿を用意しておくことが大切である。
しかも、相手の会社を決して傷つけないように、自分をいかにアピールするかというのが問題である。
自分アピールはまだいいとしても、相手の会社を傷つけずにうまく褒めるというのは、梶原にとっては、実に難しいことであった。
ことと次第によっては、無謀と言ってもいいかも知れない。
「彼の発する言葉は、心の叫びというよりも、勉強したことの裏付けを自分の中で整理した結果の言葉」
であった。
しかも、彼の性格からすれば、そこから出てくる言葉は、自分の本能であり、決して忖度したものではない。
「言葉を選ばなければいけない」
ということは十分に分かっているのだが、言葉を選んでいると、本音が言えなくなるのであり、自分の中で、
「本音が言えないということは、ウソをついているのと同じことだ」
と言えるであろう。
「ウソというのは、悪のことであり、勧善懲悪を基本的な考えかとしている俺には、本音が言えないということは、到底容認できることではない」
と言えるだろう。
しかし、これは就職活動なのだ。
「嘘も方便」
という言葉があるが、それは、
「ウソをつくにしても、相手のためを思うことであれば、それも仕方がない」
ということになるだろう。
就職活動における面接というのが、この言葉の存在意義に当たるのではないだろうか?
皆が許容範囲だとして、納得して、していることであろう。
だが、そもそも、そこまで考えることなく、本能から出てきていることではないだろうか?
それは、人間の防衛本能が働くことで、本音を言わないということが相手に対しての思いやりとなって、ウソだとしても、仕方がないことだという理屈を、一瞬にして組み立てる。
それが、普通だし、人間ならではの発想ではないか?
それを邪魔する、
「勧善懲悪な考え方」
というものが、どれだけ自分の足を引っ張っているのかということが分かっているにも関わらず、その間のジレンマに悩まされながら、結局、勧善懲悪を選んでしまうという梶原に生き方は、どう解釈すればいいのだろう?
だから、余計に言動も過激になるのだ。
ちょっとしたウソを人に知られたくないという思いから、強烈な個性を表に出すことで、まわりを、
「自分が別の強烈な性格である」
と感じさせることに従事しているのだ。
それが、梶原という男の表に出るところの性格を、覆い隠すことができないという本性の表れなのではないだろうか?
「どんな仕事がしたいですか?」
と聞かれて、答えが詰まってしまう。
何を答えていいのか分からないというよりも、
「何を答えたとしても、それはウソなんだ」
という意識があるからだった。
就職活動に限らず、面接であったり、営業では、絶対に言ってはならないワードというものがあるはずだ。
そして、それは、場数を重ねていくうちに分かってくるものであるというのは、営業においてのことであろう。
就職活動において、
「絶対に言ってはいけないことを、いまさら分かったとしても、時すでに遅しと言わざるを得ないのではないか?」
一発勝負の就職活動、
「どの会社でもいいから、どこかに引っかかってくれればいい」
というのは、何度も落ちまくって、結局、就職する会社が見つからずに、切羽詰まった時に考えることだ。
そうなってしまうと、経験から、分かることもあるだろうが、本当にそれでいいのだろうか?
ただ、就活をいくら続けても、場数を重ねたとしても、面接でうまく行くということはなかった。
言葉を重ねるごとに、面接官の顔が引きつってくるのが分かる。最後には、
「もう結構です」
と言われるのがオチだった。
下手をすれば、社交辞令でもある、面接官による最後の。
「ありがとうございました」
という言葉すら聞かれることがないくらいである。
梶原は、人に対して気を遣ったり、言葉を選んだりするのは苦手なのだが、相手が自分に対して、どう思っているかであったり、面接において、相手のことに関しては、きっと、他の人よりもよく分かるのだろうと思っていたのだ。
だから、いつも面接において、
「この人、完全にキレているな」
ということは、手に取るように分かるのだ。
そのくせ、その対処法が見つからない。それを思うと、自分がどういう性格なのかは、相手の態度で分かるのだが、分かったところで、どうしていいのか分からないので、結局、宝の持ち腐れと言ってもいいのかも知れない。
大学生の間は、それでよかった。
「いや、本当によかったのか?」
というのは、大学に入ってから、最初にたくさんの友達を作った。
そのほとんどは、あいさつ程度の連中だったので、相手のこともよく分からないし、自分のことを知られることもなかった。
「その中から、本当の友達になれる人を探せばいいだけのことなんだ」
と考えるからだった。
だが、そんな友達はなかなかいない。相手が自分をどう思っているかが分かるので、相手とどう接していいのかが分からないからだ。
そう、つまり、相手を思いやることができないのは、最初に自分が相手の本性を分かってしまうからだった。
「どうせ、俺のことなんか、適当にしか思っていないんだ」
と思うと、怒りを感じてはいけないと思いながらも、自然と怒りがこみあげてきて、そんな相手に気を遣うなど、ありえないことだ。
その場は気を遣ったとしても、その時だけのことである。その後は、自分の性格である、
「勧善懲悪」
が顔を出して、ウソがつけない性格が表に出てくる。
そうなると、人とのコミュニケーションなどできっこない。何と言っても、相手にその気がないことは、最初から分かってしまったのだからである。
相手に気を遣うということは、相手も自分に気を遣ってくれるかも知れないというところから始まる。その望みがないということを最初に分かってしまうのは、これこそ悲劇だといえるのではないだろうか?
「悲劇って何なんだろう?」
と思っていると、自分の本性が、悲劇に塗れているのではないかと感じてしまうのだった。
ただ、本当に、
「相手のことを思いやることだけが、正義なのだろうか? 一歩間違えれば、自己満足で終わってしまうのではないだろうか?」
と感じることもあった。
確かに、言葉をうまく使ってやんわりとした言い方をすれば、相手に対しての印象もいいし、その場をうまく和ませることもできる。ただ、それがウソではないと言い切れるのでなければ、下手をすれば、詭弁でしかないのだ。
営業であれば、それくらいのことは分かるのかも知れない。
「自分が考えることは、相手も考える」
ということが分かるからだ。
相手を信じるということは、疑わないということだ。つまりは、相手は、正義だと思うことであり、思いたいという願望の表れではないだろうか。
それは、自分が騙された時への言い訳であり、相手に騙されることが少しでも頭の中にあったのだとすれば、騙されてしまった自分にも落ち度があったことを認めなければいけない。
騙されたというショックとともに、落ち度が自分にもあったなどということになれば、果たして、いかにして自分を納得させればいいというのか。
騙されたショックを少しでも和らげるには、
「自分は納得していた」
と考えさせるしかない。
それは、仕方のないこととして諦めることであり、そのためには、
「自分が騙されたことを正当化するしかない」
と言えるのではないだろうか?
そのためのキーワードは、
「知らなかった」
ということである。
知っていたとすれば、言い訳にはならない。確かに知らなかったというのは、自分が無知だったということを証明することになるので、承服できないところはあるが、知っていて騙されたという苛立ちに比べればマシではないかと、以前は思っていた。
だが、自分が人と同じでは嫌な性格で、勧善懲悪な性格だと思うようになると、知らなかったというのは、自分の落ち度だと思うようになってきた。
「気になることは、調べたり、勉強する」
ということが、生きる秘訣だと思うようになってから、知らないということは、自分の生きる秘訣を否定することになるのだ。
そんな矛盾を承服することはできない。
だが、そのためには、自分の苛立ちに対する矛盾が新たに生まれてくることになる。
「こちらを立てれば、あちらが立たない」
と言った、そんな矛盾は、また、
「二兎を追う者は一兎をも得ず」
ということわざとも引っかかってくると思われるのだった。
そこで、考えるのは。
「本当の正義とは何なのだろうか?」
という考えであった。
勧善懲悪という考え方の中では、あくまでも、悪だけが揺らぎのないものだと思えてきたのだ。
「悪の反対は?」
と聞かれて、
「正義と答える人もいれば、善だと答える人もいる」
というのだが、
「正義の反対は?」
と聞かれると、全員が悪だと答え。善の反対に対しても、皆が悪という答えを示すのである。
つまりは、正義と善は同じものであり、
「似て非なるものだ」
と言えるのではないだろうか?
正義も善も、違うものであれば、そこには、正義と善の間がかなり狭い、二等辺三角形ができるのだろう。そう考えると、本当に正義と善との距離がどれくらいのものなのか、考えてみたくなったのだった。
就職活動において、
「禁句」
もあれば、
「これは必ず主張しておかなければいけない」
という部分もあるだろう。
そのことを、ある会社の就活で感じたのだが、その会社の一次審査の面接として、
「グループディスカッション」
というものがあった。
5、6人が1つのグループになり、そこで座談会を行うのだが、そのテーマは、一枚の新聞を渡されて、その中にある記事がテーマとなっていた。
その時、皆は、当たり障りのない話を話題に挙げて、それを話し始めたのだ。当たり障りというのは、
「誰も、この意見に承服するだろう」
という、一方的な意見しか出てこないものだった。
「例えば、国際面であれば、どこかの国がどこかの国に侵攻した」
あるいは、
「民主政権が、独裁政権、特に軍事政権のクーデターによって、倒された」
などということであれば、ほとんどその意見が分かれることはないだろうというような意見だったのだ。
ほとんどの人が、
「軍事侵攻はよくないことだ」
「軍事政権を許すことはできない」
という意見に終始した。
しかし、梶原は敢えて、反対意見を述べた。本来なら勧善懲悪なはずの梶原が、敢えて反対意見を述べたのは、
「人と同じでは嫌だ」
という発想があったからだった。
もちろん、就職試験である以上、ただ、どっちの意見というだけでは、話にならない。その意見となった根拠をハッキリと示さなければ、説得力がない。そこが問題だったのだが、
「皆さんは、あくまでも、事実だけでしかものを言っていませんが、戦争やクーデターというのは、一種の情報戦略も絡んでくるので、マスコミの発表を鵜呑みにするのはどうかと思います。しかも、新聞記事を見ていると、民主主義への挑戦と言っているところから、最初から偏見を持った記事ではないかと疑ってみたくなります。意見を言うなら、片方からだけではダメなんだで、どちらの言い分も聞かなければいけない。そういう意味で、この記事には偏りがありすぎると思うので、侵攻したのは事実であり、それは変えられないと思いますが、だからと言って、侵攻した側の意見は理由が述べられていない。真実はどこにあるのかって、分からないじゃないですか。真実と事実は違うんです。事実だけを見ていると、見誤ってしまうと、私は言いたいんです」
と、梶原は訴えた。
その意見を、他の人がある程度、
「右に倣え」
と、ばかりに、当たり前のことを当たり前に、ただ上からなぞっているような話にいい加減ウンザリしていたところにぶつけたのだから、内容だけではなく、タイミングもよかったのだろう、その場の雰囲気は凍り付いたようになった。
きっと他の就活生は、
「こいつ、一体何を言っているんだ?」
と思ったことだろう。
しかし、説得力という意味では、梶原の方が遥かにあった。二次試験に合格もできたし、その時いた、他のメンバーは、全員一次審査をパスできていなかったようだ。
二次面接は、1対1の、普通の個人面接だったが、その時、一次審査のグループでキスカッションの話となり、
「あれはなかなか良かったですね。あの場で反対意見をいう勇気と、さらに、反対意見をいう根拠も理論的に正論だと思ったし、さらに最後の、事実と真実は違うという言葉には、引き付けられそうな説得力がありましたからえ」
と言われた。
その会社で二次試験を合格できなかったが、二次審査の時に、面接官から言われたことは大いに自信になったものだ。
「俺の生き方は間違っていないんだ」
ということであったのだ。
なかなか就活がうまく行かないのは、なかなか通常の面接では、面接官の意図にかなうような対応ができていなかったのだろう。
だが、これも、梶原の個性だと思うと、本人は仕方のないことだと思い、
「俺は、面接に向いていないのかな?」
とも感じる。
と言っても、そんなことは最初から分かっていたことで、自分の意見を押し通すことが自分の生きる道だと思っているので、忖度や、他の人と同じように合わせるということが性格的にできない人間だったのだ。
結局、就活もなかなかうまくいかず、就活では、ほとんど全滅だった。大学卒業はできたが、正社員で雇ってもらうこともできず、アルバイトで食いつなぎながら、何とか、正社員の道を探っていくしかないというところであった。
今の就職難の時代、似たような人は結構いる。
「その中の一人だ」
と言えば、それまでのことなのだが、本当にそうだろうか?
だが、諦めが早い方なので、実際にアルバイトをしていると、
「もう、正社員なんかで働く必要もないのかな?」
とも思うようになってきた。
どうせ、正社員になったって、こき使われるだけで、会社の犠牲にされてしまってはたまったものではない。
「社員は消耗品」
と思っているような会社も多いし、実際に、会社のために働きすぎて、身体を壊したり、精神を病んでしまう人もいた。
特に精神が病んでしまった人は悲惨だった。休職扱いにされたならまだマシで、簡単に首を切るなど、当然のことだ。休職扱いから今度復帰しても、また同じように精神が病んでしまう。会社がストレスが溜まる仕事しかさせずに、結局、自分から辞めるように誘導するというようなブラック企業も少なくないという。
「何のための仕事なんだ?」
と思う。
梶原は、別に自分がどんな仕事をしたいのかというのはなかった。だから、会社から余計に使われているという思いしか抱けないのかも知れないが、結局仕事なんて、会社の中では、個人というのは、ただの消耗品でしかないのだろう。
それを思うと、もっとリアルなことばかり考えてしまう。
会社の入って出世したとしても、途中の管理職というのは、実に惨めなもので、上のいうことは聞かなければいけないし、下からは、上の文句を聞かされる役でストレスが溜まる。
それどころか、トラブルの板挟みになって、自分が悪いわけでもないのに、平謝りの役ばかり。
「中間管理職なんて、クレーマーに対しての謝罪役でしかないよな」
と言われるくらいだ。
実際になっていない、一般社員でもそう思うのだろうから、実際になると、そのストレスは計り知れない。それこそ、
「精神が病んでしまう」
ということになるだろう。
定年まで勤めあげたとしても、うまく行っても、部長代理クラスで終わるのが関の山。もし、自分が、一般的な家庭を築いたとすればどうなるか? それを仕事と重ね合わせると、さらに悲惨さが分かってくる。
結婚は、30代、まあ、前半くらいだろうか? 相手は、ちょっと年下で、高齢出産にならないように子供が生まれるとすれば、結婚2年目までには一人が生まれ、年子くらいでもう一人が生まれることになるだろう。
となると、40歳になった頃には、子供が小学生低学年くらいか? 係長クラスで、本来ならバリバリに仕事をしている年齢だろうが、押しつぶされていないとも限らない。
子供たちに学費もかかるし、女房は子育てと一緒に、共稼ぎということになる。
もし、女房ばかりに押し付けてしまうと、女房が潰れてしまうだろう。かと言って、梶原に何ができるというのか? 会社では中間管理職という気の抜けない仕事をしているのに、自分にできるだろうか?
反抗期を迎えた子供たちと向き合う時は、家長くらいになっているだろうか? 一番中間管理職できついところだ。
残業手当が出るわけでもないのに、仕事が山積み。会社からは数字を求められる。考えただけで恐ろしい。
子供が一人前になって、成人する頃には、どうなっているだろう? 梶原の想像では、奥さんから、熟年離婚を言われそうな気がしていた。
ただ、その頃には、
「それでもいいか?」
と思っていることだろう。
そのうちに定年になる。
と言っても、今でも年金は65歳から、自分が定年を迎える頃は、果たして年金なんてあるのだろうか?
十数年前に、
「消えた年金問題」
を引き起こしたあの政府が、どんどん、定年を引き上げていって、さらには、年金をやらないような露骨な政策を打ち立てている。
「働き方改革」
などという適当な政策を、うまい表現でごまかそうとしているが、考えてみれば、実にバカな政策ではないか。
本当であれば、本当に改革をしないといけない業種や会社をピンポイントに、しかも早急に対策を打たなければいけないのに、実際にやっていることは、
「できるところから、無難に当たり障りなく対応している」
というだけではないか。
ある意味、どうでもいいことを一生懸命にやって、やらなければいけないことを棚上げにしている。
どういうことかというと、
「やってますアピール」
を国民にして、自分たちの立場を安泰にしたいだけのことであった。
政府というのは、しょせん、
「選挙に勝てれば、それでいいのだ」
ということである。
選挙で上げた公約を、やってますアピールをすることによって、適度な成功を収めたというような内容を数字として残すことさえできればそれでいいのだ。
「政治は予算だ」
と言われているが、
国会で争われるのは、その予算配分ではないか。
もちろん、政策を実行するには、予算がなければ、何もできないのは、小学生にだって分かることだが、それがあまりにも露骨なのが政府だ。
何も知らない子供が大人になって、そんな政府のやり方を見て
「これが世間では一般的な正しいやり方なんだ。何と言っても、政府がやってえいるのだから」
などと言って、世の中の民間会社が皆あんなことをやり出せば、すべてが終わりだ。
何と言っても、民間会社のほとんどは、営利企業である。
「金儲けが正義であり、利益を上げることができない企業は、悪なのだ」
というのが、社会では一般常識になっていて、実際に法律もその理念からできている。
そんな世の中を生きていくかということが問題になってくるのだが、さすがに大学生ともなると、いろいろな人間がいることで、社会に対しての不満を持っている人がたくさんいる。
ただ、これは、
「まだたくさんいた頃」
とも言い換えられるだろう。
大人になるにつれて、その考えは次第に消えていくのだ。
「長いものには巻かれロ」
という言葉があるではないか。
似た言葉として、
「朱に交われば赤くなる」
というものがあるが、前者は自発的で、後者は、やむを得ない場合ではないだろうか?
考えが消えていくのは、どっちの理由が多いのか、正直分からない。しかし、訳も分からずに消えていくというのは、本当に染まってしまうということであり、流されてしまう自分に嫌悪も感じていないのではないかと思うと、これほど気持ちの悪い感覚になることはないだろう。
社会に出て、社会人をまっとうしたら、後は年金での余生を暮らすという考えは、なくなっているかも知れない。
「そんなのは嫌だ」
と思ったとしても、今から40年も経てば、どんな世の中になっているというのだろう? 想像するだけで恐ろしい。
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