摂関主義宗教団体
森本 晃次
第1話 勧善懲悪の男
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年4月時点のものです。出来事の周知時期に入り繰りがあるかも知れません。
K市にある、K大学の法学部に、梶原という男が在籍していた。
彼は、いつも過激な発言をすることで有名で、まわりからは、
「天邪鬼」
と呼ばれていた。
まわりから、天邪鬼と呼ばれることを、梶原本人としては、
「最高の賛美だ」
ということで、気にするどころか、
「称賛してくれているのだ」
と感じていたのだ。
天邪鬼というのは、まわりの人とは違う。あるいは、正反対だということの総称のようなものであり、普段から、
「自分は他人とは違うんだ」
と思っている梶原には、もってこいの称賛だったのだ。
「他の人と同じだというのは、それ以上はないということであり、頂点に上り詰めることはできない」
と言われているのと同じではないか?
もちろん、頂点に上り詰めることが最終目標ではないが、それだけの伸びしろが自分にない限り、生きていくうえでの目標を探したり、目標に向かっての努力をするうえで、あるとないとでは、大きな違いではないだろうか?
大学3年生になった梶原は、政治に対しての不満が爆発するようになっていた。
「どうせ、しょせんは、大学生のたわごとだ」
ということなので、少々過激なことを言っても、別にそれほど、当局から、気にされることはない。
「大学生のたわごとを気にしたり、監視したりするだけの余力があれば、もっと政治を真面目にやってほしいものだ。そもそも、そんな力など、今の政治家のバカどもにあるはずがないがな」
と言って、大声で笑うのが、梶原という男の性格だった。
大声で笑うというか、笑い飛ばすと言った方がいいくらい、彼の言葉には重さと、フットワークの軽さという両面があるような気がした。
というのは、彼のたわごとが、口から発せられたとたんに、一気に拡散され、元々で出所がどこだったのか分からないというくらいに、一気に駆け巡っていた。
しかも、この重さと、フットワークの軽さという、一見両極端な特徴を、梶原はコントロールすることができる。それができるのは、
「言葉を発したその本人だけだ」
ということなのだろうが、言葉に特徴を持たせることができ、しかも、それをコントロールすることができるという、超が付くくらいの本能的な能力を持ち合わせていたのだが、
その能力を今のところ、梶原は発揮できる場を見つけてはいなかった。
能力は能力として身に着けておいて、そのうちに、その力を発揮できる時が絶対にくると思い、日々、能力の訓練を自分なりにしていたのだった。
この能力に最初気づいたのは、高校時代だった。
高校の先生が授業をしていたが、ちょっとしたことを間違えて生徒に教えてしまったのだが、誰もそのことに気づいていなかった。
当の本人である先生は、間違ったことを分かっていたが、
「どうせ、これくらいは大きな問題ではない」
と思ってやり過ごそうとしたのだろう。
さすがに、クラスの中で唯一気づいた梶原は、成敗したのだった。
彼も普段なら、別にこだわったりはしないのだが、あからさまに、生徒をごまかしてやり過ごそうという意思が垣間見えたことで、梶原は、憤慨したのだった。
糾弾しないわけにはいかない男を成敗しただけのことなのである。
彼の成敗はきついものだった。皆の前で正解を発表し、先生に赤っ恥を掻かせることで、先生の自尊心をくすぐり、先生のような小手先で生きている人間には、自尊心を傷つけられると、精神的に歯車が狂ってくることで、こちらから何もしなくても、まわりから信任をなくすような、
「墓穴を掘る」
と言った行動をとってしまうのだった。
そんな先生が晒しものになるかのように、まわりを導くだけで、先生はどんどん悪い方の深みに入っていく。そうすることで、先生は成敗されることになるのだが、そうなった時、まわりの人間は、梶原のことを尊敬するようになる。
しかし、当の梶原は、尊敬されることを喜んでいるようだが、実際には、別の心情を持っていた。
「こいつら、皆自分の意思で動いているわけではなく、結果として出てきたことからだけで判断し、ハッキリとした理由もないので、納得などしていないくせに、この俺を尊敬しているんだ。だから、その尊敬だって薄っぺらいもので、俺が喜んでいるというのは、ただのポーズに過ぎない」
として、まわりに対しては、案外と冷めた目でしか見ていないのだった。
ただ、先生を糾弾しなければいけない、確固たる根拠は存在しないのだが、理由は存在する。
それは、梶原の中にある性格というか、性質のようなもので、それが、
「勧善懲悪」
というものである。
時代劇でいえば、
「水戸黄門」
であったり、
「遠山の金さん」
などがそうであろう。
悪代官から搾取されたりしている庶民を、副将軍(本来はそんな職はなかったのだが)が、諸国を漫遊したり、町奉行が、庶民に化けて、市中を見ながら、数々の企みをただすという、実際にはありえないシチュエーションで描かれる物語であった。
ただ、水戸光圀も、遠山金四郎も実在の人物。ただし、遠山金四郎というのは、実在するが、遠山の金さんのモデルとしては、薄すぎるという諸説もある。そういう意味では、大岡越前守忠相の方がリアルかも知れない。
「大岡越前」
というと、8代将軍、徳川吉宗の徳川御三家である紀伊の時代から付き従っていたので、リアルかも知れないが、さすがに、遠山の金さんのような、市中に入り込んで遊び人に扮していたり、背中に桜吹雪などという彫り物があったりと、破天荒な内容に、日本人は、狂喜乱舞するかのような心境になるのだろう。
ただ、そのもてはやされる根底にあるものは、どんな時代劇であっても、原則として存在する、
「勧善懲悪」
の考え方によるものである。
「善を勧め悪を懲らす」
という意味において、
「すべての悪は、善に勝ることはない」
という、善と悪には、絶対的あ格差があるということを示しておいて、それに対しての態度を厳格にすることで、
「この世をただす」
という考えに至るのであろう。
ただし、実際には、
「何が善で何が悪なのか?」
ということをしっかりと分かっていないと、成立しないことである。
「では、問題は、そのジャッジを誰が行うのか?」
ということになるのであるが、それが、身分の高いもの、たとえば、ここでいう水戸光圀のような、副将軍職であったり、ジャッジするための権力を与えられた人間である。当時であれば、町奉行や寺社奉行と言った、奉行職の人間に任せた物語を作るというのは、当然の流れではないだろうか?
梶原という男に、まだ大学生ということもあり、勧善懲悪をつかさどることのできる権力や、その職を一任された立場にいるわけではないので、自分でできることをするしかなかった。
それが、時として過激な発言になったり、公開での晒しものとするような行動に出ることに繋がるのだった。
ただ、勧善懲悪というのは、ある意味、矛盾を秘めている感覚でもあるような気がする。あくまでも、日本人の一般的な感情によるものであるが、その一番の要因としては、
「日本人は、判官びいきだ」
と言われるところである。
判官というのは、
「律令制における四等官の第三位の官」
のことだと言われていて、まあ、階級のようなものだと言ってもいいのだろうが、その中で、一般的に知られているのが、
「九郎判官」
であろう。
九郎というのは、源義朝の九男ということで名づけられた幼名で、謂れは義経である。
源義経というと、いろいろな伝説が残っている。子供時代の牛若丸伝説であったり、逃亡生活期における、弁慶による、安宅関での、
「勧進帳」
の伝説など、いくつも残っている。
その中でも、平家との戦においての、鵯越における、
「逆落とし」
さらには、平家滅亡の場所となった、壇ノ浦の合戦における、
「八艘飛び」
の伝説など、平家物語や、吾妻鏡、源平盛衰記などと言った歴史書には残っているのである。
それらの中で描かれている義経というのは、
「悲劇緒ヒーロー」
であった。
平家滅亡を夢見て、戦をするために生まれてきたとまで言われた義経が、その大願成就を果たして、兄の頼朝の待つ鎌倉に、
「凱旋」
したにも関わらず、そこの途中で、足止めされ、
「それより東に入ってはならぬ」
と言われ、必死の説得や言い訳もかなわず、結局京都に戻り、今度は頼朝に反旗を翻すことになった。
そもそも頼朝の考えとしては、
「東国武士をまとめ上げている自分の許しなしに、勝手に朝廷から、官位を貰ってはいけない」
という決まりを破り、後白河法皇から、検非違使に命じられたことが、頼朝の怒りを買ったのだった。
頼朝がどこまで本気だったのか分からないが、東国武士の長として、勝手な振る舞いをすることは、兄弟といえども、許されることではない。示しがつかないのだ。
それでも、義経がそのことを理解し、謝ってくれば許しもしたかも知れないが、理由が分かっていないということが、頼朝には許せなかったのだろう。それこそ、
「いさかいの火種になる」
と考えたに違いない。
義経本人にその意識はなくとも、浅知恵の義経が利用されて、御家人同士の争いになりかねないと思い、災いの種は、早めに経っておかなければならないと考えたのだろう。
自分も、清盛の恩情で命を助けられ、助けた相手から滅ぼされることになる平家を思うと、災いの根を絶たなければいけないことを一番肝に銘じているのは、当の頼朝なのだろう。
ただ、義経側から考えると、
「兄のために命懸けで戦って、その恩賞を法皇からもらえるというのに、それを断るのは、失礼に当たる」
と思ったのだろう。
逆に自分がもらうことで、源氏の勢いが増すと思えば。兄は許してくれるはずだと思ったに違いない。立場の違いがここまでの交わることのない平行線を描かせ、それによって、いずれ全国に幕府の権威をもたらすことになるのだが、頼朝は最初から分かっていたのかどうか。(頼朝なら分かっていた気がする。なぜなら、まわりの腹心に、時代を読める人間がいたのだから)
どちらにしても、悲劇は義経の側にある。あっという間に天国から地獄に叩き落された青年は、朝廷と幕府の間の思惑に、まんまと利用されただけの、
「戦の天才」
いや、
「戦においては、神同様」
だったのだ。
ただ、すれ違いというのは、恐ろしいものだ。最初、奥州から義経が伊豆に馳せ参じた時の最初の面会で、頼朝が、
「お前だけが頼りだ」
と言った言葉にウソはないだろう。
確かに馳せ参じてくれた護憲人たちに同じセリフを吐いていたという話だが、兄弟思いだったことは間違いないようなので、その言葉は真意だったことだろう。
それなのに、立場が変わればここまで違うというのは、ある意味悲劇である。
頼朝は、元々流人であったものが、東国武士に祀り上げられる形で、
「頭領」
となるのだが、そこには、烏合の衆である連中を結束させる象徴としての権威が必要だった。
それゆえに、権威を絶対的なものにしなければならない宿命を帯びていることから、譲れない立場があったのだ。これを犯してしまうと、頭領ではいられなくなり、やがては、集団は仲間割れを起こし、収拾がつかなくなるのが目に見えているからだ。
そのためには、見せしめを作り、その人物を人身御供にするかのようなやり方も辞さないことで、
「地盤を築く」
ということが、最大の目的だったのだ。
だから、実際の平家討伐を弟たちに命じたのだ。
もう一つ、鎌倉に残った理由には、奥州藤原氏に、背後から襲われるという危惧もあったからだ。
鎌倉を留守にしている間に、奇襲を掛けられてしまうと、どうしようもない。まだ、体制も盤石でもない、ただの地方勢力の一つにしかすぎない鎌倉だったからである。
そういう意味においては、義経が鎌倉の意図を理解できず。鎌倉と敵対したおかげで、朝廷に、
「義経追討の院宣」
とともに、諸国に、守護、地頭を置くということを認めさせたのだからである。
守護、地頭を各地に設置したのが、1985年。今まで、
「いいくにつくろう鎌倉幕府」
として、幕府成立年が、1192年だということを誰もが信じて疑わなかったことが、今では、
「それは違うのではないか?」
ということを言われるようになり、実際には、
「守護、地頭を諸国に設置し、武家政権を、全国に波及させたこの年を、鎌倉幕府の成立年とする」
という、
「1185年成立説」
が、今では最有力となったのである。
つまりは、義経という、鎌倉方から見れば、
「反逆者」
というべき、男の存在が、武家政治を諸国に示すことになり、幕府の全国統一に大きな貢献があったのだとすると、義経の存在は、幕府方には、ありがたかったと言ってもいいだろう。
そういう意味では、義経は、
「兄に誤解されて。最後は打ち取られた悲劇のヒーロー」
という側面よりも、
「幕府勢力の成立のために、犠牲になった悲劇のヒーロー」
というのが、本当の見解なのだろうが、どちらにしても、悲劇のヒーローであることに変わりはないのだ。
鎌倉時代というのは、封建制度の始まりである。それを確立させたのが、頼朝率いる東国武家集団だということであれば、朝廷だったり、東国武士を知らない義経などは、相当混乱し、そこには、旧態依然の体質を考える連中との軋轢が、かなり激しかったのではないだろうか?
それが鎌倉と朝廷であり、さらに板挟みになって、結局滅ぼされたのが、義経だったということであろう。
「もし、義経が戦国時代に現れていれば」
と考えたりもするが、参謀としての実力は十分だったことだろう。
歴史に、
「もしというのは、禁句だ」
と言われているが、発想するのは楽しいことである。
パラレルワールドという発想もあることだし、もし違った歴史が存在していたということを、フィクションが許される世界であれば、妄想することも許されるに違いない。
義経、頼朝の関係は、書物として残っていて、平家滅亡などの悲劇的な時代だったこともあって、クローズアップされているが、実際には、どの時代にも起こりやすいことなのかも知れない。
兄弟が、自分たちの意思に反して、争わけなればならなくなるという話は、歴史に限らず、小説やドラマなどでは、比較的描かれるシチュエーションではないだろうか?
それを考えると、梶原が考えるような、
「勧善懲悪の世界」
というのは、ありがちではあるが、
「どこからどこまでが、善で悪なのか?」
という問題にかかわってくるのではないかと思えるのだった。
だから、梶原は歴史の勉強をするのが好きだった。特に高校時代までは、歴史を、
「暗記物の学問だ」
と思っていたことで嫌いだったのが、大学に入って見方が少し変わっただけで、本当に見え方が違ってくるなんて、思いもしなかった。
それこそ、前述の、
「もし」
という考えであるが、これは、歴史上のある一点に焦点を当てて、その時に、
「違う道があったとすれば」
という発想になるのである。
しかし、その、
「もし」
というのが、発想の起点であり、その時に何を考えたか、そしてそれに対してどう動いたのかということを考えるのが歴史という学問だと感じた時、
「歴史を勉強してみたい」
と思ったのだ。
前であれば、歴史を勉強したいと思うとすれば、
「勉強しておいて損はないと思うんだろうな」
と感じた時、勉強するということに、気分が萎えてきて、頭が冷めてしまうのではないかと思ったのだ。
だから、きっと真面目に勉強することはないだろうと思い、勉強してこなかった理由も適当に言っていたのだ。
ただ、これは自分に限ったことではなく、歴女のように、嵌っている人間以外は、ほぼ、勉強など、真面目に取り組んでしようとは思わないと感じていた。
それだけ、歴史という学問は、両極端なのだろう。
好きな人は、ハンパなく勉強する。その理由は。
「歴史という学問には深みがあり、勉強すればするほど、疑問が湧いてきて、永遠にやめることのできないルーティンのようなものだ」
ということではないだろうか?
だから、勉強をハンパないくらいにしていて、果てしないその先を見ているということが分かってくると、第三者であっても、一度は引き付けようとするのが、歴史という学問なのだと思っている。
実際に歴史を一生懸命にやっている人がどれだけいるのかというと疑問である。
最初に真面目に取り組もうと思っていた人でも、中には挫折する人や、
「歴史を勉強するくらいなら、もっと実用的な勉強をした方がいい」
と思っている人もいて、歴史から距離を置く人も少なくないだろう。
それでも、歴史を忘れられずに、また帰ってくる人も、多いのではないかと思うのだった。
歴史に一度惹きつけられた人は、そう簡単に抜けられないのは、
「その奥の深さにあるのではないか?」
と思うようになったからだと思うのだった。
梶原も歴史の勉強をしていて感じるのは、
「好きな時代を切り取って勉強しているのはいいが、歴史は続いているので、好きな時代だけを切り取るというのは、ある意味不可能なんじゃないか?」
と考えるようになった。
まるで、
「地下鉄は、どこから入れたんだろうね?」
という漫才のネタに、その真意が隠されているかのように思うのだった。
そんな歴史と、勧善懲悪というものは、切っても切り離せないものである。だから、時代劇のような、町内のヒーローとしての、
「水戸黄門」
や、
「遠山の金さん」
のような発想が、江戸時代という歴史上で、天下泰平の時代に生まれたのである。
ただ、勧善懲悪には大きな問題がある。特に歴史という学問には、
「永遠のテーマ」
と言われるものではないだろうか?
というのは、
「歴史における善悪というものは、どこで別れるのだろうか?」
という考え方である。
それは、正義と悪との境目と同じことであろう。善の反対が悪であり、その悪の反対が、正義だとすれば、善と、正義は、同じ意味だと考えていいかも知れない。
ただ、歴史認識や、その時代の支配者によって、歴史の事実というものは、捻じ曲げられてしまったり、事実とは異なる伝承が伝えられたりしていた。それは、歴史がクーデターの繰り返しであり、前支配者の歴史を捻じ曲げなければ、政権を掌握できないという場合があるからだ。
例えば、江戸幕府などは、前政権である豊臣氏を滅ぼしての権力掌握だったので、豊臣政権時代のものをことごとく壊したり、豊臣政権時代の配下のものを亡ぼしたりと、
「現政権の維持」
を目的とすることで、歴史認識を捻じ曲げるなどということは、政権が変わったら、普通に行われていることだ。
だから、歴史上現存している書物であったり、建造物だけを見ていると、見誤ってしまうこともないとはいえない。それだけ歴史というものは難しく、解釈に困るのだ。
ここ半世紀の間に、それまで信じられていた、
「歴史上の真実」
とされてきたことが、
「実は違った」
ということも多いだろう。
歴史の善悪についても、だいぶ見方が変わってきている。
「今まで、悪人だとされていた人が、実は悪ではなく善であり、正義だとされていたものが、実は悪だった」
ということも、言われるようになってきたのだ。
歴史上の、悪という感覚に、さほど、変わっていないとは思うが、善、正義と呼ばれるものの解釈が時代によって変化したり、
「何をもって、善悪の対象とするか?」
という考え方が変わったこと、さらには、発掘が進んだり、科学の進歩によって、今まで言われてきた発掘物のもっと正確な成立時期などが、新たになることで、解釈も変わってくるのだ。
それらの歴史認識と、勧善懲悪の考え方というのは、矛盾したところが結構あるのだろうが、これからも現在進行形として進んでいく、科学の発展によって、変わってくる歴史解釈が、さらなる矛盾を産んでくるのかも知れないが、
「歴史の王道」
と言われるような、常識というものの、根本的な解釈への変革が、本格的に行われる時代が近づいたのかも知れない。
そうなると、歴史に世間の目がクローズアップされることになるだろう。そうなれば、
「にわか歴史ファン」
なる連中が増えて、歴史に興味を持つ人も増えるかも知れない。
にわかというのは、ありがたいことではないが、ブームが去った後に残った、ふるいにかけられた後に残った、本当の歴史好きが、元々よりも増えていれば、歴史ブームが来ることは悪いことではないだろう。
にわかのようなハイエナ連中には、しょせん、歴史を勉強する資格もないのだろう。
「本当は、勉強すればするほど、果てしない興味が、永遠に続くというのに」
と、思わざるを得ない。
梶原が歴史を好きな理由はそのあたりにあり、そんな時代が、歴史を作ってきたのであろう。
「勧善懲悪」
これは、歴史を勉強する、梶原の基本的な考えだと言ってもいいだろう。
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