執事飼いっ!

七四六明

執事飼いっ!

 少年はある日、三人の少女に拾われた。

 当時の少年は言葉を知らず、文化を知らず、他者を知らず、自身が何者であるかも知らなかった。

 少女達は自分達に言い聞かせ、両親を説得し、少年に納得させ、彼を迎え入れた。

 それがもう、約十年前の出来事である。


胡蝶こちょうお嬢様。朝です、起きて下さい。胡蝶お嬢様」

「……はぁ。今日も今日とで、今日と言う日がやって来てしまったのね。おはよう、エノ。今日は学園行くの止めて、エスケープしない?」

「つまり僕に、お嬢様を連れての逃避行をしろ、と。では……まずは現実逃避を始めてるお嬢様の頭を、僕の下まで呼び戻すところから始めましょうか」


 変声期を経て、尚も若々しさを残した声でされる耳元での囁きは、東雲しののめ家長女、胡蝶の体をブルっ、と震わせ、耳まで真っ赤に紅潮させた。


「っぅぅ! いい! いいわ! ナルシストイケメンの目覚ましイケボ! 完璧よ、エノ!」

「ありがとうございます。ではお嬢様、御支度を」


 次の部屋。


 頭までスッポリ布団を被る相手の足元から、同じ布団に潜り込む。

 目を覚ました彼女は自分を真っ直ぐに見つめる美青年を見つめると、一瞬で顔を真っ赤に染めて跳ね起きる――と思いきや、力強く抱き締めた。


 若々しい青年の体から発せられる体臭をめいいっぱい吸い込んで、恍惚の表情をとろかせる彼女の顔を見上げて、エノはまた声を潜める。


「おはよう、椿つばき。僕の臭いはどうだった?」


 さながら、寝ていたところを自分が襲っていたら起きてしまって、けれど怒鳴られる訳でなくやんわりと嗜まれつつ、しかしわざと皮肉な口調を選んでいる悪戯少年のような言葉選び。

 という風にして、と、昨日本人から言付かったので、実行したまでの話。


「エノ君に叱られてしまいました……椿は、悪い子です」


 と言いながら、次女、東雲椿の顔色は満更でもなさそうである。


「おはようございます、椿お嬢様。そろそろ登校の時刻ですので、身支度を」


 最後の部屋。


 昨晩はまた夜更かししたらしい。

 テレビの前にゲームのコントローラーと、大量の攻略本が散乱している。


 エノはそれらを片付け、部屋を散らかした張本人の胸元へ、ゆっくりと身を落とした。

 グフ、と、踏まれたカエルのような声を上げる少女は文句を言おうとして、自分の胸の中で目を潤ませるエノの甘えるような表情で、何も言えなくなった。


「起きて、牡丹ぼたんお姉ちゃん。早く起きて、僕と遊ぼ?」

「尊さマックス!」


 エノを抱き締め、豊満な胸の中に顔を埋めさせる三女、東雲牡丹は末っ子故の願望が朝から叶った事に歓喜し、眠気に満ちていた状態から一気に覚醒した。


「あぁ、ごめんね! お姉ちゃん起きるからね! 身支度するから、ちょっと待っててね!」

「うん。早く食堂に来てね、お姉ちゃん」

「はぁい。待っててね、私のエノきゅん」


 麗才学園三年生、生徒会会長、東雲胡蝶。

 二年、風紀委員副委員長、東雲椿。

 一年、飼育委員会委員長、東雲牡丹。


 一同、集結。


「胡蝶お嬢様、ハーブティーです。椿お嬢様、珈琲です。牡丹お嬢様、オレンジジュースとリンゴジュース、どちらになさいますか?」

「リンゴ!」

「あらあら、牡丹はまだまだ子供ね」

「お姉様だって、リンゴジュース好きではありませんか」

「……エノ」


 呼ばれたエノは切り替える。

 そっと胡蝶の側に近付き、耳元で。


「胡蝶お嬢様……どうぞ朝食をお召し上がり下さい。もし遅刻しましたら、僕がお仕置き、してしまいますよ」

「っぅぅ! 二人共! 私達東雲家の令嬢に、遅刻は許されません! すぐに朝食を取り、支度を整えなさい!」

「お姉様……」

「はぁい」


 麗才学園への当校は、大体が車だ。その大半がリムジンだ。

 まるでコミックのような世界が、当学園では毎日繰り広げられている。


 が、彼女達はそうした見栄の張り合いに参加しない。


 三姉妹揃って、当然の如く徒歩当校。

 学園まで近い事もあるが、車など使わなくても彼女らの威厳は充分に保たれる。


 才色兼備、文武両道の具現化。長女の胡蝶。


 学園ナンバーワンの頭脳を持つ秀才。次女の椿。


 スタイル抜群。元気溌剌女子。三女の牡丹。


 三姉妹揃って歩く姿は、例えるのならば百合の花。

 立ち姿は芍薬。座れば牡丹。

 儚いくらいに美しく可愛らしい三姉妹は、言わずもがな、学園の頂点に君臨する。


 だが彼女達以上に異彩を放つのは、彼女達以上に整った容姿。整った顔を持つ一人の青年。

 女子学園である麗才に入れる、唯一の男性――執事の中でも最年少。その容姿はまるで人形のよう。この世ならざる者であるかのような美青年。


 青年の名はエノ。

 三姉妹さえ、素性も何も知らない謎の青年。


「あら、また会いましたわね! 東雲三姉妹!」


 麗才学園学園長の娘。宇留鷲うるわし麗華れいか

 東雲三姉妹に唯一対抗心を燃やす女。


 そして毎度三姉妹に、エノにコテンパンにやられてしまう、周囲から噛ませ犬と呼ばれてしまう令嬢である。

 もし三姉妹がいなければ、彼女が学園のトップだったろう、悲しき人だ。


「またその子……随分と可愛がっていますのね? その子供。執事なんて難しい役割が務まるのかしら。ねぇ、セバスチャン。クロフォード」

「えぇ、まぁ。執事の仕事をそう簡単に出来ると思われるのは、心外ですな」

「どうでもいい事ですが……彼が私達と同じ立場と言うのは、癪ですね」


 片や執事としてのプライドが許さないのだろう、この業界で長く働いてきた老木。

 片や生まれてこの方執事としての生き方を叩き込まれて来たが故に、ぽっと出の新人が注目を浴びている事が心底嫌いな男。


 執事の世界でも二大巨頭とされる二人の存在は、果たしてエノの虹彩にどう映っているのか。

 それは、三姉妹さえ知らぬ事。


 だから、腹が立っているのは自分達だけなのかもしれない。

 そう思えば、勝手に憤るのは筋違いだろうと我慢していたのだが、毎日毎日突っかかって来られると、さすがに耐え難い。


 胡蝶が咳払いし、エノの両肩に手を置いて自身の前を行かせる。


「誰が何と言おうと、エノは私達の執事よ。あなたには渡さないわ」

「要りませんわ、そんな役立たず。めでられるだけの人形なんて、さっさと卒業しなさいな」


 オーホッホッホ、と、テンプレな笑い方で去って行く宇留鷲と、両脇の執事。

 三姉妹は苛立ちを籠めた眼差しで見つめるが、エノは三人を見上げて、それぞれの目を見つめ。


「お嬢様。お嬢様達は、役立たずなんかじゃないですっ! 文武両道、才色兼備の完璧なお嬢様達です! 元気を、出してください……」


(((健気……っ!)))


 自分が馬鹿にされているだなんて、微塵も思っていない。

 そんな子に、誰が真実を教えようだなんて残酷な事が出来ようか。

 三姉妹は抱き締め、頭を撫で回し、手を取って握り締めた。


「よしよし、可愛い可愛い私達のエノっ! そうよね! 大丈夫よ、大丈夫!」

「私達が役立たずなんて事はあり得ません。でもそれは、エノも当然です」

「エノきゅんは私達の天使だし! 役立たずとかあり得ん! そんなエノきゅんがいる私達も、役立たずとかやはりあり得んし!」

「お嬢様方……はい。お嬢様方は、素晴らしい方々です……!」


(尊いっ……!)

(国際保護対象にすべき……)

(帰ったらエノきゅんの新作抱き枕カバー作ろう……!)


 そうして三姉妹の寵愛を受けるエノだったが、その目は冷ややかで、光の一切を閉ざしていた。


  *  *  *  *  *


「セバスチャン、喉が渇きましたわ」

「畏まりました」


 廊下に出ると、対峙する優男。

 だがその目、顔つきには、朝に見た無垢な青年の面影はない。


「宇留鷲家執事長、セバスチャン様。一分だけ、僕に時間を下さいますか?」

「何でしょう。君のような役立たずに掛ける時間は、一分でも惜しいのですがね」

「何、実際にはそこまで掛かりません。今のはただの目安でして……ただ……」


 セバスチャンが両膝を突く。

 何とか立とうとするが、体がまるで動かず、言う事を聞こうとしない。

 そして気付けば、十歩近く距離があったエノが自分と一歩もない距離まで迫って、光のない目で笑みを浮かべていた。


「あぁ、これなら……十秒も要らなかったですね」


 数分後、クロフォードは麗華に言われてセバスチャンを探しに行こうとし、すぐに見つけた。

 廊下の端に寄せられたセバスチャンは両膝を突いた体勢のまま、ずっと天井を仰いでいる。


 声を掛けるため肩を叩こうとして、クロフォードは停止した。


「執事長……」


 セバスチャンは打ちひしがれていた。

 絶望に呑まれていた。


 理由は、足元に落ちているネクタイ。

 仕える主に恥を掻かせぬため、自らの身だしなみには一切の油断を許されない執事という立場が、ネクタイを奪われた挙句、捨てられる。これ以上の屈辱はなく、経歴が長い人ほど打ちのめされる絶望は大きい。


 今、セバスチャンは長年守って来たプライドを穢されたショックで、立ち上がれずにいた。


「おや……今から吊るし上げようかと思っていたのですが……こらえ性のないお嬢さんですね。三分も待てないだなんて」

「――! てめぇ……執事長襲ったのはてめぇか」

「襲ったなんて人聞きの悪い。僕はただ、汚名を挽回したく思った次第でして……宇留鷲お嬢様の一見解とはいえ、僕が役立たずだと、東雲家の品格に関わって来るんですよ」


 クロフォードは袖からトンファーを取り出し、振り払う。

 が、エノは小さな体躯を利用して下に潜り込み、迫って来たクロフォードからネクタイを奪い取った。


 事態に気付いて、麗華が戻って来るまでに取り返せねばと振り返った時には、エノの姿は視界にない。

 が、ふと見下ろすとエノがいて、見下ろしたばかりの下顎を持ち上げられて宙に浮き、足を払われて背中を打ち付けた。


 大きな音がして振り向き、教室から出て来た皆が見たのは、完全に意欲を失った老人と、打ち付けた背中を丸めたり反らしたりしてもがく、若者の姿。

 双方ネクタイを取られ、第一ボタンを取られた様は執事と呼ぶには抜けていて、とても令嬢を守れるとは思えなかった。


「セバスチャン?! クロフォード?! 一体何をしてますの?! まさか、こんな……こんな……こんな子供に、あなた達が負けたと言うの?!」

「こんな子供とは失礼な。あなたがただ、エノの実力を見誤っていただけでしょう」

「東雲胡蝶……」

「胡蝶お嬢様」


 駆け寄ったエノを受け止めた胡蝶だったが、その顔に朝のような喜びはない。

 エノの視線に合わせてしゃがんだ彼女は、小さく整った顔を包み込んだ。


「エノ。あなたが何を思い、行動したのか。私は理解しているつもり。だけど、これはやり過ぎね。例え東雲の名を守ろうとしたとしても、相手を悪戯に傷付けてはいけないの。相手を傷付け、喜ぶ人は加害者も同じ。私達は、あなたにそんな人になって欲しくないの。だからエノ。今回はあなたを褒めません。いい? わかった?」

「……はい、胡蝶お嬢様。出過ぎた真似をしました」

「と言う訳で、今回の件はお互い無かった事にしましょう。その方がお互いに都合がいいと思いません? 宇留鷲麗華」

「……わかりましたわ」


 以後、宇留鷲麗華がエノを馬鹿にすることは無くなった。

 一部始終を見ていた人達はエノの凄さを語り、噂を聞いた者達はその場を和平で治めた胡蝶の懐の深さをこそ凄いと言った。

 他の二人の東雲は、噂の真相に関して口を閉ざしている。


 執事は主のために尽くすもの。

 しかし、東雲胡蝶の見解は他二人とは違う。


 当時のエノは、事の結末を見据えていた。

 自分がやり返したところで胡蝶が来て、場を治めてくれる事を。最悪の事態に陥らない事も。そうしなければ、自分達の顔に泥が塗られると胡蝶自身が考える事も、全て、全て理解した上で行動していたと思う。


 結果、エノは汚名を返上した。

 しかし、宇留鷲家の名に泥を塗る事もなく、両家に軋轢を生む結果にもならなかった。

 あの場で麗華が胡蝶の言い分を受け入れなければ、麗華含めた宇留鷲家は、日本有数の財閥の一つである東雲家に無謀な喧嘩を売らねばならなかったから、胡蝶の提案に乗らざるを得なかったのもまた、エノの思惑通りなのだろう。


「私達が雇ってるつもりで、私達は利用されている……全く。どっちが飼い主か、わかったものじゃないわね」


 けれど、それでいい。

 それがいい。


 かつて自分達を殺し欠け、結果助けたエノという青年の在り方は、それで正しい。

 そんな事を考えながら、胡蝶はエノを呼ぶため鈴を鳴らす。


 彼女の思惑を悟っていたが如く、一分と掛けずにノックしたエノを部屋に入れた胡蝶は、うんと両腕を広げて、小さな体を招き入れた。


「エノ! また囁いて!」

「畏まりました、お嬢様」

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