第1話 不完全な距離⑦
――シンクライで人は変わる。
自然と目が覚めた。
「ぬああああぁぁぁ……」
すでに同期された記憶に、悶える。
『どうしました、サササさん?』
わざわざ、シイナが勝手に呼んできた名で私を呼ぶ。
「シンクまで揶揄うなし! どうしたって、こっちが聞きたいよ!」
『あなたの記憶ですよ』
「いや、そうだけど、そうだけどさ!」
『同期を禁止すればよかったじゃないですか』
「…………それは違うというか、なかったことにしたくないというか、あっちは同期するだろうし、ズレを生じさせちゃ問題なし」
『キスはできなかったですね』
鮮明に覚えている。
シイナの顔が目の前に近づいてきて、吐息が届くぐらいの距離までになって、そして、間抜けな音が鳴った。
拡張時間内での身体接触の禁止。
自分に、こんな風に禁止ルールが適用されるとは思わなかった。
『したかったですか?』
「うるさい!」
『瞬間までの映像ならいつでも再生できますよ』
「しない、しない、削除!」
削除といったのに、『保護付きで保存しときますね』とシンクが歯向かった。
これが本当に私のデジタルクローンなのだろうか。私がこんな振る舞いを望んでいると思いたくなかった。
× × ×
家を出ても、なんだか落ち着かなかった。
ライトレールで学校に向かいながら、昨日の写真を眺める。
フリスビーでシイナがあらぬ方向に投げて必死に追いかける私。サンドイッチを嬉しそうに頬張る私。隣に寝転び穏やかな表情の私。花火で追いかけられて怒る私。海辺を歩く私たち。
これが自分なのか? と思うほどに表情が豊かで、笑顔が多かった。
……どの自分も楽しそうだ。楽しかった。あぁ、楽しかったさ! めちゃくちゃに楽しかった。同期をしないことなんてありえなかった。
楽しかっただけではない。ただの公園での時間だったのに、今までで一番充実した時間だった。
一緒に過ごした時間を忘れることができないし、彼女の言葉に心が救われた。
「急ぎすぎなんだよ、カズサは」「いくら時間が増えても17歳は17歳だよ」「カズサは偉くなりたいの?」
……シイナの言う通り、私は考えすぎだったのかもしれない。
偉くならなくたっていい。あの父親のことなんて気にせず、出ていった母親のことをいつまでも考えていても仕方がないんだ。
私は私だ。
ゆっくりと考えていこう。私なりの拡張時間の使い方を。
「……っ」
ガラス越しに映る自分を見て、つい驚いてしまった。
気づいたら、唇を指で触っていた。
彼女と一緒の時間を過ごしていきたい、なんて思ってしまう自分がちょろすぎる。苦笑いを、ガラスの向こうの自分に返した。
× × ×
ライトレールの扉にぶつかることもなく、今日は学校に遅刻しなかった。
扉を開けると誰もいない。珍しく教室に1番乗りだった。こんなに早く来るなんて時間の無駄だ、と昨日の自分に会ったら怒られてしまいそうだ。
誰もいない教室で、これから始まる鼓動を感じる。ただ授業が始まるだけなのに、なんだか何かが始まりそうな予感がしてしまう。シンクライに影響されすぎだ。シイナの言うとおり、これじゃ心がパンクしてしまう。嬉しさで、喜びで、ワクワクで?
「あれ? 早いねカズサ」
二番目にミヤがやってきた。成長すると期待されて買った制服は少し大きくて、だぼだぼ感が可愛らしい。そう言ったら怒られてしまいそうだけど。
「おはよう、ミヤ」
「どうしたの?」
「どうしたのって、早く来ただけだよ」
私が早く来るだけで「どうしたの?」と言われる不真面目さ。別に学校をサボったことはほとんどないのだが、そう思われてしまうらしい。出席率が低いのは自覚している。偉くなりたい、なんて行動とはかけ離れている。認められたいなんて本当に思っているのだろうか、と自分を笑ってしまう。
「なんだかカズサ、上機嫌だね」
……上機嫌に見えるのだろうか。自分ではポーカーフェイスでいられていると思ったのに、なかなか上手くいかないものだ。
「また世界のどこかに旅行した?」
「ううん、今日は旅行じゃなくてね」
「じゃなくて?」
「えーっと……」
はて、ミヤに何かあったことを話していいものだろうか。話すことをためらってしまう。昨日のことを話すには、まずはシイナの説明をしないといけない。ミヤには、シイナがまだ水かけ女の、嫌な奴という認識で止まっているだろう。
「二人とも早いな」
何から話そうかと思っていたら、ムツがやってきた。
「特にカズサがこんな早いなんて今日は天気が荒れる」
「悪かったね、雪でも降りそうで」
「降るのは金粉なのかもしれない」
そんな超常現象が起きてたまるか。皆、喜んで拾うだろう。シンクライでもありえないこと常識外のことだ。私が朝早く来るだけでひどい言い様だ。
「で、どうしたのカズサ? そんなに嬉しそうで、何かいいことがあったの?」
「昨日は旅行じゃなくて、公園にいったんだ」
二人ともハテナマークが頭に浮かんでいた。
さすがに説明を省きすぎだ。公園に行って上機嫌なんて、「急にどうしたの?」と思われている。しかし、内容を全部話すには色々と恥ずかしいこともあって、躊躇してしまうところがある。
「で、続きは?」
「公園に行ってどうしたんだよ」
「ごめん、黙っちゃって。何から話したらいいのかと思って……」
「サササ!」
私と彼女しか知らない名前が、私のあだ名が呼ばれた。
声のした方を急いで振り向き、思わず立ち上がってしまった。
金色の髪は廊下からの光を浴びて、さらにキラキラして見える。平均よりは大きい背丈に、肩まではかからない髪の毛。細くもなく、けど太くもない足。
その表情に敵意はなく、優しく笑っていた。
「シイナ」
教室後方の扉に彼女がいたのだ。
シンクライで同じ時を過ごした、御浜シイナが教室に入ってきた。
「サササ、昨日、今日ぶり?」
「……その呼び方はシイナなんだね」
「サササは本当に同級生なんだね」
「サササじゃないし、カズサ。で、どうかした?」
彼女がこっちに寄ってくるだけでドキドキした。
会話は自然にできているだろうか。
シンクライでのことがあったから、顔をまともに見られない。この恥ずかしさは確かで、シンクライはやっぱり現実なんだと体が理解してしまう。
「忘れ物をしたんだ」
「忘れ物?」
何のことか思いつかなかった。会った時に何かを無くしてはいないし、シンクライではなくしようがない。
けど、彼女はもう一度言ったのだ。
「そう、シンクライでの忘れ物を取り返しにきたんだ」
そういってシイナが私の顔を両手で挟み、正面を向かせた。
そして、グッと寄せられ、
「……っ!?」
唐突に、息をすることを奪われた。
あまりのことに脳の処理が追い付かない。
時間は1秒ぐらいだったかもしれないが、もしかしたらあの瞬間、時間が拡張されていたのかもしれない。
そう思えるほどに、この時間は永遠で、不意打ちすぎて、心の許容量を一瞬で超えた。
「ぷはっ」
ゼロ距離だったシイナが私と接触していた唇を離し、ペロッと唇を舌で舐めた。
「これで完全でしょ?」
そういって、悪戯に笑ったのだ。
起きたことがやっと理解でき、顔が沸騰したかのように真っ赤になった。
ミヤとムツが何やら驚いているが、それどころではない。
そう、彼女は証明したのだ。
シンクライは不完全だと、彼女が証明した。
今度はシンクライに邪魔されず、警告音もならず、私に口づけた。
不完全性を、私は認めるしかなかった。
でも、思うんだ。だからといって反対の証明にはならない。
――現実だって不完全だ。
私とシイナの時間がこの時、確かに加速しだしたのだ。
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