第1話 不完全な距離③
椅子の背に体重を預け、何もない天井を見上げる。
気を紛らわそうと勉強しようとしても、全く集中できない。
浮かぶのは今日言われた台詞。
「それがお前の考えか?」「シンクライで世界中を旅して、知ることができても、別にお前はすごいことにならないぞ」「君の言うこと間違っているよ」
その通りだ。その通りすぎるんだ。
私が一番わかっている。
時間が拡張しても、どんなに便利になっても私は何でもなくて、何も持っていない。シンクライなんて、宝の持ち腐れだ。
『カズサ、ストレス値がイエローゾーンです。直ちに、休憩することをおススメします』
「……もう嫌というほどシンクは的確だよね」
仕様だとしても、駄目な私を見捨てない。
だから憎めないし、嫌いになれない。
「シンクライなんて凄くないよ」と彼女は言ったが、それは違う。弱い私が唯一縋れる存在だ。シンクライがあるから、まだ私は私を諦めずにいられる。
シンクライならこんな駄目駄目な私を変えてくれる、という淡い希望。
だって、シンクライは凄いのだから。シンクライは概念を変え、世界を変えてきた。その進化は止まらないだろう。
ベッドに寝っ転がり、空間ディスプレイをいじる。シンクの言う通り、今日はもうお休みすることにしよう。
せめて拡張時間ではいい思い出を味わい、目覚めの良い朝にしたい。
「ねえシンク。いい旅行先ない? 有名どころは行きつくしちゃってさ」
『ベネチアの水路でゆったりとゴンドラに乗るのはいかがでしょうか』
ベネチア。聞いたことはあったが、行ったことがない街だった。
ざっと調べると、思い浮かべていたイメージの街だった。シンクの言う通り、他の場所にはないロマンがあり、ゴンドラに乗りながら街を堪能するのはのんびりできそうだ。
シンクの提案を承諾し、眠りにつく。
『良い体験を』
けど、その日の体験は忘れられないものになったのだ――。
→ → → → → 拡張時間 → → → → →
水の都、ベネチア。
温暖化の影響で10年前に水が干上がってしまったかつての観光地だ。だが、このシンクライ空間では水がしっかりと張り巡らされている。
シンクライがいけるのは現在の時間軸だけではない。シンクライが稼働し始めてから存在した場所、過去にいけるのだ。過去を改変することはできないが、在りし日の世界を味わうことができる。シンクライがこの先ずっと続けば、人は歴史を肌で感じることができるようになるだろう。
「アッカデーミア橋をくぐっていきます」
知らない言語のはずなのに、頭に言葉がすんなりと入ってくる。勉強のために自動翻訳機能をオフにすることもできるが、満足した旅行になるために切っていない。実際に旅行するよりもシンクライで旅行したほうがずっと快適だろう。何も不自由なく、不便なく、旅行を楽しみ、自身の糧とすることができる。
……あぁ、わかっているんだ。その便利さが私を駄目にしていることも。シンクライが凄くても、世界がどんなに身近になっても、私は凄くない。
どんなに体験しても、私の中で変化が起きない。
ただただ観光して、見たことある光景が増えて、なんとなくな知識が増えて、凄くなった気がしているだけ。
それは良いことだ。悪いことではないのだけど、それだけではシンクと私は変わらない存在、いや私の方が劣っているだろう。私のライフログを持ったデジタルクローンの『シンク』の方が有用だ。私、としての価値がない。自己、自分だからできることがないのだ。
私は、私だからを見つけたい。
だから、こうやって自分探しの旅を気楽に気軽にシンクライで体験してしまってる。……スリルのない旅行に意味があるのだろうか。
だが、スリルのある旅行はシンクライではできない。シンクライには『禁止』の三原則がある。
・生死にかかわる体験、および精神に多大な影響を与える体験の同期禁止
・他者のシンクとの同期禁止
・亡くなった人間のシンクは直ちに消去する、シンク単体保存の禁止
他にはシンク内で人と会うのは週一回までだったり、身体的接触は制限されていたり、何かと制約はある。
完全なる自由では、ない。
それでも、時間拡張の有益性の方が勝る。シンクライには完全ではないが、自由があり、私たちの現実の時間に自由、余裕を与える。
アッカデーミア橋の下をゴンドラがくぐっていく。
橋の上には多くの観光客がいて、日本人の姿も何人か見えた。
その時、ゴンドラが揺れた。
「……え」
いや、違う、揺れたのは私? いや視界?
気づいたら体が平衡感覚を失った。
ザザっと音がし、ノイズが走る。
痛い。
右腕に痛みが走る。
「いたいたいたあい」
痛みに腕を押さえるが、痛みは止まらない。
何が起きたのかわからない。
見ると、押さえていた手に血がべっとりとついていた。
誰の血? 私だ。私の腕から出血している。いつ? どこで? 何が起きたの?
混乱と痛みが頭を支配する。
状況を整理しようにもまともに考えられない。どういうことなのか。
「……っ!?」
そしていつの間にか、ベネチアにいたはずなのに世界が変わっていた。
青空は消え、真っ黒な空間だった。
ゴンドラにいたはずなのに、足がつく場所にいる。
空は暗く、周りにはビルの灯りが仄かに見える。
風が強い。高い場所みたいだ。
ここはどこかの屋上? 高層ビルの屋上、なのか?
痛さに思考がうまく働かない。理解できないことが多すぎる。
「どこなの、ここ……?」
泣き言をこぼすと、音が頭に響いた。
カツン。カツン。
いや、違う。頭じゃない。聞こえるのだ。足音が近づいてくる。
前に見えたのは黒い人影。黒い人影が私を見下ろしていた。顔はよく見えなかったが、影の大きさはそれほど大きくなく感じる。
「誰?」
「…………」
影は答えない。
「どこなの? ここは私の時間だ」
誰にもシンクの時間を共有していない。勝手に侵入してくるなんてありえない。
ありえないはずなのに、ありえないことが起こっていた。
「何をしたの……?」
目の前の人が腕を上げ、私に向けた。
破裂音とともに風を切り、そして右腕に掠った。
鉄の塊。
「っつあ」
血が飛び散る。
知識はあるが実際に見たのは初めてだった。実際? 何なんだこれ?
鉄の塊に続き、世界が傾いた。
宙に浮いている。
屋上だったはずの場所が遠くに見える。世界が傾いたことで、私は足場を失い、空から落ちているのだ。
どこに? 地面? 地面はどこなんだ。
「ああああああああ」
左手を必死に伸ばすが、届くはずがない。
何も掴むものがない。
屋上だったところに人がいた。
そいつは私を見て、笑っていた。
遠いはずなのにわかった。笑っていたのだ。
「何なの、あああああああ」
境界が迫る。
空を失う地面という境界。
私は絶叫し、そして、
プツリ。
シンクライの時間は終了した。
← ← ← ← ← 現実時間 ← ← ← ← ←
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
荒い息を整えようとしても、治まらない。
現実に戻ってきた。現実? 何が現実だ。
汗だくで、服がべったりとくっつき気持ち悪い。上手に息ができなくて、肩で呼吸している状態だ。
辺りを見渡し、自分の部屋であることに少しだけ安心する。
「なんなの今の……いたっ」
左手で右肩を押さえる。
「いたいいたい、いたい」
目から涙が流れてきた。だが、痛みは止まらない。
血は出ていない。拡張時間では真っ赤に染まっていたが、今この手で触っても何もつかない。
しかし、夢ではない。
「……同期していた」
いや、そんなはずはない。
シンクライの原則を忘れるな。
――生死にかかわる体験の同期禁止。
なら、なんだこの痛みは!
シンクライの世界のように血は出てないけど、確かに私は撃たれて、その痛みと感覚と恐怖が残っている。
私は知らなくても、彼女なら知っているはずだ。
「シンク」
名前を呼ぶと『カズサ、どうしましたか』といつものように答えた。
私がこんなに必死に痛みに堪えているのに、いつものように。
「今、私は……」
言葉にすることが怖かったが、声にした。
「死んだの?」
『……』
答えないことを知らないAIが黙った。
初めてのことで私も戸惑ってしまう。
だが、この痛みは嘘をつかない。
「教えてよ! 何があったの? 私は撃たれたの? 空から落ちたの? 地面にぶつかって、それで」
『生死にかかわる体験の同期は禁止されています。仮に拡張時間で死や暴力行為を経験しても同期ができないようにセーフティがかかります』
セーフティがかかる?
なら、この痛みはなんだ。
「でも、私は確かに……」
『そのようなことは決してありません』
「なら、なんなんだよ!」
証拠を出すためか、シンクライが同期された写真を映し出した。
ゴンドラに乗る私。
イカ墨パスタを食べ、口の周りを黒くしている。
アッカデーミア橋の上を歩いてもいる。
「なんなの、これ……」
おかしい。
ゴンドラに乗った記憶しか私にない。
知らない私が、知らないことをしている。同期されていない記憶。
「ない……、全部ベネチアの写真だ」
私に同期されているのは、黒い世界。
銃で撃たれた場面。
ビルから落ちる映像。
シンクのメモリーには何も残っていなかった。
「この痛みはなに……?」
なのに、痛みは消えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます