平成中期にいたかもしれない元アイドルの卵の話

野原せいあ

平成中期にいたかもしれない元アイドルの話

 緊張に押しつぶされてしまいそうだった。無機質な会議室の風景も、パイプ椅子の固い感触も、私を責めているように思えた。

 助けてくれる人はいない。私は一人だ。そして私は、この重苦しい状況をどうにもできない。ダンスと歌のレッスンをしている女子高生なんて、この場では赤ちゃんみたいなもの、ううん、誰からも相手にされない分だけ、赤ちゃん以下かもしれない。

 だからといって泣いたりわめいたりすれば、ますます見下されるだろう。だから、なにもせず、耐えるしかなかった。

 唇に力をこめる。スカートの上で、ぎゅっとこぶしを握る。指先がどんどん冷えてゆく。だけど寒いとか痛いとか、なんの感触もしない。張り詰めた心に全身を支配されて、感覚がすっかりまひしてる。

 助けを求めるように、視線だけを少し動かす。

 コの字型に配置された机の向かい側には、若い男性と、三十代半ばほどの女性が一人ずつ座っている。

 男性は、デビューからずっと芸能界の最前線をひた走っている売れっ子のアイドルだ。十五歳で芸能事務所に入所し、十六歳でデビュー、今年でたしか二十五歳。とにかく顔がカッコいい。まるでスポットライトを浴びているように、どんな場所にいても、彼の周りだけ空気が違う。歌う声も、踊りも、見る人を惹きつける。みんなが彼に夢中になる、まさにアイドルになるために生まれてきたような人だ。

 ここ何年かは連続ドラマの助演や準主役としても活躍してて、今年はついに主演映画も公開された。もちろん大ヒットして、興行収入のランキングも更新した。彼自身も大きな映画賞をもらうんじゃないかと話題になっている。

 まだレッスン生の私から見たら、まさに雲の上の存在だ。

 隣の女性は彼のマネージャーで、いかにも有能そうな、言い換えれば厳しそうな人だった。私を見る目つきは憎々し気で、目ざわりだという感情を隠そうともしていない。トゲだらけの視線がまっすぐ突き刺さる。

 怖い。でもにらまれるだけのことを、私はやっちゃったんだ。だから何も言えなかった。おびえることすら許されない気がして、うつむくしかなかった。

 冷凍庫に入れられて、そのまま忘れ去られてしまったような、長い長い時間が過ぎた。

 ノックが響く。突然の甲高い音に驚いて、肩が震える。

 高まる心臓を押さえながら顔を上げると、やや乱暴に出入り口の扉が開いた。

 現れたのは、この芸能事務所の社長さんだった。全身から怒りが湯気みたいに立ちのぼってる。普段から、愛想が良いとは言えない、感情を感じさせない顔つきをしていたけれど、あれは怒っているんじゃなくて社長の「普通」だったんだと気づいた。怒る、というのは、いま目の前の「これ」のこと。私はこれまで普通に接してもらっていたんだ。

 こんな場面で気づくなんて、自分で自分が情けない。本当に至らないことばっかりでいやになる。十七年という人生を精一杯生きて、実績を積み上げていたつもりだったけど、本当に「つもり」でしかなかったんだ。自分の甘さを思い知った。

 同時に、今日までの行いが急に恥ずかしくなった。


 私と彼が面識をもったのは、一年ほど前。どうしても課題のダンスをクリアできなくて、私だけレッスン室に居残った日のことだ。

 たくさん練習したのに、上達している手ごたえがちっともない。教室のすみで、私はひどく落ち込んだ。

 どうして私だけできないんだろう。他のみんなはすっかり習得してしまったのに、私だけできていない。才能がないことには自分でもそれとなく気づいていたけど、それにしてもひどすぎる。勘がにぶいのか、要領が悪いのか。それとも講師が私の弱点を見抜いてわざと課題にしたのか……なんて、他人に罪をなすりつけるような考えまで浮かんで、むなしくなった。涙まで出てきて、汗くさいタオルで顔をおおった。

 そんな教室に彼が現れた。仕事終わりに自主練習をしようと立ち寄って、明かりが点いているレッスン室に気づいたらしい。きっと、よくある光景の一つだっただろうに、泣いている私を無視せず、持ち込んだペットボトルを差し出してくれた。

「その水、あげるよ。蒸発した分は補充しないと」

 涙は一瞬で引っ込んだ。

 それから彼は、口頭でダンスのこつを教えてくれた。おかげでその日は終電の前に帰宅できた。

 お礼に、次に会ったときに、コンビニで買ったクッキーをプレゼントした。

 そういった、小さくてささやかなつながりが点々と続いた。

 彼が私にたいしてどんな気持ちでいたのか、私は知らない。嫌われてはいなかった、むしろ……とは思うものの、テレビでは見たこともない柔らかい笑顔に骨抜きにされた私が語っても、説得力はないだろう。

 そう、私はうぬぼれていた。ものすごく良い気分だった。人気絶頂の彼とおしゃべりして、ダンスを教えてもらって、クッキーまで手渡したのだ。言いふらして回りたい欲望をがまんすることすら喜びだった。

 すれ違うだけの女の子たちにすら、私はあなたたちとはちがう、私はあなたたちよりも彼に近いんだと優越感を持った。言葉がないだけで、きっとすごく嫌な態度の女だったと思う。

 もちろん、そんなドロドロした打算ばかりじゃない。純粋な恋心もあった。近寄りがたいと思っていたけど、話してみるとそうでもなくて、でもやっぱりかっこ良くて。恐れ多くて、遠慮した態度を見せるとちょっと残念そうな顔をするところとか、彼のしぐさの一つ一つにドキドキしてた。一ミリずつ近づく彼との関係を大事に大事に温めた。

 でもそれは本当に「本物」だったんだろうか。他の子たちとは違うという自己陶酔に侵食されたトキメキを純粋と呼んでいいんだろうか? 気持ちの中心がどんなにキレイでも、そのまわりがドロドロだったら、きれいなものも汚く見えるんじゃないかな。

 彼の目に、私はどんな風に映っていたんだろう。他とは違う、ちょっとだけでも特別な輝きが、私にもあったんだろうか。だから私の独りよがりな優越感に付き合ってくれたんだろうか。

 いまとなっては確かめようもない。

 わがままと見栄と恋心とが入り混じる交流は、週刊誌の記者に撮られたことで唐突に終わった。

 巧妙な角度で撮られた写真は、私達を親密な関係に見せた。

 写真を見た私はまず驚き、不謹慎にも喜んだ。彼と私の関係が明るみになる、みんなに思い知らせることができるって。

 自宅待機を言い渡されてもどこか浮かれていた。ワイドショーを毎日チェックしたのは怖かったからじゃない。いつ世間が私と彼の関係が明るみになるのか、わくわくすらしてた。外見上は神妙にしていたけれど、期待があったことは否定できない。

 けれど一日経ち、二日経ち、事務所から確認の電話を何度も何度も受けているうちに、小さな不安が芽生えた。


 そしていま――


 いまになってやっと事の重大さに気づいた。重く垂れこめた空気が、ずしりと肩にのしかかってくる。怖い。怖くて、言葉が喉に詰まる。指一本動かせない。

 そうやって私がひるんでいる隙に、彼が社長の前に飛び出して、潔く頭を下げた。

「俺のせいです、申し訳ありません」

 なんで?

 どうしてあなたが、たった一人で謝るの?

 これは二人で起こした不祥事で、あなただけが悪いわけじゃないのに。

 ――そんなの考えるまでもない。私が意気地なしだからだ。

 社長の怒りを真正面から受け止める勇気がない。怒鳴られるかもと想像するだけで怖い。

 それに、ここで謝ってしまったら、好きな人と交流したいという欲求は間違っているんだと認めることになりそうで癪に障った。スキャンダルから身を守ることが、保身がそんなに大事なのか、そのために芽生えた小さな純真を否定するの?

 大人たちは、世間の評価を大事にしろと言うのだろう。だからこそ自分だけは正論に言いくるめられてはいけない、彼への想いだけは守りたい、だから素直に謝っちゃいけない……って石みたいに体を固くした。

 でもその意地せいで、こんなことになっている。彼だけが謝ってて、私は棒立ちで。

 情けないって思った。彼にこんなことをさせる自分が、心底、情けなかった。

 そして同じくらい、悔しかった。

 このまま彼に責任を押しつけていいの? しっぽを巻いて逃げるの?

 そんなの、絶対だめに決まってる。ここで逃げたら私は本物の負け犬だ。なけなしのプライドが私を押しもどす。

 それ以上に、こんな卑怯な自分を、彼に背負わせちゃいけないって強く思った。ペットボトルを差し出してくれた彼に返すものが負け犬だなんて最低すぎる。起きてしまったことが取り消せないなら、せめて、自分の罪くらいは自分で背負おうって決めた。

「ちが、ちがうんです!」

 夢中で彼の前に飛び出した。一度動いてしまうと、恐怖はどこかに消えた。全身で割り込んで、社長の正面に立った。

「私が考えなしだったんです。どうなるかなんて考えもしないで……悪いのは私です!」

 社長の目がじっと私を見つめた。一瞬、怖じ気づきそうになる。でも必死に耐えた。

 後ろで彼が、だめだ、取り消せ、ちがう、と叫んだ。私をどけようとする手は力強かったけど、同時に優しくて、どこまでも私を傷つけまいと、強引さに欠けていた。無性にうれしかった。おかげでその場に踏みとどまれた。

 彼の気遣いを感じながらも、私の意識は社長の目とつながったままで、その時なんとなくだけど、社長の怒気がやわらいだような気がして、ふとひらめいた。この人になら任せられる――ううん、任せるしかないんだ、って。

 社長は、いくつものライバル会社が乱立する業界で、安定した業績を積み上げている。怒っているように見えて実は誰にでも公平な態度を崩さない人。所属する芸能人たちが安心して自分の身柄を預けている人。

 社長を信頼している人の中には、私をかばおうとしてくれている彼も入っている。彼は、社長なら悪いようにはしないと確信して、真っ先に謝ったんだ。

 そもそも、だ。まだデビューもしていない私がどう言いつくろっても、マスコミのいいようにされるだけ。まだ若い彼の発言も、どんな風に捻じ曲げられるか分からない。ことをおさめるために何が必要で、どう使うのか、働きかけられるのは、きっとこの人しかいない。

 ごめんなさいは、そのための言葉だ。

 問題を起こしてごめんなさい、じゃない。迷惑をかけてごめんなさい、なんだ。

 私の彼に対する気持ちが純粋かそうじゃないか、保身がどうのなんて関係ない。私達のスキャンダルは、私達の手にあまるほど大きくなってしまった。もう自分達の手に負えない。だから社長にお願いしなくちゃいけない。

「……ごめんなさい」

 そう思ったら、素直に言葉が出てきた。

 私はどうなってもいい。彼を守って欲しい。社長の思うままに、社長の思う最善を尽くして欲しい。

 ――あなたにお任せします。

 視線を通して意志を伝える。まるでテレパシーだ。そんな不思議な能力なんてあるはずないのに、社長は聞こえたと言わんばかりにしっかり頷いてくれた。

「分かった。この件はこっちで預かる」


 社長は特別な行動を起こさなかった。記者会見を開いたりもせず、時が経つのを待った。

 私たちはそれぞれの場所で記者に囲まれた。何も言うなと厳命されたので、表情を凍らせて人の波を掻き分けた。

「逃げるんですか?」

 背中に投げつけられる、鋭い声。それは記者の言葉なのだろうか。それとも世間の言葉なのだろうか。

 建物に入って野次馬がさえぎられる。付き添いの女性が「大人げない、未成年を相手に」と憤ってくれたけど、私は気が気じゃなかった。

 私は未成年だ。でも彼は違う。私にぶつけられる質問は、きっと年齢の分だけ柔らかくなっている。じゃあ彼は? もっと厳しい詰問を浴びているんじゃないだろうか。

 強い不安におそわれた。でもいま彼がどうなっているのか、どんな気持ちでいるのか確かめる方法がなかった。私は彼の連絡先を知らない。その程度の関係だったんだといまさら思い知って、急に悲しくなった。

 一人でさみしい、怖い。でも耐えなきゃ。

 私が引き起こした問題なんだから、罰はちゃんと受け止めなくちゃ。


 昼夜を問わない突撃取材が続いた割には、報道はごく小さなものだった。ゴシップ誌の見開き一枚。お昼のワイドショーで五分ちょっと。コメンテーターは「年の差があるし」「真実かどうかあやしい」と締めくくり、翌日には海外の大物俳優が来日した映像が放送された。

 世間への影響は大きくなかったけれど、無害でもなかった。

 インターネットには、彼のファンを辞める宣言をする人が現れた。私を罵る言葉も書き込まれたし、事務所に直接押しかける人もいた。

 匿名の手紙は何十通も届いた。その中の一通にはカミソリが入っていた。いまどきこんなことをする人がいるんだと呆れる気持ちもあったけど、それ以上に、あからさまな害意にぞっとした。世の中には、心を傷つけられた腹いせに、相手の体を傷つけようとする人がいるんだと知った。

 一連の出来事について、事務所は特別な対応をしなかったし、私は意見を言える立場にいない。すべてを、なにもなかったかのようにするために、みんなが社長の方針に従った。

 私たちは厳重に管理された。常にだれかが付き添って、会うどころか、道ばたですれ違うことすら二度となかった。

 彼は演技の実力を身につけた。テレビに出るたびにもてはやされた。どんどん忙しくなった。

 私はレッスンに励んで、それなりの技術を学んだ。けれど一度ついた「スキャンダルを起こした」という値札は重かった。売り出そうにも、その値札が先に評価されて、対策に頭を悩ませている隙に後輩たちが何人も巣立って言った。

 いつかは彼に追いついて……なんて夢を見ていられたのは最初だけ。後輩に先を越されて、無力感に打ちのめされた。彼に追いつくことを諦めたのもこの頃だ。そのうち五人、六人と後輩のデビューが続いて希望を見失った。

 空き時間はひたすらレッスンを重ねた。がむしゃらに頑張ったけど、劇的になにかが変わるわけでもなく、私は私のままで、ぱっとせず、たくさんある卵の一つに過ぎなかった。

 ある日、マネージャーさんが立ち眩みを起こした。朝から熱があったらしい。風邪をひいていたのに、代役が見つからなくて無理をしていたそうだ。

 ショックだった。

 私は、誰かに、こんなことをさせなくちゃいけないほどの残念な人間なんだと思った。代役が見つからないのは人手が足りないからじゃなくて、私の味方はいない、私に見込みがないせいだと思いこんだ。あとから落ち着いて考えると、視野狭窄になっていたんだと思う。

 なにより、彼女の体調不良に気づけなかった自分に失望した。社長の人柄を見抜けなかったときと同じだ。私には観察眼が決定的に不足している。

 それに貪欲さにも欠けていた。周囲への思いやりを持てないほど追い詰められてまで「売れる」ことを目指さなくちゃいけないのか、と考えると、自分の内側から、さらさらと、人として大切なものが砕けてこぼれているような気がしたのだ。

 売れる気配もない。存在を叫んでも無視される。

 そんな日々に心がくじけて、私は夢をあきらめた。


 長年の目標を失って、私は無気力になった。レッスンに通う必要もない、気持ちも時間もぽっかり穴があく。

 不幸中の幸いは、日常生活に支障を出すほど、心が枯れなかったことだろう。高校も無事に卒業できた。ほっとする一方で、死ぬほど落ち込まない私の夢なんて、要は大したものじゃなかったんだ、とも思えてしまって、それがまた気持ちを沈ませる要因になった。

 芸能活動のことは隠して、普通の企業に就職した。

 私のスキャンダルを知っている人がいるんじゃないか、後ろ指をさされるんじゃないかと最初はびくびくしたけれど、そんな気配は感じなかった。

 芽が出る前のアイドルなんてスキャンダルを起こしてもそんなものだ。一年も経てばすっかり忘れ去られる。ほっとするけれど、それはそれで悲しかった。道端の雑草すら名前はついていて、知っている人がいるのに、私の芸名を知っている人はいない。私の苦しみや努力は、この広い世界ではなかったも同然なんだ。

 あれだけ時間を費やしたレッスンも全部むだになってしまった。自分で捨ててしまった。むだにしたのは他ならない、自分だった。

 躁鬱に似た気分の乱高下を繰り返しながら、這いずるように日常を過ごした。

 罪悪感に似た強い後悔は消えなかったけれど、時間と共に社会への警戒心は薄れて、少しずつ慣れていった。


 本当にすべてがなかったようになった頃、彼の話題を目にした。二歳年上の女優さんとの交際宣言だ。

 少し年を重ねた彼は、青年特有の精悍さを脱ぎ捨てていた。あの頃ちょっとだけ見え隠れしていた無邪気さも消えてしまった。安物のクッキーを喜んでいた彼と、本当に同一人物なのかなと疑うほどだ。年齢相応の落ち着いた対応と、上手な笑顔。

 独り立ちした大人の男性がそこにいた。

「かっこいいなぁ」

 分かっていたことなのに。

 分かっていたことだけど、いまさら、どうしようもなく、彼の格好良さに惹かれた。


 仕事から帰ってすぐ、買ったばかりのパソコンで彼の情報を探した。

 インターネット百科事典のページから始まり、次のドラマのニュースにひと通り目を通して、公式ファンクラブがあることを知った。会員特典や年会費の確認もそこそこに、必要な個人情報を打ち込んで入会ボタンを押す。生まれて初めてクレジットカードを使った瞬間でもある。

 直後はあまり実感がなかったけれど、翌月、送られてきた利用明細ではっきり自覚した。

 私、ほんとに会員になったんだ。

 彼に近づけた気がしてすごく興奮した。明細を抱きしめて、シングルベッドの上をごろごろした。

 遅れて届いた会員証には、びっくりする桁の会員番号が刻まれていた。あのスキャンダルが発覚したとき、彼のファンをやめると宣言した人もいたのに、あれを圧倒的に上回る、こんなにたくさんの人に好かれているんだ。そう思うと、うれしさがこみあげてきて、私は一人で気味の悪いふにゃふにゃとした笑顔になった。


 季節ごとの会報誌が楽しみになる。テレビでは見られないオフショットの写真が一番のお目当てだ。ちょっとおすましな私服の彼は、安物のクッキーを喜んだ彼を思い起こさせる。テレビに映る彼は相変わらず大人でかっこいいけれど、根っこのところはきっと変わっていないんだと思う。


 誕生月に届いた封筒にはバースデーカードが同封されていた。お決まりのメッセージは印刷だけど、私の名前はボールペンの手書きだった。会員限定のファンサービス、たぶん直筆だ。

 彼に、私の氏名は明かしていない。あのとき教えた名前は芸名を兼ねた下の名前だけだった。だから、リスト化されたいちファンの名前を見ても、ぴんとすらしなかったと思う。それでも、何年か越しにやっと名乗ることができたような気がして、やっぱりうれしかった。


 ファンクラブに入って変わったことがもう一つある。職場の先輩が彼のファンだと知ったことだ。ちょっとだけ苦手だった先輩は、一転して同志になった。

 中学の卒業と同時にそれまでの友だちとは疎遠になって、高校ではろくに友人を作れなかった私の、何年か振りの新しい一歩。

 同じドラマを見て、感想を言い合い、同じ会報誌を読んで黄色い声を上げた。

 先輩は仕事と私事をきっちり分ける人だけど、彼のことになるとその境界線がちょっと緩んでしまう。そんなところがかわいい。

 先輩の人となりを知ると、きつい言葉で叱り飛ばされても、ただビクビクするんじゃなくて、怒られるだけのことをしてしまったと、ちゃんと反省できるようになった。


 彼のデビュー二十周年記念ライブが発表されたときは興奮で眠れなかった。

 先輩にメールを送って、職場でも同じ話題で盛り上がって、夢じゃないことを確認した。

 チケットはファンクラブに優先的に回される。それでも、年々ファンを増やしてゆく彼のチケットは手に入りにくい。私と先輩は結託し、ケータイからサイトに何度も何度もアクセスして、チケットの争奪戦に参加した。

 約一時間後、売り切れの直前に、二人分のチケットを手に入れることができた。あえなく敗退した先輩に一枚譲ると、一生分かな? というくらいハグされた。手に入れたチケットがアリーナ席だったから、なおさら力がこもったみたいだ。


 当日の興奮なんて語りつくせるものじゃない。

 眠れなくて、目の下にちょっとだけ隈ができた。コンシーラで隠して待ち合わせ場所に向かうと、先輩も寝不足の顔をしていて、お互いに笑い合った。

 ライブ会場を見上げてどきどきして。

 グッズを買ってどきどきして。

 席に到着してどきどきした。

 全身が心臓になった気分だった。


 彼の歌声が会場中に響く。私も声を上げる。たくさんの熱気が一つになる。

 そして前触れもなく涙が落ちた。いつの間にか胸いっぱいに感情が詰まっていた。

 次から次にあふれてくる。

 お近づきになれてうれしい、話せて楽しい、他とはちがう優越感、怒られて怖い、うまくいかない、絶望……。過去のいろんな感情が、会場中に響く彼の歌声で浄化されて、なんの色もついていない透明で純粋なものに変化した。


 至福の時間が終わって外に出ると、外は真っ暗だった。

 都会の明かりに負けないくらい、月がきれいに光っていた。

 大勢の人が同じ余韻を味わいながらそれぞれの帰路についている。

 その場に立ち尽くして、彼らの背中をぼんやりと見送りながら、彼らと一緒に声を上げた自分を思い出し――


 あの頃の私の恋が終わったことを自覚した。


 八歳も年上の彼は、当時十七歳の私にどんな思いを抱いてくれていたんだろう。思い返すと、単なる親切の延長か、忙しい毎日から逃げる口実だった気もする。

 けれど、私は確かに恋をした。

 安物のクッキーで無邪気に喜んでくれる彼が好きだった。

 そう、「だった」。

 いまの私にとって、彼はもう私の失敗をかばってくれる人じゃない。

 ステージの上にいる、星の世界の王子様だ。

「どうしたの?」

 先輩に肩をたたかれて我に返る。

 私と同じ、王子様を追いかける先輩を見たら、自然に口許がゆるんで笑顔になった。

「いえ、ただ私、やっぱり彼のこと大好きだなって思っていたんです」

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