第3話 江住玲一郎の解明
「わたしが持っていたハンカチで拭き取ったからです」
言ってしまった。
そうするともう、あとは堰を切ったように、事実を語り続けるしかない。
あの朝、わたしはエタノールをたっぷり染み込ませたハンカチを用意して登校した。
教室に一番乗りできるように、その日はかなり早起きした。
両隣の教室も人の気配がないことを確認すると、わたしは一連の作業にかかる。
まず、油性マジックで机にシンデヨと書き、さらに水性ペンで「シ」に縦棒を一本書き足す。
そして、中には何も書いていない便箋が詰まった封筒を置く。
勇気くんはわたしが予想した通り、封筒の中身を見ようともせず破り捨て、落書きを消そうとした。ロッカーに入っていた乾いた雑巾だと、水性ペンは消せても、油性ペンはすぐには消せない。対して、エタノール含みのハンカチなら油性ペンも楽勝で消せる。
こっそり落書きを消すのは、思ったよりも簡単だった。誰もが混乱していて、わたしを見てはいなかったからだ。
わたしはもちろん言霊の力を心の底から信じてあの四文字を書いた。
勇気くんを驚かせて懲らしめることができればそれでいい、なんてぬるい気持ちは微塵もなかった。
それでもわたしの念が足らずに未遂で終わる可能性は考慮に入れていた。
計画が上手くいったのは、光彦くんの遺した思いがとても強かったから。
さすがは光彦くん。
「わたしをどうしますか? そもそもわたしがしたことは殺人になりますか?」
「いや、最初からボクは矢崎さんをどうするとかは考えていないよ。ただ事実がボクの考えた通りかどうか答え合わせをしたかっただけ」
先生がさも楽しそうに言うものだから、わたしもつられて笑った。
「先生、わたしをいたぶって楽しんでいたんでしょ。ドSですね」
「よく言われるよ。で、最後の確認だけど、脚色したのは『遺書は存在したのです』という箇所かな?」
「先生は、そんなものは存在しなかったと?」
「本当は最初から自殺だと確信していた」
わたしは首を横に振った。
ああ、良かった。先生でも全ては見抜けていなかった。
「いいえ、光彦くんが亡くなった日から二日後、確かにわたしのところに宅配で届きました」
「へえ、イジメの苦しみを親しかった君にだけは知っておいてほしかったのかな?」
わたしはまたも首を横に振る。
「ハズレです。中身は物語でした。彼が書いた最初で最後の恋愛もの。あの夏休みを舞台に、彼とわたしの恋のはじまりを綴ったとても大切な記録です」
わたしは誇らしげに先生に告げた。
するとどうだろう。
先生は腹を抱えて笑い出した。
なんて失礼な。
「ああ、そういうこと。もしかして、君が作文にした脚色って、光彦くんへの恋心を隠して書いたってことかな?」
「そ、そうですけど。一応、実話怪談だから、語り手個人の感情は抑えて書いた方がいいかなって思いましたし」
わたしはむくれながら、先生の指摘をしぶしぶ認めた。
「いや、悪い! そこだけはちっとも抑えられてなかったよ。彼への好意はだだ漏れだった」
そうだったかもしれない……。
わたしは自分が書いた文章を思い出し、カーッと顔が赤くなるのを自覚した。
「読んでよ」とはにかみながら、いつも素敵な物語を届けてくれた光彦くんのように。
今のわたしを見たら、彼もまたわたしを笑うだろうか。
なんだか、光彦くんがそばに居てくれるような気がしてきた。
暖かい気配が室内に満ちるかのような錯覚――
「いいや、それは錯覚じゃないよ、矢崎さん」
先生が声を発した。
「さあ、よく視てごらん」
え――
わたしは、先生の声に導かれるように気配のする方を向いた。
姿かたちは判然としない。
そこには薄ぼんやりと白色に輝くような存在が立っている。
だけど、わたしには確かに光彦くんだとわかった。
驚きのあまり、息がつまる。
先生が光彦くんに話しかけた。
「初めまして、森嶋光彦くん。ボクを呼んだのは君だね?」
光彦くんはコクリと頷いた。
光彦くんが先生を呼んだ?
どういうことだろう?
「矢崎さん、君はいくつかの思い違いをしている。それを順番に訂正していこう」
まずはひとつめ――
先生は左手人差し指を一本立てる。
「ボクが君を呼び出したんじゃない。ボクだって呼ばれたのさ」
さらに中指も立ててVの字を作る。
「次に、光彦くんが君に送ったもの。あれは遺書なんかじゃない」
ふたつめの思い違い、それは――
「ラブレターだ」
光彦くんはまたも頷いた。
白い影に一瞬、朱がさしたように見えた。わたしの頬もたぶん同じ。
「ここに来る前、森嶋
先生、今度は何を言い出すの。
「転校が決まっていたんだってね」
初耳だ。そんなの聞いてない。
「お父さまの転勤だそうだね。昌枝さんは君がイジメられていることに気づいていたから良い機会だと思ったようだ。だけど君は嫌がった」
理由はわたしと離れたくなかったから?
しかし、小学五年生が親の引っ越しに抵抗することなんてできるわけない。
ああ、そうか――
「だから君は矢崎さんにラブレターを送った。君がとても大切にしていたコレクションと一緒に」
光彦くんから送られてきたのは、物語だけではなかった。
届いた箱の中には、彼がお小遣いをやり繰りして買い集めた筆記用具が入っていた。
「原稿用紙を読んだだけなら遺書と勘違いするようなことはなかったはずだ。しかし、矢崎さんはコレクションを受け取った。受け取ってしまった。それゆえに光彦くんから遺志を、晴らせなかった無念を、託されたと思った」
わたしにとって、光彦くんの筆記用具は言霊の記憶と強く結びついていた。
素直に自分の思ったことを、言葉に書き写すんだ。
そうすれば、言葉に力が宿るから。
想いは強ければ強いほどいいよ――
わたしだけの力じゃ想いは届かないかもしれない。でも、光彦くんの想いが宿った筆記用具があるなら。
「それが三っつめの間違いだね」
先生は三本目の指を立てる。
「矢崎さんが細工に使った筆記用具に勇気くんへの怨みはこもっていなかった」
「でも……、でも、言霊には効果が……」
わたしは絞り出すように声をあげる。
じゃあ、なぜあの日勇気くんは?
「想いを抱いていたのは矢崎さんだけじゃなかったということだよ。あの日、もうひとり強い感情を持った男の子がいた」
それは、もしかして――
「この話はいったん置いておこう」
先生は小指を、さらに続けざまに親指も立てる。
「ここでハッキリさせておこうか。光彦くんの死は自殺じゃない。それが四っつめの間違い」
先生は指導室全体を見回し、張りのある声で宣言した。
「警察は事故として処理した。でもね、純粋に事故と呼べるのかと言えばそれは違う」
将来があるから――
まだ小学生だから――
「事件が起こったのは、生徒のほとんどが帰宅した放課後。光彦くんを窓から突き飛ばした彼を目撃した者は誰もいなかった」
被害者家族と加害者家族、両家のあいだに実際にどのような話し合いがもたれたのかはわからない。
わからないが……ある程度の想像はつく。
森嶋家もかなり悩んだだろう。悩んだ末に佐藤家の悲痛な懇願を受け入れたのだろう。
「でもね、それで罪が許されるわけでもない。罰する罰されないに関わらず、罪の重さは犯した者の心にズシリとのしかかる」
話を戻そうと先生は言った。口元から微笑みはもう消えている。
「彼は一週間ものあいだ罪悪感に責めさいなまれていたんだ」
だからこそ、言霊は効果を発揮したのか。
「そう、五つ目の間違い。言霊にもっとも強い想いを込めたのは、光彦くんでもなければ矢崎さんでもない」
その子の名は――
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