第2話 好きになっちゃダメな人 前編

『重ね合わせた彼女の紅い唇から注がれる――』

『舌に触れた温かな葡萄酒を、喉の奥へと流し込んだ』




 魔族領域から東側の大陸の内、凡そ四割ほどの面積を占める広大な国土を誇る王国。


 国王の住まう王城。

 教育機関である王国大学。

 衛士達の本拠地である王国衛士団本部。

 魔術に腕のある魔術師の集う王国魔術師会。

 女神教会の神官、教会独自の戦闘集団『武装神選隊』の総本山たる大教会。

 冒険者達の支援を担う冒険者後援会ギルドの本部と各支部。

 他にも貴族魔術師や商人組合等々が集まる王国の中心都市――王都。


 王城を中心にそれぞれの方角は城東・城西・城南・城北と四つに区分されている。各区は王都内でありながら多種多様な風景に彩られており、王国へ来たならば真っ先に王都へ向えとは古くより言われてきたほど。 


 各区の内の一つ、城北は魔族領域へ向う玄関口。冒険者向けの各施設と歓楽街が立ち並びながらも、対魔族に備えるべく王国衛士団の大きな支部が建てられている。

 多くの人々が行き交い、賑やかさの欠けることが無いながらも、どこか物騒な雰囲気が流れる。

 これこそ城北の特色であると言える。

 城北の歓楽街。

 夜明けと共に鳴る鐘の音。

 道を歩く者達の雰囲気はがらりと変わる時刻。

 歓楽街の中でも目立つ場所に建てられた絢爛豪華な宿の一室。既に夜を共にした相手が居なくなった部屋の中で一人の青年が眠っている。

 

 甘美な眠りについていた青年はなにか顔に当たる日差しの暖かさを感じて、脳が覚醒を全身へ伝達しかける。されど肌に感じる布の心地よさと昨晩の快楽の余韻に浸り足りず、彼は朗らかな陽光を遮るべく、腰の辺りにある掛布団で全身を覆い隠す。

 このまま二度寝を敢行する青年だったが、扉越しでも聞こえる程の足音を立てて誰か階段を上がってくる。階段を上る某はあからさまに足早を立てており、その行為が意味するのは怒りの感情ただ一つ。


 面倒だな。

 足音は青年が寝ている部屋へと近づいているが、当の彼は他人事で構わず睡眠を続行させる。もっとも既に足音によって身体は完全に覚醒した為、意識を怒れる足音の主へ向けつつの狸寝入り。

 さて、木製の扉が壊れるのではないかと心配する程に強引に開かれ――否、蹴り飛ばして開かれる。

 大木を蹴り倒せそうな程の一撃を繰り出したのは、なんと一人の少女。鍛冶職人の様な群青色の肩掛け洋袴オーバーオールと無地の茶色の襯衣、太陽の如く眩しい橙色の頭髪は耳を隠す程の毛量且つごわごわとしている。

 十代前半ほどの低い背丈。程よく日焼けた肌と燃える炎の様な橙色の瞳は外見相応の無邪気さが宿るも、今の少女が浮かべるのは烈火の如き怒りの相貌。

 少女は室内に他の人が居ないか確認すると、開口一番大きな声を張り上げる。


「いつまで寝ているんですか、ツルマッ!」

「起きてるって……朝っぱらから大声を出さないでくれよブロジナ。余韻が台無しだ」


 耳元で鐘を何度も鳴らされた様な不快感。ツルマと呼ばれた青年は顔を顰めながら、むくりと上体を起こす。

 掛布団は再び腰まで落ち、靭やかに鍛え上げられたツルマの半身はまるで古代希臘の彫像のよう。

 加えて粗野な雰囲気はあるもツルマは整った顔立ちをしている。数多の女性の心を一夜限り奪ってきた相貌も、現在自分に対して怒り心頭の少女――ブロジナ・アイザンには通用しない。


「へぇへぇ、そりゃあすいませんでしたねッ! さぞかし昨晩はお楽しみだったんでしょうねッ!」


 ブロジナは口を尖らしてツルマを煽る。嗅覚の鋭い彼女は室内に僅かに残る男女のアレソレの匂いを嗅ぎ取っている。

 これが嫉妬から来る感情なら可愛いが、ブロジナのソレは単にだらしないツルマへの怒り以外の何物でもない。


「――昨日の報酬をもう使い切るだなんて……宵越しの金は持たないでしたっけ?」

「ハッ――年上のお姉様に可愛くおねだりされたら、財布の紐を緩めてやるのが男だ。お前が珍妙な武器に金をかける様に俺は女性と一夜を過ごすのに金を使う、同じ事だ」

「……そ、そうかもしれませんけど……ぐぬぬ」


 明確な反論が浮かばず、ブロジナは悔しそうに臍を噛みつつも認めざるを得ない。

 確かに自分の金遣いが荒いことはツルマ自身認めている事だ。だが、彼女が居る現在は報酬金はしっかりと平等に分配をしている。

 仮にツルマが自分にだけ多く配分していたり、皆が使う金の管理を担っているなら落ち度はあるしブロジナからの非難も正当なモノだ。

 しかし報酬金は平等且つツルマ達の使う活動費は別で貯蓄をしている。何より諸々の活動費に関わる金勘定は自分がしているのだ、自由に使える金を使って非難される謂れはない。

 倹約は確かに良いが、過度な吝嗇は身も心も貧しくさせる。溜まった鬱憤を湯水の如く金を使い晴らす事を常習化するのは頂けないが、寝かせるだけの金にツルマは意味を見い出せない。

 ただ、勿論ブロジナの考え方もわかる。彼女にしてみればツルマが女性に金をつぎ込むことを、単純に散財と見てしまうのも無理ない。

 そもそも男女間における物事への認識に差異はあって当然で、境遇やこれまでの経験から一つ一つへの事例に対する見方など千差万別。これに関して幾ら議論をしても、行き着く先は水掛け論。

 白熱した議論の末に熱湯で互いに大火傷を負うか、冷徹な理責めによって関係を冷め切らせない為にも、ツルマはブロジナへの言及を止めにする。


「はぁ……一応聞きますけど何に使ったんですか? 今回の報酬金は一夜で使い切れるとは思えませんけど」

「そりゃあ、宿代と酒……あと口紅を買ってあげたな」

 酒の事を口にした瞬間、酷い二日酔いによる頭痛を覚えてツルマは額を擦る。

「へぇ、そんなに高い口紅があるんですか?」再びブロジナのこめかみに青筋が走る。

「結構な高級品だったし、限定物だったからな。それに少しずつ返す、だなんて言われたら買っちまうさ」

「返すって……お金が返ってくるとか思ってる訳ですか」

「使って返すってこと。宝石だの服だのを買うより、とても魅力的な提案だろ?」

「変わらないと思いますけど?」

「子供だなぁ、使って返す――つまり、これのことだよ」

 

 ツルマは自分の唇を指差す。

 それが何を意味するか、ようやく理解したブロジナは件の女性の情熱的浪漫ロマンチックさに感嘆してしまう。

 それはツルマも同じだった。この世界に来てから多くの女性と一夜を共にしてきたが、その様な事を言ったのは彼女が初めてだ。例えば口実だとしても、そんな魅力的おねだりには答えてしまうのが男だ。

 一夜限りと心に決めているツルマだが、叶うならば件の女性ともう一度逢いたいと――欲してしまうほどに。

 

「そ、それは良かったですね――って、なにを無駄話をしているんですか! 今日も今日とて依頼を受けに行きますよッ!」

 

 無駄話を始めたのはそっちだろと言いたいが、原因は自分にもあるのでツルマは黙る。しかし二日酔いの頭痛で身体を動かす気力は出ず、暖かな陽気と心地良い寝台の相乗効果で不可抗力の眠りが全身を襲う。

 危ない、一瞬意識が落ちかける。

 だがツルマは寸での所で頬を強く叩き、痛みで以て強引な目覚めを身体に教えさせる。生前は職業柄すぐにでも飛び起きる程だったが、この世界に来てからは若干の鈍りを感じている。


 まあ、今回に関しては安全に眠れる場所というのが大きな要因だ。支払った料金に見合うだけの警備体制をこの宿は有しており、なにより立地としても王国の中心都市である王都は犯罪の危険が殆ど無い場所。

 節約の為にツルマ達は野宿が当たり前で、宿に泊まるにしても大抵は安宿だ。王国の領土内でも治安の悪い地区は多々あり、冒険者の泊まる宿に押し入って盗みを働く連中が居るほど。

 ましてやツルマは、ブロジナともう一人ティルニアと見た目は非常に良い女性を二人連れている身。ティルニアが誘拐される事は確実に無いだろうが、ブロジナにはその危険が大いにある。


 故に野宿や安宿に泊まる際には、ほとんどツルマは寝ていない。

 ブロジナ自身は一丁前にすぐに起きるなどと豪語しているが、気持ちの良さそうな寝息と共に深い眠りにつくのが日常風景。

 まあ敢えて、責めたりもしない。ムキになって散々言い争いをした後、結局疲れて寝てしまうのがブロジナだ。


 そんな訳で、今夜は久しぶりに眠れた夜であった。もっとも過度な飲酒のせいで二日酔いを置き土産されるとは我ながら失態である。

 削岩機で額を掘られるような頭痛に苛立ちつつ、寝台から出たツルマだが、その瞬間ブロジナが大きく目を丸くさせた。

 橙色の瞳が視線を寄せるのはツルマの――いや、これは敢えて言うまでもないだろう。

 寝台近くの床にツルマの衣服が脱ぎ捨てられている事から、大抵の人は察するはずだ。

 しまった、とツルマが気づいた時には既に遅し。

 燃えるように頬を赤らめ、瞳に羞恥と困惑の渦を巻かせながら、短い悲鳴を上げてブロジナは反射的に肩掛け洋袴に吊り下げていた鉄製の篭手を放る。

 二日酔いでまともに動けないツルマは剛速球が如く飛んできた篭手を額に受け、そのまま寝台へと倒れ込む。


「なんで、そそり立たせているんですかッ!? さっさと服を着てくださいッ! 外で待ってますからねッ!」


 やかましい声で言いつけ、ツルマの愛しき相棒へぶつくさと文句を言いながらブロジナは部屋を出ていく。

 一方、今度は篭手の直撃による物理的な痛みで額を擦るツルマは呻きながらもむくりと上体を再度起す。額がへこんだかと錯覚する程の一撃ながらも、人間の身体とは案外丈夫なモノ。

 元々身体の丈夫さには自信があるツルマだ。加えて異世界故の過酷な環境のお陰で、彼の額は若干赤みを帯びる程度で傷一つ付いていない。


「……ったく、これだから生娘は……」

 共に冒険をする中で知ったブロジナの秘密を口にして、ツルマは理不尽な痛みへの憤怒を抑える。

 これが初めてなら大目に見るが、かれこれ五回以上は確実なのだ。この事に関してはブロジナには一切の進歩も見られない。

 目を丸くさせ、悲鳴を上げて、なんだかんだと言いながら持ち歩く篭手を投げつける。これ自体は久し振りであったが、懐かしいなと感慨深くなる気など微塵も感じない。

 ツルマは一つ大きな溜息を心に溜まった怒りや不満も一緒に吐くと、ブロジナの投げた右手の篭手を拾い上げた時にふと気づく。。

 そう言えば、これまでは全部左手であった。ツルマは傷だらけで使い古した篭手をしばし見つめる。


 いや、不思議に思うこともない。

 右か左かの差異なんて殆ど変わらないモノだ。


 一先ず篭手を近場の棚に置き、床に脱ぎ散らかした衣服をのそのそと身に着ける。数分程度で着替え終え、冒険者稼業を続けていく上の必需品に忘れ物が無いか時間をかけた確認は決して怠らない。

 最後にブロジナの篭手を片手に持ち、大きな欠伸とだらしない歩き方でツルマは部屋を後にする。

 

 幸いにも二日酔いによる頭痛はすっきりと消えていた。これならば、今日の仕事にも支障はきたさない。

 ブロジナの投げた篭手によって、じんじんと物理的な痛みが額を苦しめていることを除けば、だが。

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