小話 ねがう夜
『どんなに良い目を持っていても――』
『雲隠れの月と星は決して見えない』
グモウ達帝国国防軍が陣を置く場所から数キロ離れた所で、突如として連鎖的に炎が巻き上がる。暗き森に差す一縷の光が如き業火が襲うのは、森に生息する狼の群れ。
茂みを駆け、木々に身を隠し、闇夜に唸り声を上げ、縄張りに入り込んだ侵入者を捕食せんと飛びかかる。
中には莫大な魔力に中てられ、狂乱状態となった狼の姿も見られる。この場合、正常な判断も碌に出来ず標的を執拗に襲う様になり、その危険度も一気に跳ね上がる。
並の冒険者であれば数に圧されて彼らの晩飯だ。だが、彼らを迎え撃つ者が魔術師――それも稀代の天才であれば話は違う。
鍔の広い三角帽子を始めとする王国魔術師の古風な衣装を纏う彼女――ネイルーカ・ドゥーロは冷めた表情で襲撃する獣や魔獣を片端から焼き尽くす。
森の中での炎魔術は御法度であるが、天才の名に恥じない彼女は繊細な火力調整で標的だけを焼殺する。普通の炎と違い、魔術由来の炎は魔術師が魔力を自在に扱うので意図的にやらない限りは延焼を引き起こすことは無い。
無論、纏めて燃やした方が楽なのだが、森に住む長耳族との関係を拗らせない様にと、アレックスの配慮に従っている。
ネイルーカに手間を掛けさせる分、アレックスは腕に覚えのある衛士を数名同行させていた。もっとも先頭に立って迎撃をするネイルーカに仕事を全部持っていかれ、彼らは警戒するだけの案山子となっている。
本来白兵戦の不得手な魔術師を守りつつ、武器と魔術を両立して戦陣を突破するのが衛士。だが、ネイルーカの様な魔術師の場合は寧ろ後ろに下がる方が賢明。
そうしないと、魔術に巻き込まれる可能性がある。何より下手に先頭に立てば、火薬の様なネイルーカの不機嫌を買いかねない。
敵襲は彼女に任せ、片付いたら自分達が先頭を行けば良い、衛士達はそう考えてネイルーカの圧巻な魔術を現物している。
やがて正気を失った狼は漏れ無く灰と化し、正常な判断の出来る群れが退散を始める。獣も愚かでは無い、群れに消滅の危機が来れば尻尾を巻いて逃げるのが普通。
優秀な群れの長であれば判断は早いが、此度の群長は及第点と言った所。ただ魔王が斃れ、膨大な魔力の余波が森に広がっている事を鑑みるに、気が立っていたのだろう。
最後に闇を燃やすが如き炎で狼の群れを完全に退散させると、ネイルーカは自分の後ろにぴったりと付く少女に苦言を呈する。
「邪魔なんだけど?」
「ご、ごめんなさい……」
美しくも鋭利な視線を向けられて、身体を(ビクッと)震わせたアイナが半歩さがる。青を含んだ黒い髪の隙間から覗く茶色の瞳がおっかなびっくりとネイルーカを見つめる。
自分が認めた相手以外には熾烈で苛烈な女王様が如き態度を以て、刃の如き毒舌を容赦なく吐くネイルーカ。そんな彼女も人畜無害でひ弱なアイナの目を見ていると、自ずと磨き上げられた己の毒舌も動きが鈍る。
ネイルーカは自分が小動物を苛めているようで少し気分が悪くなっているのだ。
子供相手にもつっけんどんな口調を崩すことは無いネイルーカだが、アイナを前にすればどうも調子がおかしい。彼女が何か特殊なスキルを有しているのか、或いは生まれながらに持った才能なのだろうか。
いや、そんな事を考えている場合では無い。ネイルーカは頭を振り、余計な思案を追い出す。
何故自分やアイナ達が狼退治などと下っ端冒険者の仕事をやっているのか。帝国の魔術石通信を傍受してニアリが救出された事が分かり、魔王軍の脅威は無いと判断した王国は順次撤退をしている。
では、何故ネイルーカ達はまだ森に残っているのか。
理由は一つ。アイナを助けた件のぬいぐるみを探したいと、彼女たっての希望。
当然そんな事をネイルーカは了承しない。そのぬいぐるみの詳細は分からないが、自立しているにしろ誰かが操っているにしろ魔術による使い魔と見るのが普通。特例として魂が物体に入り込んで動いている可能性もあるが、それらは肉体を得ようと人を襲うので除外してよいだろう。
そして使い魔となれば、自然と身構えてしまうのが魔術師の性。
ぬいぐるみの主の思惑が不明な以上、下手な接触は避けるべき。
ネイルーカは断固として反対をしたが、アイナの事を気遣うアレックスを始めとして王国は転生者の事を特別扱いしている。今作戦の衛士長も同類で、アイナの願いを快く引き受けるに留まらず、よりによってネイルーカに護衛を押し付けてきた。
かつてのネイルーカであれば――いや、今のネイルーカでも絶対に首を縦には振らなかった。
しかし今の彼女はアレックスの相棒であり、自分の辛辣な振る舞い一つでアレックスにも皺寄せが来る。何より次期衛士長としての呼び声高いアレックスを不利にしてしまう可能性が十二分にある。
アレックス等、ネイルーカからすれば面倒な人間でしか無い。しかし、彼を後援する連中の機嫌を損なえば自分にも火の粉が降りかかる事は明白。
結局ネイルーカは渋々と了承して、今に至る訳だ。
「はぁ……」ネイルーカは溜息をつく。「まだ探す気?」
「えっと……その、出来ればお願いします」アイナは様子を窺いながら口を開く。
仮儀式の時間延長は素晴らしいが、お陰で転生者の我が儘に付き合う回数も増えている。
「こんな広い森の中でぬいぐるみ探しなんて、無謀にも等しいと思うけど?」
了承をしたが、ネイルーカ自身ぬいぐるみを探し出せる気は微塵も無い。
自発的にアイナが諦めるのを待っているのだが、思いのほか彼女は往生際が悪かった。
「今度はあっちを探しましょう」
指をさすアイナにネイルーカは再び大きく溜息をつく。
無論、魔術師にとって物を探すのはそれほど苦労する事では無い。
魔術を用いて広範囲を捜索して、目標物を探すのは魔術の初歩でもある。形状や大きさが分かっていれば、数分も経たずに探し当てることが可能。
しかし今の森は非常に魔力が乱れている。
魔王の絶命により膨大な魔力が放出した事で魔力は完全に荒れ、そこへ帝国や魔王軍、長耳族に魔物と様々な勢力が一か所で動き回っている。この状況下では魔術による捜索に障害物があまりにも多すぎる。
もっとも優れたネイルーカであれば造作も無い。片手間に森全体を魔術で捜索しているが、アイナの言う兎のぬいぐるみは一向に見つけられない。
既に破壊されたか、或いは移動したか。
どちらにせよ、自分にとって重要な事を細かく探ることをネイルーカはしない。
先頭を行くアイナに付いて行こうした時、ネイルーカは自分達に急接近する何者かの反応を察知する。凄まじい速度で詳細が分からない、ネイルーカは素早くアイナの襟を掴み自分の後ろへと引きずる。
ネイルーカの異変に衛士達も気付いて武器を構えた時には、既に接近者は木々から飛び出すと音もなく彼女達の前に着地する。
「――貴様は『
全身を襤褸布で覆い、頭部を
その者は顔に何かを付けている。それは人間や魔族の顔の皮。無造作な糸で乱雑に仕立てた覆面は見る者を恐怖させるに易い。何より、そこから覗く接近者の獣が如き禍々しい黄色の双眸が恐怖をより加速させる。
接近者の名はヴァルガ。魔王軍に所属するモルゲンラッグの用心棒。
彼(或いは彼女)は王国でもそれなりに知られている。素性等は不明だが、少なくとも無意味に王国や帝国を虐殺するような性質では無い。
「モルゲンラッグの猟犬が何用かしら?」
ネイルーカの問いにヴァルガは懐から蛇腹に折り畳んだ紙を取り出すと、それをこちらに向ける。
取れ、という事か。ネイルーカは近づき紙を取ると、器用に片手で広げて中身に目を通す。
どうやら手紙であり、それもネイルーカに宛てたもの。差出人はモルゲンラッグで、内容は未だに森の中にいるこちらに撤退を促す内容であった。理由は大規模な戦闘が予想され、こちらに被害が及ぶ為とある。
急いで書いたのだろうか、文字からは焦りが見えている。普段モルゲンラッグが綺麗な字を書くことを知っているネイルーカには、僅かな文字の乱れからも不穏な事を察知する。
モルゲンラッグの忠告には従った方が良い。
手紙の内容を衛士やアイナに知らせると、想定通りアイナは諦めきれない様子。
「あの、えっと、もう少しだけ時間を――ッ!?」
アイナの煮え切らない様子にヴァルガは刀に手を当てる。その動作だけでアイナは驚き、腰を抜かしてしまった。
どうやら実力行使も辞さないようだ。
認めたくは無いが、ヴァルガの実力は指折り。伊達に非戦闘員であるモルゲンラッグを長年警護しているだけあって、並みの魔術師や衛士では相手にならない。ネイルーカでも負傷を覚悟して戦わねばならない相手であり、アイナや他の衛士を守る余裕はなくなる。
しかしネイルーカからすれば思わぬ助け舟。これでやっと面倒な仕事を終わらせられる。
尻もちをついたアイナを起き上がらせて、ぬいぐるみの捜索を打ち切り事を伝える。アイナは唇噛んで反抗を示すも、これ以上ネイルーカ達を巻き込む訳にもいかないと思ったのかぎこちなく頷いた。
「あ、あの! もし、ぬいぐるを見つけたら教えてください! 灰色の兎のぬいぐるみです!」
立ち去る寸前にアイナはヴァルガに向かって大きくお願いした。
そんな暇など無いだろう、と思ったネイルーカ。
彼女は何か知っている素振りを見せたヴァルガを無視する。
面倒だし――何より魔王軍が関わっているのなら尚更首を突っ込む気は無いのだから。
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