第27話 天体観測

『雲が隠して良い月にする』




 暗雲残る夜空に眩い月が昇り、青黒い薄布ヴェールに散りばめられた宝石の如き星々が無数に輝く。少し開かれた窓からは、光の海を流れる夜風は木々を揺らし、小さき演奏家たる虫達の音が聞こえる――なんと素晴らしき夜の静寂しじまの豊かさか。

 寝台で寝息をたてるオボロの拘束から抜け出た私は、二回目となる眠れる事の出来ぬ長い夜を耐え抜く為に窓から夜景を見つつ、今日の出来事を振り返る。


 私の選択により、オボロが正式に魔王軍への協力を結んだ本日。あの一件の後、彼女は食事も取らずに(もっともオボロに食事は必須では無い)砦の仮部屋へ足早に戻っていた。ただ怒っている訳では無いのは、オボロの歩く様子や扉を開ける時に全く乱暴で無かった事で容易に判断ができる。

 モルゲンラッグやニアリは一先ずオボロを私と二人きりにしておこうと思ったのだろう、無理に彼女へ宥めの言葉を掛けに部屋には来ていない。何よりこの森にブリッツが来訪している実情とニアリが無事に戻った事で、砦に居る者達は早急に撤退を始めている。

 既にニアリは一足先に転移魔術で以って魔王城へ戻っており(魔術の都合上、フルベとベルモンドは同伴出来ないらしい)その後も緑鬼族オーク小鬼族ゴブリンを優先的に陸路で帰還させ、本日中には全員の撤退を終わらす故に外出を禁じる旨をモルゲンラッグが扉越しに知らせてきた。

 私とオボロ、フルベにベルモンド、モルゲンラッグとヴァルガ、そしてノーヴァンは緑鬼族と小鬼族が全員無事に戻るまでの警護役。

 それまで毛布に包まっていたオボロは目を瞑ったまま、何かあれば我を呼べとだけ告げる。不愉快の種であるノーヴァンが居ながらも、彼女は魔王軍への協力に異存は無い。我が儘な性格の彼女だ、本来なら不服にも関わらず素直なのは――蔵人を思ってなのだろう。

 

 私はそんなに大事な存在なのか。

 喋れていれば、間違いなく私はオボロに尋ねていた。

 だが、喋れなくともオボロが口にする答えは自ずと推測できる。

 当たり前の事を聞くな、と言いたげにオボロは微笑んで頷くのだろう。

 出会って二日しか経っていないが、私に対するオボロの信頼は想像以上だ。

 たかだか封印を解いただけ。

 その封印が星秘術とか言う詳細不明の代物だったとして、彼女は私のことを救世主にでも見えているのか。

 何と馬鹿馬鹿しいことか。

 私が物言わぬ兎のぬいぐるみだからこそ、その式が成り立っているのだ。

 私が元の世界の人間であれば、決してオボロは私の事を大事に等思わない筈だ。

 私は誰からも好かれない性格の人間だ。表面上は無害な善人を装ってるが、本質は冷酷で醜悪な怪物だ。

 心の在り方が外見を形成するなら、酷い外見をしている私は当然内面も酷くあるべきなのだ。

 如何にオボロと言えど、愛らしいぬいぐるみと気持ちの悪い人間なら前者を取る。優れた容姿を良く思うのは生物として当然なのだと、私は考えている。

 オボロの近くに私が居るべきでは無い筈なのだ。

 お姫様の様な姿の彼女には醜い怪物よりも、白馬に乗った王子様の方が相応しい。

 

「――どうしたピョンちゃん、眠れないのか?」


 背後で急に眠たげなオボロの声がして、驚きのあまりに私は飛び上がる。廉い心霊映画にありがちな音声恐怖手法ジャンプスケアには滅法強い私だが、突然背後から声をかけられる事には慣れていない。

 本気で心臓(このぬいぐるみの身体には無いだろうが)が止まる様な感覚を味わったが、一方でオボロは私の大仰な反応に微笑む。形の良い柔らかな唇を緩ませて鋭利な歯を覗かせ、緋色の瞳は慈しみの感情を湛えて私を見つめている。

 今のオボロは幻想的な絵画の様な美しさだ。彼女の表情、肩から落ちかける毛布、窓から注ぐ月明かりに照らされる寝台とオボロの白銀の髪。これまで私が見てきた如何なる絵画に描かれてきた無数の女性達等比較にならない程に、オボロは神聖的な美しさを漂わせている。

 息が詰まりそうな美しさに呆然としてしまい、見かねたオボロは白い腕を伸ばして私を持ち上げる。


 美しい相貌が私に近づいて。

 妖しい双眸が私を見つめる。

「どうした、眠れないのか?」オボロが尋ねる。


 やはり彼女は私には劇毒すぎる。直視が出来ないので、視線を逸らそうとするとオボロの視線が執拗に追ってくる。何とかして距離を空けねば、私の心は一生安静をしてくれない。

 そこで私は思いついた。どうせ長い夜に出来る事など、今の私には星に関する知識無しで行う天体観測ぐらいしかない。

 ならば、オボロに私のことを窓辺に置いてもらおう。寝台から窓辺までは高さがあり、今の私では這い上がれないのだ。

 窓辺なら存分に夜空に酔えるし、何より昨夜の様にオボロに投げ飛ばされる心配も無い。決して根に持つ性質では無いが、毎晩毎晩と投げられては痛みを感じなくとも流石の私も堪忍袋の緒を切らざるを得ない。

 私が腕で必死に指すと、察したオボロが立ち上がって窓辺に近づいてくれる。

 これで一安心、と思ったが――なんとオボロは窓を完全に開くと私を持ったまま夜風の吹く外へと身を乗り出す。高い砦では無いが、眼下に広がる海の様に騒めく鬱蒼とした森の低さと地上で夜警をするフルベとベルモンドの小さい姿が見えた私は恐怖を覚えてオボロにしがみ付く。

 そんな私をオボロは片手で強く抱くと、もう片方の手で砦を造る石の僅かな隙間を使って軽々と頂上まで登ってしまう。


「どうだ、こっちの方が綺麗だろう?」


 膝を立てて座るオボロはそう言って、抱いている私を見つめる。

 その言い方に私は何処ぞの成金の風刺画を思い出しつつ、釦の目に広がった一面の夜空に心をを奪われる。元の世界に比べて夜に輝く電気の類も無く、また小高い砦の屋上から見ているだけに手を伸ばせば星を掴めそうな程だ。

 そして暗夜に輝く白銀の月は左側がやや大きく欠けている。元の世界と同じ月の満ち欠けならば、数日経って上弦を挟んでから満月へなっていく、筈だ。所詮は娯楽でしかない月見をしてきた私は月齢を詳細に記憶はしていない。

 まあ小難しい事など抜きにして、今は月を楽しもう。しかし、運と間の悪い人生を送ってきただけに夜空に残る雲が月を隠し始める。月に叢雲とは言うが、雲隠れの月も悪くない。月の明かりに照らされた部分を虹色に変色させた雲も綺麗なのだ。

 しばし夜空を楽しんでいると、唐突にオボロが口を開いた。


「なあピョンちゃんよ、あの時ノーヴァンの提案を選んだことを尋ねてもよいか」

 オボロは神妙な面持ちだ。

 今ここでその話を振り返るのかと思ったが、普段と比べて彼女のしおらしい様子に私は真面目に向き合う事を決める。返答は出来ないので、代わりにオボロの膝を優しく叩いて続きを促す。

 オボロにしては珍しく口ごもっており、恐らく私の機嫌を損ねる心配をしているのだろう。


「奴の提案を選んだのは――我のことを信じていないからなのか?」

 絞り出す様に吐いた言葉は不安の色を纏っていた。


 はあ?

 何を言っているんだこいつは、と私は第一に思う。

 ノーヴァンの提案を選んだ事が、オボロを信頼していないと言う答えに結びつくのか。それはそれ、これはこれ、だろうに何故纏めてしまうのか。

 私はオボロを信頼している事に変わり無く、而してノーヴァンの提案の方が得策だと思い、あの判断をしたのだ。

 どの程度オボロがこの世界を知っているかは推量できないので、私としては右も左も解らぬ異世界で生きるに於いては組織に属していた方が楽だと考えた。

 無論ノーヴァンは胡散臭いし、今の魔王軍の先行きも不透明ではある。しかし魔王軍以外に頼れる国や組織が無い以上、ノーヴァンの選択を呑むのが一番だ。

 ノーヴァンを忌避しているオボロの気持ちを汲んでいないではないか、と言われれば確かにそうだ。しかし、あの場で彼女は私に判断を委ねた。

 その時点でオボロの気持ちを判断材料にする意味は無い上に、元々私は他人に寄り添える人間ではない。そうした諸々の思考の末に私はノーヴァンの提案に肯定したのであって、そこにオボロへの信頼云々など元より存在していない。

 まあ私が幾ら講釈を心の中で垂れてもオボロには伝えられないので、分かり易く腕を交差して彼女を信頼していない事を否定する。

 

「そうか、我を信頼はしてくれているのだな」

 私の答えが心底嬉しいオボロは、口元を緩ませた。

 喋れないと言うのは、このような時にはとても活躍する。女心など毛頭に理解していない私にとって、女性に寄り添う言葉の引き出しは無いからだ。

「でもな、あの場でノーヴァンの提案を選んだ時は……少し、いやとても、悲しかったぞ」


 後出しで言われても困るな。私に判断を委ねたのだから、その気持ちはしっかりと呑み込んで欲しい。まあ、あの場で癇癪を起こされるのも面倒だし、オボロの気持ちも外見相応の子供のいじらしさと思えば可愛げがある。

  

「……ピョンちゃん、貴様が我を真にどう思っているのかは分からんが」


 オボロはそこで――私を一際強く抱きしめる。

 

「我は、貴様の事を一番大切に思っている。星秘術により封印をされ、時を数える事すら出来ぬ月日と凍てつく孤独の中、貴様が我を救い出してくれたのだ。それだけは覚えておいてくれ」


 それが、彼女が私に対して抱く強い占有意識の元か。

 孤独か。それは一抹の寂しさ等では無いのだろう。彼女の時間感覚が掴めないので正確な年数は想像し辛いが、人の一生を遥かに超えた歳月なのは確かだ。

 その苦痛は計り知れない。

 故に人間である私に、オボロの感情は理解できない。体験した事が無ければ、幾ら相手の悲しみに寄り添おうとも、それは所詮まやかしの感情。愚者は経験から学ぶを地で行く私だが、人外の超越した時間の中に住まう感情の色を理解する方が難しい。

 先人の知恵があるなら、是非ともご教授して頂きたい所だ。 


 まあ、下らぬ戯言はよそう。

 オボロが私をどう思うにしろ、今の私は彼女無しでは非常に不便を強いられる。彼女に対する意識の変化は無い、今まで通り――オボロに振り回れるか、小判鮫の様に引っ付き続けるのか、選択肢はそれだけだ。

 ただ、私のスキルが正しいければオボロは『魔王』だ。彼女が本来の己を思い出した時に、少しでも良い思いが出来るよう、今の内に協力的な姿勢は取っておくのが吉。

 何せ、私はずる賢い大人なのでね。


「――ッ!」


 私が似合わぬ悪役を演じているその時だ、オボロは急に立ち上がるとゆっくりと周囲を見渡している。私には見覚えのある光景、これはオボロがあの森の中で巨熊に襲われていたモルゲンラッグ達の気配に気づいた時と同じ。

 しかし、何に気付いたのだ。既に砦に居た者は撤退をしている、この期に及んで何の用も無く森に入る愚か者は居ない筈だ。

 私の疑問に答えぬまま――オボロは音の方向を捉えたのか、一点を見つめたまま動かない。

 いや違う、僅かに姿勢を屈めて力を溜めている。


 まさか、いやいや、まさか――

 私の予想は的中した。

 オボロは力強く屋根を蹴り――その勢いだけで宙を跳び、上方から再びあの森へ大胆な飛び込みをしてみせた。

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