第16話 よふかしのさいなん

『枕がどこかへ行っている?』

『それは全て枕返しって奴の仕業なんだ』




 誰かと寝る。それも同じ寝台の上で、一つの毛布を共有してだ。この経験は久し振りだった。

 自分以外の誰かと床を共にする。子供の頃であれば両親と、では大人になった時は誰か。


 それは己が好意を寄せてしまった相手、か。

 互いに愛を呟き合った先で絡み合う場所、か。

 痺れた愛の末に一つの組合せとなった場所、か。

 或いは一夜限り刹那の快楽に身を投げる場所、か。


 自分の酷い外見と醜い中身を笑い、人間の愛など享受できないと思っていた私だ。

 まあ誰かと一緒に寝るなんて暑苦しいだけだ。自分と誰が一つの寝床を共にして、眠れる筈が無い。

 寝台は寝るための場所なのだ。

 そんな私が、異世界で少女と寝床を共にした。事実は小説より奇なり。まったく人生とは解らないモノだ。

 もし叶うなら、元の世界で生きていた頃の私に伝えてみたい。多分、かなり驚くだろうな。

 そして、元の世界の私はこう尋ねるだろう。


 寝心地はどうだったか、と。

 率直に言おう、最悪だ。


 オボロの寝相はかなり悪い。私自身も寝相が悪く、朝起きると布団は足元に追いやられ、枕は床に放り投げている。

 寝ている時の私は、どんな激しい寝返りを打っているのか、興味を持つ程だ。

 そしてオボロの寝返りも激しかった。

 寝息を立て始めた時、横向きに寝ていた彼女は仰向けになると共に毛布を勢い良く跳ね飛ばす。早々に毛布は寝台の下へ退場となる。

 人間の時なら毛布を取りに行ったが、今の私はぬいぐるみ。床に落ちた毛布を拾う力も、床から寝台に這い上がる力も無い。

 何より私の片足をオボロは握っていた。凄まじい力で、まるで私は根掛かりした釣り糸の如く動けない。

 やれやれと私は眠気を覚えず、瞼で視界を覆えないと言う苦痛の夜を辛抱強く過ごそうとした時だ。


 私の足を握るオボロの腕が少し上がり――そして振り下ろされる。多分、寝返りの類なのだろう。

 だが、オボロが腕を上げた瞬間だ。

 彼女は私の足を離したのだ。重さなど殆ど無い私は、彼女のちょっとした力でも軽々と投げ飛ばされてしまう。

 野球選手が放った球の如く、私の身体は凄まじい速度で寝台を離れて行く。必死に手足をバタつかせる私だが、その抵抗は清々しい程に無意味。

 声として出ない絶叫、前方に迫る壁に衝突する恐怖への言葉。そして、オボロへの恨みつらみ。

 私の視界に石壁が近づき――視界が真っ暗になる。

 ほぼ同時に鈍い音を私の耳が拾う。

 鼻先を(ズルズルと)石壁に擦り、私の身体は重力に従い床に落ちる。人間の身体であれば、確実に鼻が折れていた。

 幸いにも今の私はぬいぐるみ。この手の衝撃には強い。


 同時に触覚が無い為に、物に当たるなどして発生する物理的な痛みを私は感じない。

 いや、この感じだと痛覚自体が消失しているのだろうか。生憎私はその手の知識を殆ど有していない。理系では無いのだ。

 ただ、何せ今の私はぬいぐるみ。

 ぬいぐるみに痛覚なんて、は要らんでしょう、と言う事か。

  

 痛みに呻く事もなく、すんなりと立ち上がった私は寝ているオボロの方へ顔を向ける。人間とは不思議で、痛みを感じないと怒りもこみ上げてこない。

 怒りとは痛みに対する一つの防衛機能だ。

 痛い、だからこそ二度と味わいたくない。

 故に、一時の怒りで身体に脳に叩き込ませる。

 人間は負の感情を覚える生物。

 その痛みが物であれば、記憶し、同じ轍を踏まぬようにする。

 その痛みが人であれば、威嚇し、自分に危害を加えさせない。

 ――とか、あったりするのだろうか。

 それっぽい事を言って、誰かを騙すのは私の悪癖で、その事に関しては脳の回転も何時に増して速くなる。

 まあ、それが正しい場合やあながち間違いで無い事もあるのだが。

 

 ともかく、私を投げ飛ばしたオボロに怒りを覚えず。テメェ、この野郎――と毒づくだけに留めた私。

 当のオボロはそんな事は露知らず。私に背を向けて完全に深い眠りに落ちている。

 寝る前は後生大事に私を持っていた癖に、今の彼女にその気は全く無い。

 まあ、子供らしい、と言えるだろう。

 大事な物はとことん大事にするが、雑に扱う時はとことん雑に扱う、そんな感じだ。

 さてオボロの拘束から抜け出た私だが、自由になった所で出来る事は何一つも無い。眠気を一切感じず、無理に眠る事すら不可能な私の身体。

 窓を見れば、空は夜の帳が降り、雲間に隠れた月や星々が宝石の如く輝く。風景をこよなく愛する私を惚れ惚れさせる夜景は、同時に長い夜はまだ明けないと示唆していた。

 これで人の身体であれば、煙草を燻らして漆黒の夜に酔うこともできる。

 ただ、今の私はぬいぐるみ。出来る事など何も無い。

 

 こりゃあ、拷問だな。私は自嘲気味に言う。

 昼時から夜、深夜から朝にかけて仕事をしていた私は常々眠気を嫌悪していた。仕事中に襲い掛かる睡魔を蛇蝎の如くに嫌い、眠気を覚えぬ身体に憧れながら煙草と珈琲で乗り切る。

 かつての私なら喜んでいた。

 だが、今の私は望んでいない。

 願いを捻くれた形で叶えさせるのはまるで『猿の手』のようだ。

 結局、私は意味も無く部屋を歩き回ったり、夜空を見たりして、この長い夜を越えることを決意する。最後は心を無にしてボーっとする事で乗り切る。

 やがて空が白くなってきた事に気付いて、私は歓喜した。夜明けをここまで喜んだことは初めてだ。

 夜明けの空は白い。本当に白い。夜明けの僅か数刻だけ白いのだ。この白さは、人の眠る夜に活動する者だけが見れる特権。白からやがて透き通る青に変わる空を見て、私は自然と元気は湧いてくる。

 もっとも、この地獄のような時間がこの先も続くとなると気は重くなる。だが、一先ずは夜明けの到来を喜ぼうではないか。

 窓から差し込む朝日にボタンの目を輝かせていた私は、扉の外から階段を上がって来る足音を耳にする。オボロを起こしに緑鬼族オークが来たのだ、扉を軽く叩く音が二回響く。

 気を遣ってくれたのか音は小さく、この程度の音では起きないだろうと思ってたのだが、オボロはむくりと身体を上げて(むにゃむにゃと)何か唸っていた。

 重そうな瞼から覗く緋色の瞳はぼんやりとしており、視界をはっきりさせようと目を擦っている。数秒ボーっとした後にオボロは自分の近くに私が居ない事に気付き、そして床に居る私を見つけ開口一番。


「……なんで、我の傍から離れているのだ……?」


 寝起きの一声は不満気。

 寝覚めの相貌は不機嫌。

 声が出ないので、私は心の中で叫んでやる。

 ――お前が私を投げ飛ばしたのだ、と。

 私しか知らぬ事の真相。当然オボロは勝手に離れたと思っており、寝起きの身体の重さを感じさせない足取りでこちらに近づく。ヒョイと私を掴み上げると、汚れていないかマジマジと視線を向けてくる。

 基本的に私を大事にする方針なのは嬉しいが、それならせめて寝る時は私を机にでも置いて欲しいものだ。


「……うむ、汚れは無いな。おはようピョンちゃん」


 ニッと鋭い歯を見せてオボロは笑う。

 毒っ気は無いが笑みは太陽の様に眩しく、明月の様に輝く。この世の無情さを知らぬ純粋無垢さは、俗世に汚れた私には直視し難い。本能的に顔を背けると、オボロは不思議そうに首を傾げている。

 ――はいはい、おはよう。

 私は心の中で挨拶を返すと、声の代わりに手を振って返事をしてやる。この動きの意味を察したオボロは満足気だ。

 このやり取りが扉の向こうまで聞こえていたのか、起こしに来た緑鬼族も起床の挨拶をすると朝食が出来ている事を伝える。オボロは朝食と聞き、まるで新品の玩具を手にした子供の様な足取りで部屋を出る。


 異世界に転生した私にとって、二日目の朝はこうして始まった。

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