第10話 森のくまさん
『凶暴な獣や魔物、それか山賊。これ異世界の鉄板です』
『後はそれに襲われる美少女がいれば完璧ですね』
どれくらい少女と夜空を見ていただろうか。
月見が好きな私も、流石に飽きてくる。観月のお供に飲料や煙草があれば数十分は確実に楽しめるが、両方とも無いと間が持たない。
だが今の私は、絶世の美少女――人の皮を被った何かだが――が傍に居るのみならず、その彼女に抱きつかれていると言う、世の男たちの垂涎三尺の的。
こんなにも可愛い全裸の少女に抱きつかれているのに、不満なのか。
批判を承知で答えよう。
不満――と言うよりは何とも思っていない。
少女の控えめな双丘も。
女子特有の幼さ故のミルクのような香りも。
絹のように柔らかそうな肌も。
微睡みそうな程に心地良さそうな体温も。
今の私には感じられないからではない。
単純に私は女性に興味が湧かないからだ。
誤解を招いたかもしれないので訂正をするが、私にそっちの気は無い。
では無性愛者かと尋ねられれば、これまた答えに困ってしまう。
まあ性の云々について私は別に専門家では無いので、下手なことは言わないでおこう。細分化がお好きな先生方や、聞き齧った知識を披露する専門家業者にでも頼んでおけば良い。
話が逸れてしまったが、私も女性を好ましいとは思うし、魅力を感じないと言う訳でも無い。制服を纏い、愚かさを纏っていた頃の私は同じ年頃の女性に興味は持っていた。
だが徐々に思考をを拗らせ、己の外見と同じように醜悪に成り下がった私の内情、そして社会に出てから思い知らされた女の怖さに私は――
私は自分が色恋に適さない人間と定義させた。
あのように高尚なモノを、下賤な私が享受などできない。
思い込みとは恐ろしいモノで、私が女性相手にビクビクしてしまうのに、そう時間は要さなかった。
なので、今私が美しき少女に抱かれていても、何も感じていない。しいて言えば、ジッとするのが苦手なので放して欲しいぐらいだ。
加えて少女が生やした尻尾や、纏わりつかせている人ならざる存在の雰囲気。
とてもじゃないが、落ち着いてなどいられない。
しかし、当の少女は完全に寝息を立てている。
外見相応に幼く安堵した表情の寝顔に反して、私を抱きしめる力は強力。幾ら暴れても解かれず、むしろ彼女は反射的に力を強めていく。
現状私に対しては無害だから良いものの、それでも私は凶暴な野生動物の巣穴に放り込まれた気分に変わりない。
それから更に数十分は経ったところで、少女は唐突に目を覚ました。
目覚めの息遣いは――未だ睡眠に微睡む身体を叩き起こそうとする脳からの指令。
私は急に起きた少女にびっくりしていると、彼女は僅かに周囲を見渡すとスクリと立ち上がる。寝起きの気怠さを感じさせない(キビキビ)とした動作は野生の動物を彷彿とさせる。
少女は私を抱きしめたまま、周囲への気配を尖らせる。
紅玉のような双眸が稲妻もかくやに鋭く光り。
幼さの消えた相貌は好まざる者を威嚇するように険しい。
どうやら何らかの音を察知したのか、少女はしきりに音の発生方向を探っている。白銀の髪に隠れた耳が(ピクピクと)動いているように錯覚する程だ。
試しに私も耳に集中してみるが、聞こえてくるのは相変わらず虫の音や枝葉の触れ合う音だけだ。聴覚に自信がある私とは言え、流石に遠方で針を落とした音が聞こえる程に良くはない。
兎(のぬいぐるみ)らしく聴覚の向上も無いようだ。
しかし、少女は確かに何かの音を察知した。私には聞こえぬ音が鳴る方向を彼女は見つめている。
刹那、少女は素早く身を捩ると、勢い良く地面を蹴り――飛んだ。
は?
と、飛んでいるッ!?
いや、厳密には跳んだ、が正しい。
少女は駆け出す寸前の姿勢を取って、地面を蹴った。
その瞬間に私の視界に映る景色は凄まじい速度で過ぎ去って行く。
早送りのように流れていく景色に、三半規管の強さには自信のある私も流石に目を回す程。
不規則に足を着いては再び地面を蹴って勢いをつける少女の動作。更には少女がこの動きを楽しむあまり、無駄に木を踏み台にしようと前後だけでなく右に左に身体を揺らすのだ。
少しは私のことも考えて動け、と怒る私。抗議の声は上げられないので、代わりに手足をバタつかせて抗議する。当然私は彼女に抱きかかえられているので、少女の薄い双丘に手が触れているのだが触覚など無い。
まあ、あった所でこんな薄っぺらい胸など触った所で喜悦も無い。
では、恥じらう素振りに興奮する輩も居るだろう。
だが、こちらが手足を動かしている事を少女は私が楽しんでいると勘違いしている。一応は私の様子を確認しつつ、少女は更に激しい動きで森を跳び回る。
無理無理だ――流石に怖すぎるッ!
少女に抱かれてはいても、しっちゃかめっちゃかに変わる景色は私にとって恐怖以外の何物でもない。ジェットコースターですら私は乗れぬのだぞ。
既に私は手足をバタつかせるのを止め、情けなく――樹木にとまる蝉が如く――少女の胸に必死にしがみ付いている。密着率に関して言えば、彼女の薄い双丘は花丸だ。
自分よりも大きな女性の胸にしがみ付く、とある種の夢のような出来事を味わう私だが、当然そんな余裕など微塵も無い。今私の頭の中を占領しているのは邪念では無く、只管にこの地獄のような状態の終結。
その最中、私の優秀な聴覚は狂い荒れる風の音の中に獣の咆哮を拾った。大地を空気を揺らすかのように鳴り響き、聞いた者の腹の底から恐怖を迫り上げさせる咆哮。
少女はこの声を聞いたのだ。その証拠に声は(どんどんと)大きくなっていき、また憔悴した怒声に近い人間の声や逃げ回る足音が聞こえてくる。
只ならぬ状況なのは明瞭。
しかし同時に光明。少女のお陰で私は人に出会えることができたのだ。
「――ほう、これは随分と巨大な……」
目的の場所に到着し、乱暴な移動を終えた少女が感心の声を発する。思わぬ乱入者が周囲に僅かな静寂を齎し、やがて人の聞き取れぬ呟きが聞こえ始める。
さながら心臓に悪い悪質なドライブを耐えきった私は、状況の確認の為に振り向こうと身体を動かす。ぬいぐるみの構造上、こうして身体全体を動かさないと振り向けないのだ。
少女の片腕に抱かれたまま、何とか身を捩って私は前を向き――驚愕した。
なんだ、あの巨大な熊は⁉
それはまるで象の如き巨体の熊。全身を覆う黒い体毛はまるで針山のよう。異常な程に膨張した筋肉を備える前脚には、岩をも簡単に砕いてしまいそうな黒い爪。
突然の乱入者である少女を早期に警戒する双眸は、血走ったと言うにはあまりにも赤く爛々としている。威嚇の為に低く唸る口からは真っ黒な唾液とも血にも見える体液が滴り落ちる。
そして、この正気とは思えぬ熊のような怪物と対峙していたのは――緑や灰色の肌を持った猿のような生物。
姿格好は人間そっくりなのだが、やや鋭利に尖った耳や下顎から伸びる発達した歯。異世界特有の人間なのかと思った私はそこで転生に立ち会った男の言葉を思い出した。
彼は異世界に
僅かながらも頭髪がある者や耳をピアスで装飾した者、更には入れ墨のある者。
確かに怪物じみた姿だが、しっかりと服――山賊じみた装い――を着用しているので怪物は言い過ぎだろう。何より少女を見てキョトンとしている顔や、恥ずかしさに目を背けた者も居るので、ちょっとした可愛げがある。
などと私が異世界での
いやいや、こんなの勝てないだろッ!
逃げよう、少女よ早く逃げようッ!
私が必死に少女に訴えかけるが、彼女は無視をするどころか不敵な笑みを浮かべている始末。それでも私のことは確かに案じているのか、片腕に入る力が強くなる。
「――ふむ。鈍った身体を動かすには丁度良いか」
不敵に無敵に素敵に微笑む少女。
その相貌は捕食者たる余裕を湛え、僅かに覗き出た青い舌はその先端が蛇のように二つに割れている。
狩りの興奮に少女は昂り、戦いに酔い狂う尻尾が地面を妖艶に撫で始める。
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