第8話 朧月夜物語 中編

『灰雲が隠月の封印を解き龍を顕現させる』





 月を固めたような水晶の塊から現れた少女。背の高さからして、十代前半ぐらいか。

 肩までの長さの髪は白、と言うよりは白銀で朧な月から降り注ぐ光に煌めく。

 一糸まとわぬ身体は肉付きが薄く、双丘の膨らみはささやかな程度。女性の裸体に慣れぬ私は思わず目を覆ったが、よく見ると彼女の身体に違和感がある。


 そう、膨らみの先端に人間にはあるべきが無いのだ。

 それ故に彼女の身体は白雪にも石膏にも似る肌色も相まって、まるでマネキンやトルソーを彷彿とさせる。

 それでいて纏う雰囲気は妖艶さでは無く、美麗さ。

 彼女の均整の取れた肉体も相まって、古代の石像のような美麗さだ。

 そして色情を心に浮かべることすら憚られる神聖さ。


 さらによく見ると少女は腰の辺りから長い尾を生やしている。

 蛇の尻尾の如く(つるり)とした表面には、僅かな月明かりに照らされて鱗の一枚一枚が宝石のように煌めいている。面白いことに視点を動かしてみると、鱗はまるで虹の如く七色の輝きを私の双眸に与えてくれる。

 この世のものとは思えぬ美しさ、そして明らかに人ならざる存在であることの証。如何に美麗な少女の皮を被ったとして、その内側に如何なる本性を潜ませているのか。

 鬼や蛇ならまだしも、異世界故にとんでもない怪物を包んでいても不思議ではない。

 

 木の陰から少女の姿をひっそりと見ていた私。

 その時――唐突に少女が私の方へ首を向ける。あまりにも突然の出来事だったが、こう見えて反射神経は良い方だ。咄嗟に首を木の陰に隠しつつも、私は恐らく無いであろう心臓がキュッと握られる感覚を確かに感じた。

 こちらに振り向いた少女の紅蓮の如き瞳に私は得も言われぬ恐怖を覚えたのだ。美しい紅玉ルビーを嵌め込んだような瞳だったが、中央に入った黒く細長い瞳孔は捕食者然としたものだ。もう少し詳しく言うなら獲物を見つけた猫の双眸、ならば私には鼠の役がお似合いか。

 

 私の中の本能が警鐘を鳴らし始める。

 あの少女は危険だ、と。

 あの少女と関わってはならない、と

 

 火事を知らす鐘の如く鳴り響く警鐘に、私は本能的に自分の口元を覆い隠す。二度と声も出なければ、そもそも口も開かぬ身なのに身体に残る記憶とは度し難い。当然潜める理由も無いのに、私は息を止めて一歩も動かずに少女が何処かへ去るのを待つ。


 安心しろ蔵人わたし、今の自分はぬいぐるみだ。

 こうして動かなければ、発見される要素は一つも無い。呼吸の音も身体の臭いも今の私には無いのだ。


 私が必死に大自然の一部と化そうと努力している間、微かに少女の歩く音が聞こえる。

 雨でぬかるんだ土を靴を履かぬ足が踏む音だ。

 抜き足差し足忍び足ではなく、周囲の事等意に介さない歩き方。木の裏に隠れ潜む私に気付かれない足音ではないので安心して良い――


 ――ッ⁉ 

 急に歩調が速くなった――というか、こっちに来ているッ⁉


「――見つけた」


 私が少女の接近に気付いた時と同時に――頭上で声がした。見上げた先に笑みを浮かべる少女。異様な事に開いた口から覗く歯は、まるで肉食動物の牙のように鋭利。

 幼くも不思議と大人びた印象を与える声色は確かな喜びを孕んでいる。背後に感じる圧倒的な威圧感。まるで全身が石に変わったかのように、私の身体はピクリとも動かない。

 振り返った先に見える少女の顔を見る勇気はない。

 何故なら、この僅か数秒の間に私の脳(本当にあるかは不明だ)は前人未到の数式を解かんとする学者もかくやの回転を見せている。

 今までの経験則と知識を総動員して、この場を乗り切る解答を算出する。


「ん?」


 少女が訝しげな声を上げる。

 それもそうだ。私の脳が出した答えは、即ち普通のぬいぐるみのフリをすることだ。

 全身の力を一気に抜いて、すとんと尻もちをつき、こてんと上体を後ろに倒す。


 どうだ、これは何処からどう見てもぬいぐるみだ。

 さあ、さっさと興味を失って何処でも行ってくれ。


 確かに今は人が恋しい気分だが、流石に人ならざる存在は願い下げだ。

 必死に願う私だが、苦しい時の神頼み程祈りは天に届かないものだ。

 少女は私を掴み上げて自分の顔の近くに寄せる。

 息を呑む程に美しい顔と捕食者が如き双眸が近づいて私は緊張と恐怖を同時に感じる。女性慣れをしていない私に少女の容姿は劇毒だ。

 心を奪われるどころか、私の心も何もかもを跡形も無く溶かしてしまいそうだ。


「……何を黙っているのだ? よもや我の姿を見て、声の出し方も忘れたのか? ん?」


 幼い少年に声をかけるような声色で少女は尋ねる。心なしか表情も柔らかく見えるが、その一方で私を見つめる緋色の双眸は好奇と嗜虐の色を湛えている。


 こちらの出方を嬉々として待っている、まるで性根の腐った学者みたいな態度だ。


 しかし今の私には答えを返す声は発することができない。

 さりとて、四肢をばたつかせても少女にこちらの意図は伝わらないだろう。

 当然私に出来る事は、声を出せないことを少女が気付くのを待つだけに限られてしまう。

 まあ出会いの頭から捕食者――ある種の上位者めいた態度で寄ってきたのだから、察しぐらい良いとは思うが。


「……おい、何か言ったらどうだ」少し苛立った様子で少女は私の身体を揺する。


 どうやら、想像以上に彼女の察しは悪い。

 いや、もう少し待ってあげるべきか。

 いや、やめておこう。彼女が私を揺する力がどんどん強くなってきている。

 生憎、振って充電する機能など私には無いぞ。


 私は少女に掴まれながらも、両手を自分の口の前で交差する。所謂バツ印を作ったのだが、果たして異世界では伝わるのだろうか。


「何だ? 何が駄目なのだ?」


 どうやら異世界でもバツ印への認識は同じようだ。

 しかし、まだ伝わらないか。と言うか、ここまでやっているのだから喋れないと察しても良いだろう。

 いや待てよ、もしかすれば異世界ではぬいぐるみは喋るのかもしれない。

 いかん、いかん。今、私は異世界に来た身だ。郷に入っては郷に従えの精神を忘れてはいけない。

 次に私は自分の口の部分を指で叩いてから、バツ印を作る。流石にこれなら分かってくれるだろう。

 正直言ってこれで駄目なら打つ手はない、何としてでも彼女に私が喋れないことを汲み取ってほしい。

 何故なら少女が言葉を使う事、そして彼女の使う言葉を私が理解できること。この二点で既に私は彼女への警戒を弱めたのだ。

 無論危険であることは承知だが、それでもアイナを見失った今、頼れるのは人かも分からぬ彼女だけだ。


「ふむ……よもや声を発せられぬのか?」

 

 少女に正解だと伝えるべく、私は両腕を上げてマルを作る。

 マルの意味も私の居た世界とこの世界異世界は同じなようで、少女は嬉しそうに目を細める。

 

 いやいや、嬉しいのは私だ。

 意思の疎通ができる相手を見つけられた時の安堵感たるや凄まじい。しかし同人に心に靄として現れるのは彼女に感じる不安要素だ。浮世離れした外見、先程見せた一瞬で間合いを詰める動作、姿は人間に近くも確実に人ならざる存在である少女の正体。

 あの月の塊から現れた光景が目に焼き付いている私は、自然と彼女が何か封印されし存在では無いのかと疑っている。

 仮に彼女が世界を終焉に導く存在であれば――私は大悪人になってしまう。 

 少なくとも彼女が何者なのか探るべきなのだが、ここで喋ることができないのが足を引っ張る。


 さて、どうすべきか。と言うか、異世界ならテレパシー的な会話方法があるのではないのか。

 電気以上に便利な魔術があるのだから、その辺りの技術が発展していても不思議ではないと思うのだが。

 いや、或いは彼女が私を元から会話の出来ぬ存在と認識した可能性がある。

 所謂『』だ。

 思い込みとは中々に度し難いモノで、一度思い込めば余程の事が無いと考えを改めることは無い。

 ともかく少女が私をそう認識した以上、現時点の私が何かしてやれることは無い。

 今はもう、彼女の動向に全てを委ねるしかない。

 それが如何に最悪な結末を迎えたとしても、然したる力も無い私に止めることなど無理だ。


「まあ貴様が喋れなくとも構わぬ。見た所『使い魔』なのだろう、聞こえているならば出てこい」

 少女は私を見つめてから、そう言って周囲をぐるりと見渡している。

 

 なんだ、使い魔って?

 異世界に来てから分からないことばかりの私に、日常生活では聞き慣れない単語が飛び出てきた。

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