第7話 朧月夜物語 前編
『こんなに寂しい夜なんだ』
『布団の暖かさより、人肌の温もりが欲しい』
一人になることは好ましい。私は常日頃からそう考えていた。誰かと歩調を合わせるのが苦手であり、別段積極的に会話をすることもしない。行く先が分かっていれば先頭を、分からねば一番後ろに位置を取る私だ。
集団の中でも一人だけ省かれることに何ら不快感など覚えない。
本質的に私は一人を好んでいるのである。
自分の好きなように動くことができ――何かあれば立ち止まる。
意気揚々と進んで行くと思えば、おっかなびっくりに後ろをこそこそ追随する。
思い返せば人生において私は一人でいる時間が多かったように思う。
だが、そんな私でも寂しさを感じる時が無い訳ではない。
特に現在の様に、何も分からぬ異世界の地で、ひと気のない森の中を進む私は寂しさを感じている。いつもは心の隅に追いやった人恋しさが、今や私の心の中をたちまちに埋め尽くし、喉元に悲しみの熱を迫り上げさせている。
深いため息を吐く。
もっとも声の出せぬ私だ、当然体内を行き来する息の出どころは無い。心の中で深く溜息を吐いた、とでも言えば良いだろう。
アイナと彼女を助けた者達を見失い、私は途方に暮れる。彼らが戻ってくるかもしれないと思いもしたが、あの急いだ様子からして可能性はゼロだ。
結局行く宛も無く、私は森から出ることだけを考えて歩いている。
歩幅は狭く、規模も不明な森を行くのは気が遠くなりそうになる。
ただ、唯一私が出来るのは進むことだけだ。
それしか知らない。
それ以外に方法が思いつかない。
頭上は依然として灰色の雲が空を覆っている。
加えて辺は少しずつ薄暗くなり始めていた。日が沈みかけているのだ。
せめて美しい夕焼けでも見れば元気も湧いてくるのだが、生憎の曇り空。異世界のお天道様をお目にすることは叶わない。
しばらく歩いたところで、私は近くの樹の下で休むことにする。疲れた訳では無い、不思議なものでこのぬいぐるみの身体は私に疲労を感じさせないのだ。
運動を蛇蝎の如く嫌った代償に私は体力が殆ど無く、ちょっと歩いただけでも息を切らしてしまう程だ。
今の身体ならどこまでも行けそうなのだ。この点に関して言えば、得である。
故に私が休憩を取ったのは疲労と言うよりは、いっこうに状況が変化しないが為に悲観的な思考が脳内に広がるのを防ぐためだ。
マイナスに思考を向かわせると、幸運も逃げ去って行く、と私なりに編み出した処世術である。
悠久の時間の中でゆっくりと着実に成長したであろう巨木の下、地面から露出している木の根の間に私は腰を落とす。地面へ直に座るのは好きではないが、それは服を着ている場合。
服を纏わぬ、ぬいぐるみの私には関係の無いこと。
ペタンと地面に座る私はさながら、あの有名な熊のぬいぐるみのようだろう。その姿を想像して私は苦笑しつつ、巨木の幹に背中を預けると空を見上げた。
息を呑むほどに美しい夜空と月が、私のボタンの瞳を虜にさせた。
夜勤業務の休憩時に、私は必ず煙草を燻らしながら夜宙を見上げている。
煌々しい満月。
綺麗な半月。
そして三日月。
今宵、異世界で初めて見た月は――朧月。薄くかかった雲越しに白銀の月が朧気ながらも確かに夜を照らす。元居た世界でも朧月は見てきたが、異世界の月はそれとは比べ物にならない。
雨上がりで空気が澄んでいるのもあるだろうが、何よりこの森の中に人工的で毒々しい輝きが一切無いのが理由だろう。
見惚れるとは正にこの事だ。
朧月の煌めきは私の心を強く打ち、異世界に来てから散々な目に遭ったお陰で荒みそうな私を癒す。太陽の暖かみを感じられていない私にとって、月だけは元の世界と変わらぬ光を注いでくれている。
思わず私は元の世界での癖ゆえに懐を弄り、煙草を取り出そうとしてしまう。勿論そんなモノは無い。
月見に酒、月見に団子、ならば私は月に煙草。
美しい月を目にしながら、夜風に当たり煙草を燻らすことの至福さを異世界では得られないことは嘆かわしい。
しかし、ふと思ってみると今の私は煙草を欲していない。暇があれば煙草に時間を費やし、とうとうニコチンの奴隷となってしまった私だ。
異世界に来てから時間が経っているのに、私の身体も脳も煙草への欲求を激しくさせていない。
どういうことだ?
私は疑問に思いつつも、結局答えは出ない。
ただ、結果的に考えて良かった。
今のぬいぐるみの状態では煙草を吸うことは出来ない。
そんな状態でニコチンの欲求の発作が出れば――なんたる生き地獄か。吸いたくても吸えない状況に陥れば、私の精神はいとも容易く瓦解してしまうだろう。
私にとって煙草とはそれ程の関係なのだ。
私の身体が煙を入れる気が無いのは構わないが、異世界に煙草があるなら吸ってみたいモノである。
数十分は月見をしていただろうか。
月に充分に癒された私は重い腰を上げると、再び行く当てのない前進を始める。
目的も分からなければ道も分からないが、このまま森の中で過ごすのは元人間の身として退屈だ。
気が遠くなりそうだが――まあ、気楽に行こう。
進んでいれば、何かは起こる。
良くも悪くも、何かが起きてくる。
選り好みの出来る立場でない。
確固たる意志を以て――
でも肩の力は抜いて私は歩き続ける。
目的なんざ知らんがな。
進めばなんとかなる。
疲れも眠気も感じず、私はしばらく森の中を只管に進む。
聞こえてくるのは獣の歩く音や種類までは分からない虫の音ばかり。
暗い森の一寸先は闇ばかり。
雲越しに柔らかく地上を照らす月の明かりが頼り。
代り映えの無い風景が続く中、それは唐突に私の目に飛び込んでくる。
何だあれ?
石?
いや、水晶?
それは人間だった頃の私の背丈ほどある水晶のような塊。
微かに発光するそれは森の闇の中でぼんやりと輝く異質な物体。夜空の上に輝く朧月と同じ色合いのそれが森の中に鎮座している様は、あまりにも不相応で、自然の手によるモノでないのは明らかだ。
もしくは異世界特有の鉱石だったりするのか。生憎私は地質学には明るくないので、確かなことは分からない。発する雰囲気も何処となく禁忌めいていて、人が気安く触れてはならない厳粛さを漂わせている。
ただ、私は三十五にして好奇心が旺盛な性質だ。それこそ猫をも殺す好奇心を宿してしまい、いつまでも無知な少年の心を忘れない私は不用心にも近づいていく。
触れることはせず、まず近くで観察する。
当然分かる事等一つも無い。
聞きかじり程度の石への知識程度では、やはり眼前の月の塊のような物体の正体を特定するには至らない。
そして、ここで更に私の悪癖が出てしまう。
そう、うっかり触れてしまったのだ。
その瞬間だ、不可思議な水晶の塊が一瞬強く光ったかと思うと全体に罅が入り始める。
氷が割れるような音が静かな森に響き渡り、私は飛び上がるとそのまま近くの木に隠れる。
あ、あれ?
何かやっちゃった?
突然の出来事に焦る私。
そうこうしている内にも塊に走った罅が割れ始め――中から一人の少女が現れた。
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