第6話 迷子の私と雨天の異世界 後篇
『不運とは転がる石』
『一度転がれば最後、とことん不幸を齎していく』
人とそれ以外の生物を隔つ何たるかは言葉だ。
その為に人は口呼吸などと危険な進化に進み。
そのお陰で人は言語による高度なコミュニケーションを会得し。
それにより人は世界を支配する生物になったのだ。
故に人でありながら会話を行えないのは人間として致命的と言っても過言でない。
無論それが出来ない人も、長い歴史の中で言葉の様々な代替策を編み出してきた。文字や手話はその最たる例。
人間社会において言葉とは会話とはそれほどに重要。それが不可能であることに私はひどく絶望をする。特に他者との意思伝達に声を最も使用する私にとって、手話は身近では無い。仕事柄ある程度の挨拶等は微かに理解しているが、確実に伝わるとは言い難い。
そして、仮に私が手話に堪能であったとしてもだ――
私は己の手を見た。
先の丸い腕だ。
高度で繊細な作業を熟す指は私には無い。今の私に文字を書くことは困難。手話など以ての外だ。
だが、まだ希望はある。
少なくもと私はアイナの言葉は理解している。これは私と彼女が同じ国の出身であることの証左。
私はアイナの小さな手を開かせ、彼女の掌の上に自分の丸い手を置き、精一杯に文字をなぞる。
『だ・い・じ・ょ・う・ぶ』
基本ミミズの這った字を書く私が、渾身を込めて丁寧な文字をアイナの掌になぞった。
どうだ? 分かってくれたか?
期待する私に、アイナは手を数回握っては解くを繰り返すと、おずおずと口を開く。
「何か文字を書いてくれたんですよね……よく分からないですけど……」
……まあ、この手で上手く文字を書けるとは思ってないが、一つも理解してくれないか。
落胆する私だが、一方でアイナは少なくとも自分の近くに居る者に差し迫る危険は無いと思ったようだ。
「あの……貴方は私を助けてくれるんですか? 肯定なら一回、否定なら二回、私の掌を叩いてください」
アイナが掌を差し出す。
ふむ、賢い子だ。こちらが喋れないと分かっている上で、何とかコミュニケーションを取ろうとしてくれる。
意地悪をする理由もない、私は彼女の掌を優しく叩く。
「ありがとうございます。えっと、一先ず移動をするべきですよね?」
当然だと、私は一回叩く。
「えっと、何処か安全な場所をご存知ですか?」
二回叩く。私が教えて欲しいぐらいだ。
「それなら無闇に移動をしない方が良いかもしれません。私の視力が戻るまで、この場に居るのはどうでしょうか?」
うむ、一理ある。
確かに目の見えぬアイナを連れるのは危険が多い。私は良い考えだと言う代わりに彼女の手を強めに叩いてやる。稀に私が良い売り上げをたたき出した時、同僚はこちらを讃えるように肩を強く叩いたの思い出す。
しかし突然強く叩かれたアイナは私の意思が伝わっていないようで、ポカンと口を開けて困惑した表情を見せる。流石に突然がすぎたようだ、私は反省しつつ彼女の左横に(スッと)腰を下ろす。
アイナの視力が戻るまで休息だ。私は深い森と生い茂る木々の枝葉の隙間から覗く灰色の空を見ながら、この暇な時間を潰す。時折アイナの方を見てやると、彼女はまだ不安に身体を揺らしているが、私が隣に居ることで先程よりは安心しているようだ。
ふむ、中々強い娘ではないか。私はアイナに感心する。
何せ今の彼女は目が見えず、頼り無い私が傍に居る状況。外見から判断するに十五、十六の齢と考えられる。私からすれば子供同然にも関わらず、アイナは肝が据わっている方だろう。
もし私が彼女と同じ状況であれば、不安と恐怖で錯乱していたに違いない。視力にばかり頼る今の現代人にとって、一時的でも目が見えなくなるのは考えるだけ恐ろしい事だ。
私がアイナの度胸に感服していると、やや近くで聞いたことの無い獣の遠吠えが静かな森に響く。恐怖が身体の底から喉元まで迫り上がる声だ。自然から切り離された都会で生きてきた私に、遺伝子の中に眠っている遠い先祖の記憶が警鐘を鳴らせる。
いわゆる本能。人間が大昔自然と共に生きていた頃に体験した捕食者への恐怖の賜物。
もっとも今の私は外見的に獲物になる可能性は低いが、アイナは別だ。彼女は獣の唸りに一際身体を大きく震わせる。ガクガクと歯を鳴らし、ささやかな防御のつもりか両腕で身体を抱え込んでいる。
「……あ、あの、私のポケットに石みたいな物が入っていると思います」
アイナが左手でポケットを触る。確かにポケットには石が収まっているのが外からも分かる。
私に取れと言うことなのだろう、彼女の衣服に腕を突っ込み外から石のある場所を確認しつつ腕を伸ばしていく。今の私には触覚が無いので、石に触れた感触が分からないのだ。
そうこうしている内に、自分の腕が石に当たった時に私は気付く。ぬいぐるみの私には指が無い、触ったところで掴めないのだ。
そう思ったのだが私が石に触れると――驚いたことに石が腕に先に張り付いたのだ。腕を引っ張ると石も同じ動きをする。
どういうことだ?
不可解な現象に小首を傾げる私はそこで、石を手放すことを想像してみる。すると、石が私の腕から外れる。
ほほう、面白い。
どうやら、この不便な腕は私の意思によって物を掴み・離す――指の下位互換としての能力があるようだ。無論指の精密動作には敵わないが、物を掴めることが分かったのは勿怪の幸いだ。
さて、意外な便利さに何時までも驚いている場合ではない。アイナのポケットから取り出したのは、確かに彼女の言う通り石だ。先端はやや尖っている代物で、全体的に煤のような物で黒ずんでいる。大きさは小ぶりで、彼女の小さな手にもすっぽりと収まる。ぬいぐるみである私にも少々大きいぐらいで、両手で持てば難なく運べる。
「その石には魔術が施されてます。木の枝等に擦ることで、火を点けることが出来ます」
とんでもない品だ。さながら高性能火打石とでも言うべきか。
何より魔術とアイナは言った。この世界の魔術がどのようなモノかは定かでないが、魔術とは火や水を自由自在に出せる超能力と私は記憶している。彼女がこのような魔術の品を持っているということは、やはりアイナは魔術に関係する役職に違いない。
視力さえ戻ってくれれば、当分のことはアイナに任すことが出来るだろう。ならば、今の内にたっぷりと恩を作っておかねばならない。
生憎、私はずる賢い大人なのでね。
しかし火を点ける石だけあっても始まらない。着火剤となる木の枝を探すべく、私は立ち上がり周囲――なるべくアイナの姿が見える範囲――を歩き回る。森の中とあってか木の枝はそれなりに落ちているが、何せ先程まで雨が降っていたせいで殆どが濡れている。
それでも両腕で抱えられる量の枝を集め、私は再びアイナの居る場所まで戻る。私の足音を聞こえるとアイナがありがとうございます、と感謝と共に頭を下げる。
丁寧で育ちの良い子だな、と私は煤塗れの石を抱えながら思う。アイナの説明通りに石で枝を擦ってみる。驚くことに軽く一回擦っただけで、一瞬木の枝に赤い炎が走る。何度か擦ってみれば、瞬く間に火が点き始めたので私は慌てて木の枝を被せていく。
「……暖かい……ありがとうございます」
柔らかくも確かな火の暖かみにアイナは気持ちよさげに微笑む。
魔術で起こした火も普通の火と変わらないのだろう。生憎、今の私には触覚が無いので熱さは分からない。不思議と身体が温まった感覚に陥るが、恐らく人間の頃に感じた火の熱さを脳が記憶による感覚を私に教えてくれているようだ。
しばし私とアイナは隣り合って火にあたりながら、ゆっくりと流れる時間に身を置く。現状彼女の目の回復を待つことしかできず、他に出来ると言えば火を絶やさないように枝を継ぎ足していくことだけだ。
火の点きは良いのだが、何せ枝なのですぐに燃え尽きてしまう。拾ってきた枝も尽きそうになり、私は重い腰を上げて歩き出す。私が離れたのに気づいたアイナが寂しそうにしているので、すぐにでも戻ってやりたいのは山々。だが近くにはもう枝が落ちていないので、少しだけ遠くの方まで私は枝を拾いに行く。
一人で黙々を作業をするのは心地よい。
段々と集中すると共に熱が入った私はどんどんと森の奥の方まで進んでしまう。一つのことに集中してしまった為に周囲が見えなくなるのは私の悪癖である。
危険が迫った瞬間にハッと周囲の状況に気付き――時すでに遅しを何度も経験していた。
今回も同じだ。
少し近くで獣の唸りが聞こえて私はハッとする。周囲は充分に育った木々で暗く、背の高い茂みのせいで見渡すことが出来ない。そして、すぐそこで何かが走った音が聞こえた瞬間、私は全力で走った。
だがここは森の中。四方八方が同じ形状の木に囲まれ、目印となるモノが一つも無い。道や景色に対する記憶力は高い私であっても、慣れぬ森の中を己の勘で走ることは自殺行為だ。
まずい――まずい、まずいッ!
どっちだ、どっちだ、どの方向だ⁉
あれは見覚えがある、木?
いや、あっちか?
それとも、こっちか?
おいおい、どっちに行けばいいんだ⁉
私は激しく錯乱する。緊急時に冷静さを失うのは私の悪い癖で、加えて取りあえず動いてしまうことが状況の悪化をより深刻化させる。何よりアイナに危険が迫っていることが、私の冷静さが戻ってくるのを邪魔する。
少し遠くから急接近する獣が駆ける音。一匹二匹では無い、小規模の群れだ。身に迫る危険の足音が恐怖と不安を焚きつけて私を焦らせる。
それでも変なところで運の良いのが私。前方の茂みが少し開けてくると共に、アイナの姿が見えてきた。
そして――彼女を優しく抱える若い男と彼の傍に立つ女、それの数名の男達。
男は共に綺麗な服の上から軽い鎧を付けており、女はまるで魔女のような装いをし、それ以外の者は中世の兵士が如き風貌で周囲の警戒にあたっている。
どうやら私以外にも森の中には人が居たようだ。彼らが何処ぞの連中かは知らないが、一先ずアイナへの危機は払拭できた。
ついでに私も助けてもらおうと、思ったのだが――
お、おいッ!
ま、待ってくれッ!
彼らがアイナを連れて足早に去ろうとしている。私は自分が声を発せないことも忘れ、喉を裂かんばかりに聞こえぬ叫びを上げる。アイナも私のことを待って欲しいと告げているのか、彼らと揉めている様だ。
だが、声なき声が聞こえることは無い。
女はアイナを強引に肩に担ぐと、足早に走っていってしまう。
あぁ――おいおい、嘘だろ?
絶望にがくりと膝をつく。
走ったところで、追いつけない。
若い男に担がれたアイナがやっと視力が戻ったのか、彼女の見開いた美しい茶色の瞳が確かに私を見たが――その頃にはもう、彼女たちの姿は森の奥へと消えてしまった。
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