第4話 迷子の私と雨天の異世界 前編
『逆境を如何に楽しむか。人生はこれに尽きます』
人生に逆境や不運はつきものだ。
良い事ばかりの人生は無く、悪い事づくしの人生も無い。概して幸福とは小さく不幸とは大きく感じてしまうもので、それ故に大抵の場合人は自分の人生は不幸ばかりだと嘆いてしまう。
結局のところ、人は小さな幸せを拾いながら、不幸の嵐の中を進む生物なのだ。
当然、人間である『
日々の生活の中で小さな幸せを拾っては、僅かな幸福を噛みしめ明日を生きる。
そんな人生だ。
そういう人生だ
これが私の人生だ。
他者の幸せを妬むことなど、とっくに捨てた。
何故なら、それは惨めだからだ。
何故なら、それは醜悪だからだ。
自分には、この程度の幸せで充分なのだ。
そう言い聞かせ続けた。
そうしないと、自分がおかしくなりそうな気がしたからだ。
同僚たちが質の良いお客様と巡り合ったことを嬉々と話し、素晴らしい営業の成績を上げる。
私にはそんなモノなど無い。
ひたすらに地道に頑張り、厄介な客と辛抱強く接し、パッとしない成績を持ち帰る。
残業をしがちな私が帰る頃には同僚は既に帰宅しており、私は言いようのない感情を心に宿しながら終業の準備をする。
そんな日々を何年も繰り返している内に私は折れた。
自分のせいにしたのだ。
全ては努力が足らないのだと。
日頃の行いが悪いのだと。
職務に真面目でないのだと。
先輩や同僚から情報を集め、勉強会に出席し、日夜研鑽に挑んでいないからだと。
全ては自分のせいだ。
そう言い聞かせ、そう自分を洗脳させた。
如何なる逆境も不運もひたすらに耐え、僅かな喜びで人生を満たすことにしたのだ。
そんな私は異世界に来て早々に逆境へと陥ることになる。それも恐らく35年の人生の中でも一位を争う程だ。現状一位の座に就いている大学の留年が決定となった日のような心の重さだが、あの時に感じた絶望感は薄い。
初めこそ半狂乱してしまったが、今や私の脳は異様な冷静さを放っている。己の身に起きた不幸な現象以上に、
……さて、どうすべきか。
起き上がった私は水溜まりに映る異様な自分の姿を見つめながら、考え込む。人間の時の癖で私は熟考する際に左手を顎に添えるのだが、水溜まりに映った
常に笑みを浮かべる
もっとも私を所有する者は今のところ居ないのだが。
くだらないことを思いながら、さして妙案も浮かぶことの無く時間だけが過ぎていく。自問自答を繰り返しながら、水溜まりに映る自分を見つめ続ける。
思案をする際に一点を見てしまうのが私の悪い癖だ。
同僚からは遠くを見つめる犬みたいだ、と揶揄われていたのをよく覚えている。同時にひどく濁った私の瞳は不気味らしく、親戚の子供を何度も泣かしたのも鮮明だ。
その時だ、私は水溜まりに映る自分の横に何か文字が浮かんでいることに気づいた。
……なんだ?
……
その文字列に私は幻覚と勘違いして目を擦る。今にも取れそうなボタンの目を擦り、再度水溜まりを見る私。件の文字列は消えていた――いや、再びゆっくりと先程と同じ文字が浮かんできた。
一体これは何なのか。不可解な現象に頭を悩ませた私は、そこで転生に立ち会った男の言葉を思い出す。確か彼は転生に際してスキルの割り振りをすると言っていた。
スキルとは即ち技術や技のようなものなのだろう。
生憎ゲームや漫画には疎い私だが、それでも幼少期に遊んだゲームで操作キャラクターが技を使っていたことは覚えている。つまり、この現象は私が会得したスキルによるモノと考えて良いのだろう。
その辺りの説明が未だに得られてないので確証は持てないが、ここは異世界。魔術だ何だと私が元居た世界とはかけ離れた概念があることは想像に易い。
恐らくこのスキルは相手を見ることで何か判別できるモノ、なのだ。
中々便利だ、とは諸手を上げて喜んでよいのか悩む。
何故なら、私はこの異世界とやらを完全に理解していないからだ。
それにこのスキルについての説明が無いのも理解への難しさに拍車をかける。
まず
それに
クラス・クラウン、さっぱり意味が分からない。
カタカナと言うことは横文字のことなのだろう。
英語の知識に乏しい私にこれは拷問ではないか。
いや、もう少し考えろ。
私は転生時の男の言葉を思い出す。確か、彼は異世界には勇者や魔術師のような特定の役割がある旨を言っていた。つまりはこのクラスとやらは私の役割或いは役職を示しているのかもしれない。
役割、所謂ロールと言うやつだ。
なら、クラスはさしずめ役職と仮定しよう。
さて、次にクラウンだ。恐らくこれは複数ある役職のどれかを指しているに違いない。だが前述の通り、私は英語への知識が非常に乏しい。自分の名前を英語で伝えるのが精一杯だ。
せめて騎士ならナイトとか、狩人ならハンターみたいに分かり易い役職なら助かるのだが。
それか、外見や衣装の特異性で判別できれば苦労しない。
しかし私の姿は兎のぬいぐるみ。特徴といえば、顔に道化師めいた化粧をしているぐらいだ。
ん、待てよ……道化師?
確か道化師を意味するピエロという言葉は、英語ではないと同僚は得意気に言っていた。道化師は英語ではクラウンと言うそうだ。
おお! 私の頭の中に巣食っていた霧が、一瞬で晴れた。
この感覚、自分の知識のみでクロスワードを解いた時の喜び以上だ。
これで判明した。私はこの異世界に転生し、ぬいぐるみの身体と共に『役職・道化師』を獲得したのだ。この前進は間違いなく大きな一歩だ、人間の月面着陸に肩を並べる程の私の中での偉業だ。
――ふむ、だから何なのだ。
滑稽にも両腕を上げて喜んでいた私は、フッと我に返ると冷めきった風呂のような無感情を纏わせる。自分の役職が判明した程度の事で喜んでいるのか。
こんなもの、一歩でも何でも無い。ようやっと、私は異世界におけるスタートラインに立ったのだ。一寸先も見えぬ霧の中で障害物だらけの競走に、今から私は走り出すのだ。
見通しが立たないと言うのは、こうも自分の歩みに不安を感じさせる。未だにこの世界は分からない所だらけで、受けられる筈の基本的な説明すら聞いていない私が歩めるモノなのか。
気は重い。
不安ばかりだ。
それでも、結局私は再び歩き始める。立ち止まっていても事態は変わらない、ならば事の顛末が悪くなるのを承知で進むしか無い。
何の知識もない私に出来るのはそれだけだ。
挫けそうな己の心を鼓舞しようと、私は鼻歌を混じらせながら不安を煽る森の中を空元気に行く。普段は足元を見がちな視線を上に向ける。
上を見て歩こう。
不安を零さないように。
前を見て行こう。
幸せを逃さないように。
仕事中、嫌な事があれば自然と口にする歌を口ずさむ。
気楽に行こうぜ、私。
気楽に構えようぜ、私。
出だしは非常に悪いが、不運の次には良いことも巡ってくる筈だ。
とりあえず人に会いたいものだが――
ん? あれは……
前方の木に誰か人が座り込んでいるのを発見する。一人を好むとは言え、人恋しさに飢えを感じた私は声を上げながら駆け寄り――気づいた。
青みのある豊かな黒髪の少女。神聖な儀式に用いりそうな白い服も、若さを象徴する柔らかな肌も泥と雨に汚れている。
少女の顔に私は見覚えがあった。
確か――転生の際に男の机に置かれていた書類。
名前は――アイナ。
私と同じく異世界に転生した者だ。
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