第3話 転生したら『ぬいぐるみ』だった件


『全ての真実を疑え』

『書かれた記述も、その認識も間違っていることがある』





 ……ん? これは転生が済んだのか?

 あの場所で扉を開き、光に包まれた私。数秒後に私は深い眠りから目覚めた時のような、気だるさを全身に感じている。ただ視界は闇に包まれたままだ。

 一体自分が何に転生をしたのか、それを考えるよりも前に私は自分はどのような体勢なのか、それを探ろうと手足を動かしてみる。

 そこで私は転生にあたって五感を三つ対価に支払ったことを思い出した。手足を動かしている認識はあるのだが、全く感覚が無い。


 何も触れていないのか、それとも土や水に触れているのか。

 それは冷たいのか、熱いのか。

 柔らかいのか、固いのか。

 触れて良いのか、それとも触れてはいけないのか。

 

 全く理解わからない。

 身体全体がふわふわと宙に浮かんでいるような感じで、視界が全く見えていない状況は私の方向感覚を不安定にさせる。前後不覚どころか、左右も上下も定まらない。


 波間に漂う、と言えば良いのだろうか。

 或いは目を閉じて水中に潜った時とも言えようか。


 今の私が委ねることの可能な感覚は聴覚のみである。取り分け良いとは言えないが、私の聴覚は確かに土に当たる雨音を捉えている。雨音の間隔からして、振り始め或いは降り止む寸前と言ったところか。

 ふむ、やはり触覚が無いのは不気味なモノだ。

 雨は降っているのに、身体に雨粒が当たることすら感じ無いのだ。

 雨音の方向からして仰向けに横たわっている私は土に当たり弾けた雨が耳に触れる、あの煩わしい感覚も当然無い。

 

 とりあえず、起き上がらねば。

 私はぼやけながらも徐々に晴れてくる視界に安堵して立ち上がろうとしたのだが――

 やや離れた場所ですさまじい轟音が鳴り響いた。


 暗雲より放たれる雷鳴が大気を走り貫き、その鮮烈なる眩き光と共に雷鳴を轟かせたような。

 或いは山の如く巨大な怪物が絶命の間際に吼えたような、聞いた者の肌を総毛だたせる叫び。

 はたまた木々を呑み込む山崩れか、それとも土砂を伴う荒々しい激流か、何にせよ耳から聞こえる音だけでは判別は出来ない。

 同時に私の視界は再び暗黒の幕に覆われ闇に落ちる。

 さらにまるで身体の重みが全て消え去ったかのように異様な軽さを本能的に感じた。


 私は体験をしたことが無いが、同僚に聞いた幽体離脱の体験談と同じ。

 スッと魂が肉体を離れる、そんな感じだ。


 しかし次の瞬間には私の意識はまるで排水溝に流されるゴミのように、何かに吸い込まれていくような感覚を味わう。

 昇降機に乗った時の自分の身体が動いていないにも関わらず、上昇する気持ち悪さがある。


 なんだ、なんだ。

 何が起きている。

 というか、説明があるんじゃないのか。


 転生前に男の言っていた異世界の概念や基本知識、スキルの割り振り。それらをしてくれる上司が居るのではなかったのか。何の説明も無しに、見ず知らずの世界に放られて生きれる程に私は強くない。


 それとも、まだ異世界に転生している最中なのか?

 一体どうなっているんだ、誰か何か私に教えてくれ!


 訳の分からなさ、それによる煮えたぎる怒り、そして不安と恐怖で私は滅茶苦茶になりそうだ。人前では温厚の面を被っている私は、無駄だと理解しても心の中で恨み節を炸裂させる。

 普段なら、ここで冷静さを取り戻すと共に自分の雑言を恥じた後に酷い自己嫌悪に陥る。

 だが、これまで感じたことの無い過度なストレスと少なくとも自分に非が無いこともあり、私の悪しき心は微塵の罪悪感も無く怒りと恨みの言葉を脳内に浮かべさせる。

 

 ――落ち着け、落ち着け私。

 怒りに身を任せるな。

 恨みに心を委ねるな。

 呼吸を整えろ。

 怒りを押し殺せ。

 恨みを打ち消せ。

 気楽に行こう、気楽に構えろ。

 

 己の醜悪な本性をひどく嫌悪しているのも事実。

 心と脳に蔓延る悍ましき邪悪を奥に潜ませ、私は素早く気分を転換させる。

 沸点が低いなら、冷めるのも早い。

 烈火の如き荒い気性を産声と共に持ちながら、突風・熱風・冷風の吹き付ける社会を生きた私だ。理解の難しき人間、意地悪な人間、酒に乱れた人間を相手にしてきた中で私は強引に平静引き戻す術を会得している。

 いつも通りの温厚の皮を被り直したところで、私は現状の把握に努める。


 幸先の良さの象徴か、私の耳は雨音が止んだことを知らせてくれる。空は未だに稲妻を孕む雨雲が広がっているのか、不安を煽る雷の唸りが響いている。もっとも雨天は私にとっては幸運の到来だ。

 仕事柄、雨が降れば客足は伸びる。

 何より外を嫌い、運動を忌避する私にとって、外部での活動を潰してくれる雨はありがたい存在。

 

 ん、おお、やっと目が見えるようになったか。


 早速、幸運の到来だ。

 私の視覚もやっと戻ってきたようだ。真っ暗ながらも隙間から差す光によって、自分が俯せになっていることに気づく。ぐずぐずに濡れて柔らかくなった土が視界に広がって息苦しい。

 恐らく口内と鼻孔にも土が入り込んでいる筈だが、味覚と嗅覚も対価にした今の私には何も感じない。


 やはり、寂しいものだ。

 私が永遠の恋人と信奉する煙草を味わえないのは当然苦痛。しかし、転んだ時に味わう土の無機質な味や雨に濡れた土の臭い。それが永遠に感じられないことに私は物寂しさに襲われる。

 月並みな表現だが、失って初めて大切なモノだと分かる。

 無論五感は重要だが、私の様な視覚と聴覚ばかりに頼る人間は味覚と嗅覚の重要さを忘れがちだ。例え、それが記憶に深く刻まれたとしても実体験に勝る記憶は無い。

 私の身体から去った嗅覚・触覚・味覚に涙の敬礼を送り、残る視覚と聴覚に過重労働を通告しつつ、私はむくりと身体を起こす。この時、私は自分の身に起きている違和感に素早く気付く。


 ん? 何だ、随分と視線が低い。

 

 私はぐるりと周囲を見渡す。

 視界に広がる巨大な木々と茂み。青々とした緑の景色は自然の光景を忘れる都会人の心を深く刺すモノがある。ただ、視線が低い――つまり元の世界よりも身長の低くなった私には鬱蒼とした森の姿は得も言われぬ恐怖を掻き立てさせる。

 葉を大量に生やした無数の枝かた見える空にはまだ不穏な色をした雨雲が群がり、殆ど日差しを地上へ差し込ませていない事も作用しているのだろう。森の中は非常に薄暗く、立ち込める霧によって視界は非常に不良。

 

 微かに聞こえる何者かの歩く音。

 枝葉を踏み、泥を蹴飛ばす音。

 不安を煽る獣の唸り。

 

 皮肉にも私が全てを委ねる視覚と聴覚が、今や私に恐怖の牙を剥きだしてくる。神経を尖らせているが故にその二つはより過敏で、それは失った三つの感覚の穴を埋めようと努力する賜物。

 平和のぬるま湯に浸かる私に危機を知らせているのだが、全くこの世界の状況が分からぬ私には、ただひたすらに不安を煽るだけだ。

 

 ……っ、異世界に転生したのは事実だな。

 今のところ、あの男が言っていた上司とやらの声も姿も無い。

 嘘をつかれたのか、或いは何か不手際があったのか。

 どちらにせよ、動くしかない。

 見ず知らずの森の中で、不用意に動くのは危険と思えるが……。

 やはり待つのは性に合わない。

 

 そう思い、歩き出そうとする私は自然に足元へ視線を落とす。歩くときに視線が下に落ちがちなのは、私の癖だ。

 そして気付いた。

 私は自分の身体に起きた、驚愕の事実に気付いてしまった。

 

 私の足は人間と遥かにかけ離れたモノに変貌していた。

 その雫のような形は、まるでぬいぐるみの足のよう。人肌ではなく、モフモフとした柔らかな生地は雨に濡れて(べっちょりして)いる。色合いは灰色なのだろうが、雨を含んだせいか黒味のある色合いに変化している。

 

 待て、待て待て――待てッ

 嘘だろ、嘘だよな?

 もしかして、私が転生したのは――


 やや半狂乱になりながら、駆ける私。自分が転生したモノに気付いた瞬間、身体は雨に濡れて非常に重く、走り方も何処か覚束ない。歩幅もとても狭いのか、全力で走っても速さが感じられない。

 その内、私は脚を縺れさせて転んでしまう。顔面から盛大に転んだのが目と耳で分かる。

 

 ゆっくりと上体を起こした私は、すぐそこに水溜まりがあることに気づく。

 古い鏡のように周囲を反射させるそれに――私が『蔵人』が映る。


 ピョコンと立った耳と尻に付いた丸い尾からして、兎のぬいぐるみのようだ。

 全身は雨雲のような灰色で、両目は同じ色のボタンになっている。

 顔にはまるで道化師ピエロめいた化粧が施してあり、湾曲する黒く太い一本の糸は笑みを現す口。

 

 異世界とやらに転生した私は――人間でも緑鬼族オークでもスライムでも無く、兎のぬいぐるみであったのだ。

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