<どんな顔になってるって言うんだ>

 洗面台の上に掛かった鏡が目に入り、しらかげはぼんやりと立ち上がった。一歩、また一歩と歩を進め、鏡の前に立つ。


 ひと呼吸し、先ほどカイドが貼ったばかりのガーゼに手をかけ、ひと思いにがした。


<これが……>

 俺の顔?


 そこにあった自分の顔を見た瞬間、自分でも正体の分からない激情に駆られ、驃は衝動的に左手の拳を壁を叩きつけていた。棚の洗面用具が衝撃で揺れる。堪えていた何かが、溢れんばかりにり上がってきて呼吸を圧迫し、彼は歯を食いしばった。

「う……あぁ」

 それでも声が漏れた。感情の渦を蹴散らすように、もう一度拳を叩きつける。さらにもう一度──と、振り上げた拳を、誰かが掴んだ。

「驃っ! 何やってるんだ」

 鏡の前から驃を引き剥がしたのは、イルギネスだった。彼の海色の瞳が、剥き出しになった傷を捉える。

「──見たのか」

 目を合わせた驃は、微かに頷いた。口を真一文字に結び、土壇場のところで、感情の堰を止めているように見える。赤い瞳が、言葉にならない心の揺らぎに震えていた。

 彼はイルギネスの手を振り払い、ふらふらとベッドに腰掛ける。

「大丈夫か?」

 見たこともないほど憔悴しきっている親友の姿に、イルギネスは胸が痛んだ。

 驃は大きく息を吐き出す。それから、床を見つめたまま、独り言のように呟いた。

「酷い顔だって、お袋に泣かれたよ」

 すっかり気力を消耗した声で、続けて吐き出す。

「もう、やめて帰って来いって」

 予想していたこととは言え、ああも感情をぶつけられたことは、今の驃にはこたえた。嫌な記憶は連鎖し、次には、朱音あかねにまで釘を刺されたことを思い出して、さらに気が滅入って顔を覆う。左頬の裂傷のガサガサした感触が、指先に当たった。

 項垂うなだれたままの驃に、イルギネスは「そうか」とだけ答えた。彼はふと、床に落ちたガーゼに気づき、身をかがめる。

「自分で剥がしたのか」 

 ガーゼを拾って立ち上がり、「包帯じゃなくなったんだな。回復が早くて何よりだ」と嬉しそうに言った。

 驃が顔を上げると、イルギネスはわざとらしく説教めいた表情を作る。

「でも、こんな乱暴に剥がすなよな。医師せんせいにまた、貼り直してもらわないと」

 その目は笑っていた。やはりこの男には、自分の顔の傷は目に入っていないのかも知れない。驃は、ふと尋ねた。

「お前は、どうして平気なんだ?」

「え?」イルギネスが、意味を図りかねて聞き返す。

「いや、その……今の俺の顔を見ても、平然としてるだろう。怖くないのか?」

「──ああ、そう言うことか」

 イルギネスは、今さら初めて意識したかのように、驃の顔をまじまじと見つめた。

<そんなに見るんじゃねえ>

 急に気まずくなり、渋面になったところで、イルギネスが「そうだな」と口を開いた。

「俺が最初に見た時は、もっと酷かったからな」

 呑気な口調で答えたが、その時の凄惨な光景を思い出したのか、端正な眉間に皺を寄せる。

「なんせ全身血塗ちまみれで、顔も、もっとこう、ザックリ割れて──あれに比べりゃ、ずいぶん綺麗になった」

 ザックリ、の部分を、彼は自分の顔で示す。その表現に、驃が青ざめた。

おぞましい姿だな」

「お前の話だよ」

 言われて、笑うしかなかった。そうだ。俺の話だった。頬が少し引き攣ったが、少し慣れた気がする。その顔を見て、イルギネスも笑顔になりかけ、ふと、目を伏せた。表情が曇る。「でもな──」

「でも?」いぶかしむと、彼はぽつりと漏らした。

「凄い出血だったから……死んじまうかと、思ったんだよ」

 その声に、心から自分を案じた感情が滲んでいる。「このままじゃ、俺の腕の中でお前が死んじまうって」

 イルギネスが、そんな辛そうな顔を見せたのは初めてだった。驃は思わず黙ったが、イルギネスはすぐに、いつもの穏やかな笑顔に戻った。

「あの恐怖に比べたら、生きてるんだから、充分だ」

 驃の胸の奥が、じんと熱を持った。それは、初めて今の自分を救う言葉だった。

「そうか」

 やっと気持ちが浮上してきて、驃は表情を緩めた。イルギネスはガーゼを机に置き、驃の方に向き直る。

「やめないだろ?」彼は聞いた。

「俺は、お前がどれだけ頑張ってきたか、十五の時から傍で見ている。俺なんかより、ずっと真面目に頑固に、剣に向き合ってきたんだから。俺だけじゃない、誰よりも真剣にだ。お前ほどの男を、俺は他に知らない」

 驃は驚いた。イルギネスが自分を手放しで褒めたことなど、ほとんどない。真面目すぎてやってられん、と言われたことはあったが。

「なんか、気持ち悪いな」

 嬉しいのに、口をついて出てきたのは逆の言葉だった。本当は、目頭が熱くなるほど胸を打たれているのを、知られるのが恥ずかしかったのもある。

「おいおい、せっかく褒めてるのにひでえな」イルギネスが仏頂面になった。驃が笑う。笑った途端に少し涙が出たのは、頬の痛みのせいだ。きっと。

「笑わせんなよ。痛えんだから」目を拭いながら抗議する。

「自分で笑ってんだろうが」

 軽くどつき合い、二人してケラケラ笑った。笑いが落ち着くと、ふと、驃が表情を引き締めた。

「やめねえよ」

 その顔には、新たな決意が漲っている。頬の傷すらも、それを引き立たせるかのように、さっきまでの悲痛さは消えていた。

「こんなことで、やめられるわけがない」

 イルギネスが、その眼差しを正面から受け止め、短く答えた。「おう」

 そして、「そうだ、すっかり忘れていた」と驃を見る。

「ガーゼ貼り直さないとな。医師せんせい呼んでくる」

 イルギネスが部屋の入り口に向かい、その扉が開いたままなことに、驃は今さら気づいた。母が出て行ってから開けっぱなしだったのかも知れない。

 その時イルギネスが、開いた扉の先で「あ」と立ち止まり、左側を向いて軽く会釈をした。彼と入れ違いに現れたのは──母の姿だった。

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