5
母が到着した時、
「驃っ!」
大怪我の報告を受け、慌てて駆けつけた先で最初に見た光景があまりに予想外で、母は庭の入り口に呆然と立ち尽くした。気づいた驃が素振りをやめ、こちらに身体を向けたことで、顔半分を覆っている包帯が目に入る。母の顔が悲痛な感情に歪んだ。
「お袋」
「何してるの……寝てなくて大丈夫なの?」
久方ぶりに見た母は、少し痩せたような気がした。緩く波打つ柔らかな山吹色の髪を、三つ編みにして束ねている。驃を見上げた彼と同じ赤い瞳が、不安げに揺れていた。
「大きな怪我は上半身だけだし。腕が鈍るから」
安心させようという本能が働いて、彼はできるだけ柔らかい口調で言った。それは効果があったようで、母はふうと息をつき、「動けるくらいで、よかった」と泣きそうな顔で微笑んだ。
「もう、やめる。部屋に戻るよ」
心が緩まり、驃の顔も自然とほころぶ。自分で思っていた以上に消耗していたらしいことに、今さら気づいた。昨日の、
思えばだいぶ張り詰めていた。会うまでは少し鬱陶しくも思っていた母の顔を見て、こんなにもほっとするなんて。驃は、母が近くはない道のりを来てくれたことに、ささやかに感謝した。
部屋に戻ると、ちょうど医師が巡回にやってきた。
「やりすぎてないだろうな。剣の鍛錬は許したが、まだほどほどにしてくれよ」
「大丈夫ですよ」
若干面倒く臭そうに答え、驃は愛剣を机に置くとベッドに腰掛けた。一歩進み出た母が、丁寧に挨拶をする。
「驃の母です。お世話になっております」
医師は、朗らかな微笑みを浮かべて、
「初めまして。カイドと申します。ご子息の主治医を務めさせて頂いております」
カイドは驃の前に立つと、「さあ、診ようか」と、彼の顔の包帯を慎重に解いていく。その下から無惨な裂傷が姿を現した瞬間、母が息を飲むのが、驃には分かった。
「上手く瘡蓋ができてきているし、そろそろ包帯じゃなくても大丈夫かな。ガーゼに切り替えるか」
「そうしてもらえると嬉しいですね。ぐるぐる巻かれてるのも動きにくいし」
「君は怪我人なんだぞ。動きにくいくらいで丁度いい」
カイドは苦笑した。何度か驃の怪我に遭遇しているが、毎回この調子だ。「まあ、治りが早いのはいいことだがな」傷の確認をしながら、傷周りの汚れを湿らせた布で丁寧に拭き、消毒に移る。そこでふと、思い出したように驃に尋ねた。
「傷、見てみるか?」
驃は一瞬、考えた。無意識に、壁際に座った母の方を見る。が──目を合わせた彼女は、傷を晒している自分に対し、怯えともとれる表情で緩く首を振った。信じられないものを見たというような母の反応に、自分でも予期しなかったショックを受け、彼は答えた。
「──まだ、いい」
カイドもまた、驃の目線と、母親の反応に気づいていた。「そうか。まあ、無理に見なくてもな」と、硬い表情になった驃の左肩をそっと叩き、「次は肩の傷だ」と、まるで何事もなかったかのように、右肩の包帯を解き始めた。
カイドが去ったあと、それまで黙っていた母がようやく、口を開いた。
「よりによって顔に、そんな目立つ傷を付けて」
「お袋……」
驃に向けた眼差しは潤み、その声は震えている。
「そんな酷い顔にするために、あなたをここに送り出したんじゃないのよ」
──酷い顔。
言葉の衝撃に、驃は息を詰まらせる。何も言えなくなった我が子から目を逸らすと、母は顔を覆った。「もう、今度こそやめて。帰って来てちょうだい」耐えかねたように立ち上がる。
「こんなことになるなんて。だから母さんは反対だったのよ」
吐き捨てるように言うと、彼女は部屋を早足で出て行ってしまった。開いたままの扉の向こうで、響いたのは嗚咽。
母が、泣いている。
今度こそ、驃は心の奥に刃が刺さるのを感じた。ここしばらく感じたことのない、苦しいほどの悲しみが、一気に身体を駆け上がってくる。
<そんな>
遠ざかる嗚咽を耳に、泣きたいのはこっちだと、拗ねた子供のように彼は思った。母は戻って来ることなく、ほどなくして、ついに嗚咽は聞こえなくなった。
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