母が到着した時、しらかげは療養所の裏庭で、左手にイルギネスに持って来てもらった愛剣を持ち、素振りを繰り返していた。

「驃っ!」

 大怪我の報告を受け、慌てて駆けつけた先で最初に見た光景があまりに予想外で、母は庭の入り口に呆然と立ち尽くした。気づいた驃が素振りをやめ、こちらに身体を向けたことで、顔半分を覆っている包帯が目に入る。母の顔が悲痛な感情に歪んだ。

「お袋」

「何してるの……寝てなくて大丈夫なの?」

 久方ぶりに見た母は、少し痩せたような気がした。緩く波打つ柔らかな山吹色の髪を、三つ編みにして束ねている。驃を見上げた彼と同じ赤い瞳が、不安げに揺れていた。

「大きな怪我は上半身だけだし。腕が鈍るから」

 安心させようという本能が働いて、彼はできるだけ柔らかい口調で言った。それは効果があったようで、母はふうと息をつき、「動けるくらいで、よかった」と泣きそうな顔で微笑んだ。

「もう、やめる。部屋に戻るよ」

 心が緩まり、驃の顔も自然とほころぶ。自分で思っていた以上に消耗していたらしいことに、今さら気づいた。昨日の、朱音あかねとのやり取りのせいもあったのかも知れない。

 思えばだいぶ張り詰めていた。会うまでは少し鬱陶しくも思っていた母の顔を見て、こんなにもほっとするなんて。驃は、母が近くはない道のりを来てくれたことに、ささやかに感謝した。



 部屋に戻ると、ちょうど医師が巡回にやってきた。

 しらかげより少し年上の医師は、青みがかった長い黒髪を、きっちり一つに束ねて背に流し、スラリと立っているとなかなかの美男子だ。彼は、驃の手に愛剣が握られているのを見て、博識そうな眼鏡の下の空色の瞳を光らせた。

「やりすぎてないだろうな。剣の鍛錬は許したが、まだほどほどにしてくれよ」

「大丈夫ですよ」

 若干面倒く臭そうに答え、驃は愛剣を机に置くとベッドに腰掛けた。一歩進み出た母が、丁寧に挨拶をする。

「驃の母です。お世話になっております」

 医師は、朗らかな微笑みを浮かべて、うやうやしく頭を下げた。

「初めまして。カイドと申します。ご子息の主治医を務めさせて頂いております」

 カイドは驃の前に立つと、「さあ、診ようか」と、彼の顔の包帯を慎重に解いていく。その下から無惨な裂傷が姿を現した瞬間、母が息を飲むのが、驃には分かった。

「上手く瘡蓋ができてきているし、そろそろ包帯じゃなくても大丈夫かな。ガーゼに切り替えるか」

「そうしてもらえると嬉しいですね。ぐるぐる巻かれてるのも動きにくいし」

「君は怪我人なんだぞ。動きにくいくらいで丁度いい」

 カイドは苦笑した。何度か驃の怪我に遭遇しているが、毎回この調子だ。「まあ、治りが早いのはいいことだがな」傷の確認をしながら、傷周りの汚れを湿らせた布で丁寧に拭き、消毒に移る。そこでふと、思い出したように驃に尋ねた。

「傷、見てみるか?」

 驃は一瞬、考えた。無意識に、壁際に座った母の方を見る。が──目を合わせた彼女は、傷を晒している自分に対し、怯えともとれる表情で緩く首を振った。信じられないものを見たというような母の反応に、自分でも予期しなかったショックを受け、彼は答えた。

「──まだ、いい」

 カイドもまた、驃の目線と、母親の反応に気づいていた。「そうか。まあ、無理に見なくてもな」と、硬い表情になった驃の左肩をそっと叩き、「次は肩の傷だ」と、まるで何事もなかったかのように、右肩の包帯を解き始めた。



 カイドが去ったあと、それまで黙っていた母がようやく、口を開いた。

「よりによって顔に、そんな目立つ傷を付けて」

「お袋……」

 驃に向けた眼差しは潤み、その声は震えている。

「そんな酷い顔にするために、あなたをここに送り出したんじゃないのよ」


 ──酷い顔。


 言葉の衝撃に、驃は息を詰まらせる。何も言えなくなった我が子から目を逸らすと、母は顔を覆った。「もう、今度こそやめて。帰って来てちょうだい」耐えかねたように立ち上がる。

「こんなことになるなんて。だから母さんは反対だったのよ」

 吐き捨てるように言うと、彼女は部屋を早足で出て行ってしまった。開いたままの扉の向こうで、響いたのは嗚咽。

 母が、泣いている。

 今度こそ、驃は心の奥に刃が刺さるのを感じた。ここしばらく感じたことのない、苦しいほどの悲しみが、一気に身体を駆け上がってくる。

<そんな>

 遠ざかる嗚咽を耳に、泣きたいのはこっちだと、拗ねた子供のように彼は思った。母は戻って来ることなく、ほどなくして、ついに嗚咽は聞こえなくなった。

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