母は、おずおずと入ってくると、思わず立ち上がったしらかげを見上げた。

「ごめんなさい。話し声が聞こえたから、すぐに入れなくて」

 驃が口を開くより先に謝罪を述べた母に、少しの動揺を抑えながら、「どこから聞いてた?」と、問うた。

 その顔を見れば分かる。母は明らかに、自分たちの会話を聞いていたのだろうと。

 母は、思い返すように一度口を閉じ、答えた。

「あなたが誰よりも頑張っているって、言ってくれていたわね」

 その表情は、ほのかな柔らかさを取り戻している。

「そこか」

 自分がベタ褒めされていたところを聞かれたとあって、驃は急に恥ずかしくなった。母はふうと息をつくと、

「あんなふうに言ってくれる仲間がいるなんて」

 先ほどのようなたかぶりは欠片もない、代わりに、温もりのある声で続けた。

「母さんってば、取り乱して酷い言葉を投げつけて、恥ずかしいわね」

「お袋……」

「でも、さっきは冷静でいられなかった」

 驃の顔に手を伸ばし、ほんの一瞬だけ躊躇したのち、剥き出しの左頬の傷に、そっと細い指先で触れる。驃は、こそばゆいような感覚を覚えながらも、母の顔を見つめた。

<少し、歳をとったな>驃は、ぼんやり思った。

「痛い?」心配そうに尋ねられ、驃は軽く頭を振る。

「……大丈夫」

 母の瞳は今、逸らされることなく、傷を晒したままの自分の顔をしっかり映している。

「あなたが一番辛かったのに──ごめんなさい」

 それでもやはり、痛々しいことに変わりはない。彼女は、少し泣きそうな顔になった。

 驃は押し黙った。色々な思いが渦巻いて、どこから言葉にしたらいいか分からない。でも、とにかく何とか伝えなければ。

 意を決して、口を開いた。

「俺、ここにいたいんだ」

 案外すんなりと、その言葉は出た。

「ここで、仲間と一緒に頑張りたい」

 自分と同じ色の母の目をしっかりと見据え、彼は言い切った。母は、その瞳にわずかな寂しさをよぎらせたが、ゆっくりと頷いた。

「いい仲間に、恵まれているものね」

「……ごめん」反射的に謝る。「俺は、帰るわけにいかない」

 少なくとも今は、ここを離れられない。言いたいことはぐるぐる回ったが、それ以上言葉にならなかった。

 母が、もう一度頷く。

「いいのよ。分かってる」  

 彼女は両の手を伸ばして我が子の頬をふわりと包み、しげしげと愛おしげに眺めた。

「な、なんだよ」

 照れくさくなった驃を、母は眩しそうに見つめる。その目は少し、潤んでいた。

「一番小さくて泣き虫だったのに。こんなに大きくなって」

 

 

 イルギネスとカイドは、先ほど驃の母が立っていた壁際に、二人で並んで隠れていた。

 やがて、壁越しに聞こえてきた驃の微かな嗚咽に、

「タイミングが難しいな」

 カイドが囁き、イルギネスも同意の視線を合わせる。

「出直そう」二人は足音を忍ばせて、部屋から離れた。



 その夜、驃は、空いている隣のベッドで寝ることになった母と、本当に久し振りに親子同室で眠った。

「明日、帰るわね」

 母は、荷物を壁側に寄せ、言った。

「え、もう?」これには、驃の方が驚く。

「長くいると、また余計なことが言いたくなってしまうからね」

「それにしても、早すぎじゃないか?」ここに来るまで、二日ほどかかるのだ。せっかく出て来たのに。

 母は驃の方に身体を向けて木の椅子に腰掛け、微笑む。

「寂しいの? じゃあ、子守唄でも歌ってあげる?」

「……いらねえ」驃はしかめっ面で断った。

 消灯時間を迎えると、二人それぞれベッドに入ってから、少しの間、互いの近況をなんとなく報告しあっていた。そうしているうちに、驃はだんだんと言葉少なになり、いつしか、子供の頃に本を読んでもらいながら寝た時のように、そして、怪我をしてからは初めて、心から穏やかな気持ちで眠りに落ちていったのだった。

 安らかな寝息に気づき身を起こした母は、それからしばらくの間、カーテン越しの薄い月明かりに照らされた息子の寝顔を、静かに見つめていた。

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