5.長い午後を抜け出して

 半径何十、いや何百メートルかは知らないが、その周辺一帯は、人があまり近づかない区域となっていた。


 理由は――ガス灯がまぶしすぎるから。


 昼間はいいとしても、夜はどうにも我慢がならない。そんな住人が続出し、次々と引っ越していった。


 地元の役所も、国の政治家も、専門家の博士も、ガス灯をどうにかしようとしたが、試みはすべて失敗に終わった。


 黒い布で覆ってもダメ。水をかけてもダメ。ガス灯を根元から折ろうとしたが、決まって道具が壊れた。


 様々な調査の結果、人体に有害な光線ではなさそうだ、という結論には達した。

しかしこの地区は、ほとんど放っておかれている。


 近隣に会社や商店が密集する商業区域があるため、人通りはチラホラあるのだが、居住地としては用を成していない。


 抜け殻のレンガの建物に、風がむなしく通り過ぎていくだけ。


 しかし――そんな曰くつきのガス灯をいっちょ拝んでやろうと、わざわざ見物しにやってくるもの好きも、時おりいたのだ。


 青年も、そのひとりだった。







 美しい……そう思った直後に、感じたのは畏怖。


 ミルクと琥珀を混ぜたような、まろやかなクリーム色の輝きを、渾身の力を込めて放っている。


 昼間に来たというのに、その光は、太陽の恵みよりも力強い。この近くに長い間いては、疲弊する者も出てくるだろうと思うほどに、それは強烈な輝きだった。


 充分に距離をおいたところで、ガス灯をじっと見る。観察しても、得体のしれない光。恐ろしいと感じるのに、どうしてか引き込まれる。


 奇妙なざわめきが、心のうちに何度も波打つのを感じながら、青年はただガス灯を瞳に焼きつけていた。


「おいあんた、大丈夫か?」


 コツン、と頭をつつかれて、もう日が暮れていることに気づいた。首の後ろが痛い。ずっと同じ体勢だったからだろう。


 首に手を当て、ゆっくりと動かしていると、声をかけてきた男が続ける。


「この辺に住んでるのか?」


「いいえ。ガス灯が見たくて、機関車にのってここまで来たんです」


「そりゃご苦労なこった」


 男は、火のついてないシガレットを口にくわえていた。三十代くらいだろうか。この町に降り立って、人に声をかけられたのは初めてだ。


「何というか、追い詰められたような顔してアレ見てただろ? このまま放っておいたらまずいかな、と思ったんだよ」


「そうだったんですか。僕はただ、ガス灯に惹かれていただけです」


「ほう?」


「昔……題名は忘れたんですが、あるおとぎ話が好きだったんです」


 青年は、近くにあったベンチに腰掛けた。誰も手入れをしなくなったのか、薄汚れていた。


「庭に植えた植物の種が芽吹き、なぜかずっと空へ空へと伸びていって。男の子はその茎を登って、辿りついた先で巨人と出会い、冒険をして帰ってくる……おとぎ話は他にも、いろいろ聞かされたり、自分で本を読んだりもしたんですが、これが一番印象に残ってるんです」


「でも題名は、忘れちまったのか」


「ええ……けれどあこがれだけは、残ってます」


 青年は再び立ち上がり、ガス灯を見上げる。


 空に星が、いくつか瞬いていた。気のせいだろうか、ガス灯の光が、大きく数度揺らいだ気がした。


「あのガス灯……いや、あの光が、僕に忘れた何かを、思い出させてくれそうです」


 青年はそういうと、フラフラと歩きだした。おぼつかない足取りは、歩くことを始めたばかりの幼子のようだ。


 男はシガレットを外し、その手を額に当てた。


「あーあ……まさかとは思ったけど、あんた、俺と同じような感じになっちまうんだな」


 その独り言は、青年には届いていない。


 青年はガス灯の真下まで来ると、両のてのひらを空に向かって広げ、何かを崇めるように立ちつくした。


 天空の星たちにつられるように、光を揺らがせるガス灯から、金粉が少しずつ舞い落ちる。


 その金粉は、青年の両のてのひらに溜まりつづけた。粉雪のように、音もなく金粉は降り続ける。


 やがて青年は、男を――オルゴール職人の方を振り返った。その瞳には、ともすれば見落としてしまいそうなほどの、小さな金粉が付着していた。


「僕は、ここに来れて良かったです」


「そうかい。それなら、俺は何も言わないよ」


「これで、空に行ける気がします」


 青年はそういうと、金粉を握りしめ、足早にそこから立ち去った。


 その数日後に職人は、キラキラ輝く奇妙なハシゴを見ることになった。








 青年は、数度の苦闘の後、月までハシゴをかけることに成功した。


 ただ、月には何もなかった。何もないわけではないが、巨人も冒険も、青年を待ってはいなかった。


 それでも青年は、満足していた。


 ハシゴを昇っている間、彼は一介の少年に戻ることができたから。


 途中で手を滑らせ、ベットで目を覚ますことも何度かあった。それもまた、楽しかった。


 青年は、できるだけガス灯の近くへと引っ越した。


 そしていつか、自分のためだけでなく、自分と同じような冒険を誰かが出来るようにと願って、善意でハシゴを設置することも始めた。


 実際に昇っている人間は少ないようだが、それでもよかった。


 この密かな楽しみを、いつまでも続けれたらいい――そう青年は願いながら、今日もガス灯へと向かうのだった。

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