3.私は見た、という女性

 もう一年くらい前なんですけど、四十代くらいの男性が道を歩いてたんですよ。どうしてそんなことを覚えているかっていうと、真夏なのに、薄手のコートを羽織っていたからです。カーキ色でした。あり得ますか? 長袖を着るのは理解できます。日焼けが嫌なのかな、とか、皮膚炎や怪我の跡を隠したいのかな、とか、そう思うじゃないですか?


 でも、コートなんですよ。どこからどう見ても、春物のコート。モデルさんの撮影現場じゃあるまいし、季節外れのお洋服をさっそうと着こなして、汗ひとつかいていないなんて、印象に残っちゃうじゃないですか。


 それで、その男性とすれ違ったあとも、私、目で追いかけちゃったんですよ。用事があって出かけていたのに、もう何もかも頭からふっとんで、その男性がすることを観察しちゃってました。


 そうしたらその人――例のガス灯、知ってますよね? やたらと明るい、あのガス灯です。あれに、サングラスをかけて近づいたと思ったら、するするとお猿さんみたいに昇って、ガス灯のガラスの部分かな? をコツコツと叩いたんです。


 その後起きたことに、もうびっくりしちゃって。大量の金粉みたいなものがふわあっと舞って、それを全部、男性が懐から取り出した瓶の中に入れたんですよ。その後、何もなかったかのように、男性はスタスタと歩いていきました。私はあんまりびっくりしちゃって、追いかけようという気にはならなかったんです。


「なるほど、それ以降その男性を、どこかで見かけましたか?」


 いえ、それきりです。でも、あの金粉と同じようにきらきらと光ってるハシゴを、その日以来何度か見ました。でも、私はさわることが出来ないんです。だから幻覚なのかな、何か嫌だなあと思ってたんですけど、この間男の子がひとり、その梯子を使って空へ昇っていくのを見ました。


「なるほど、それは夜に見たんですか?」


 はい、夜です。でも私以外の人は、そのハシゴに一切気づいていないみたいで、何にも気に留めていなかったですね。


 えっと……はい、半月の日だったと思います。そういえば男の子が昇ってかなり時間が経ってから、小さい悲鳴が聞こえたような気が……。





「なるほどなるほど。そういった光景がどうしても忘れられず、思い切って家族に話してみたら、とりあえず医者に行け、と言われたんですね」


「はい……私は確かに、ハッキリとこの目で見たんです。ただ、自分でも本当に信じられなくて。でも、夢だとも幻覚だとも思えなくて……先生、これ、どういうことなんでしょうか?」


「そうですね……予想ですがたぶんあなたは、僕の友人の大叔父に、会ったことがあるんでしょう。そのせいですね」


「……はい?」


「ああ、大叔父というのは、友人の祖父の弟さんのことですよ。何でも、偏屈な職人さんらしくて」


「いえいえ、そうじゃなくて。その大叔父さんに会ったせいで、こんなヘンテコなあれこれを見る羽目になったって、そうおっしゃるんですか?」


「おそらくは。その大叔父さんは――職人さんと言い直しましょうか。その人は、例のガス灯の中に入っている星のかけらを、偶然手に入れたそうです」


「え? 星のかけら?」


「はい。友人から聞くところによると、星の好物はチョコレートとブドウ味の飴だとか……いやあ、面白いくらいに口をあんぐり開けてらっしゃいますね」


「いや、その、お医者さんからこんな話を聞くことがあるなんて、信じられなくて」


「それも当然の反応です。あなたはおそらく、職人さんが手にした星を偶然見たことがあるんでしょうね。そのせいです」


「どうして、そんな風に断言できるんですか?」


「簡単な話ですよ。僕も友人も、あなたと似たようなものを、何度か見ているんですから」












 医者はそういうと、冷めたコーヒーを飲んだ。

 診察の場に似つかわしくない、カフェインのかぐわしい香り。


 女性は、冷めきったブラックコーヒーを一口飲んだ。苦い。落ち着かない。頭が混乱している。


「……この後私は、どうしたらいいんでしょうか?」


「正直なところ、放っておくしかないですね。僕も友人も諦めて、そうしています」


「そうなんですか……あの、例えばですけど。職人さんに会って、解決方法を探るのは出来るんですか? 職人さんに、いろいろ聞いたことはあるんですか?」


 医者は、陶器製のマグカップをコトリ、と置いた。


「オススメできませんね。職人さんに会ったら、あなたはきっとさらに驚き、混乱してしまうでしょうから」


「そう、ですか……」


「そんなにしょげないでください。あの光景は、あなただけが見ているものではないし、私たちに悪さをするものでもありません。代り映えのしない日常の中で、ヘンテコなものに片足を突っ込んでいる人間がいて、愉快なことをやっているらしい――そう思って距離を置くくらいが、ちょうどいいんですよ」


 医者は呑気に言うが、女性は不安だった。


 目の前の男のように慣れきってしまうまでに、時間がかなりかかりそうな気がしたからだった。

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