001 荒海の浜で

 切り立った崖の下。荒々しい岩場の間にできたほんの小さな砂浜に母子が流れ着いたとの報告で、領主の俺は重い腰を上げた。


 漂流者か……。隣国に近いとはいえ大陸が目視できるような場所でなく、広い海原には凶悪な魔物。砂浜なのか岩浜なのかというこの海で流れ着いた漂流者。到底生存は望めない。これから本格的な冬を迎える季節だからちっとはマシな状態か? まあ、不死者なんて魔物もいるから村人には触らせられない。


 険しい崖から伸びる細い1本道。毛布や担架を運びつつ村人と共に下り降りた俺は、岩の上に横たわった母子を見つけた。

「何だ、こいつら!」


 決戦に備えたかの重装備は、その材質からかなりの高性能であったことが偲ばれるにも関わらずボロボロに削られ、裂かれ無惨な状態だ。僅かに残る砕けた鎧兜から漆黒の長い髪が艶めいて、青白くも美しい顔立ちの女にゴクリと唾を飲む。


 そして幼子を抱きしめた腕と腰には、太い縄と幅広の布が巻かれ、ボロボロに綻びつつも未だ体を成し、淡き光を全身に纏っている。

 

 あぁ、何があっても離れないようにしたのだろう。こんな幼子を連れて、いや、共に戦わねばならなかった事態だ。さぞ無念だっただろう。


 2つ、3つであろう幼子は、紛れもなく母子であるとわかるほどによく似ている。こんな小さい装備もあるのだろうかと笑ってしまう程の鎧は、母とは異なり真新しい香りが漂ってきそうだ。


「あんたの母さんは……凄えなぁ。しっかり守って貰ったなぁ。よかったなぁ」


 同じ戦士として、親として思わず呟いた声色にピクリと女の頬が動いた。まさか、生きている!?


 「……、あ……。お……、お願いです……」

 酷く顔を歪ませながらも、その声ははっきりと強い意志を感じる。周囲の光が音もなく消えた。


「もう、大丈夫だ。 俺に任せろ。 すぐに運んでやる。 頑張れよ」


 憂えた瞳で俺を見た女は、幼子が腕の中にいることを確認するとぎゅっと抱きしめ、一言一言噛み締めるように言った。

「私の、全てを……」


 真っ白な光がほと走り周囲を包む。波の、風の、一緒に駆けつけた村人達の、俺の周りから全ての音が消え、色が消えた。

ーーと、白一色に輝いた光が黄に緑に青に赤に採り採りに変化し、やがて静かに幼子の中に消えて言った。


 ふと見ると幼子も薄いピンクがかったシールドのようなもので包まれていたことを知る。


 パキリ。


 幼子を守っていたシールドが割れたその音で、俺たちに音が戻った。いつの間にか額にはポタポタと汗が滴り、脚が震えている。この俺がーー?


「この子を、どうか幸せに……。」


 力なく、しかし確かな声で囁くと、幼子を俺に託した女は口角をそっと上げた柔らかな笑顔を作って事切れた。


 いつの間にーーーー

 さっきまで幼子と女を結び付けていた帯が消え、小さき身体は一冊の赤い本を抱えていた。


 そして母親は……

 愛し子を支えていた細い腕が、さらさらと音もなく消え始めた。それはまるで波に風に光に……この世の全ての美しきものに溶けるかのような幻想的な光景だった。



 荒々しい波が俺達を襲い始める。

「領主様ー。戻りましょう。このままじゃ俺らも海ん中に引き摺り込まれちまうー」

 村人の怒号で我に返り、俺達はザブリと海飛沫を浴びながら険しい帰路を歩いた。


 毛布に包まれた愛し子は、ふくふくとした柔らかな肌に冷たい海風を受けても微動だにせず、穏やかな寝息を立てていた。



▪️▪️▪️▪️



 ここエンデアベルト領はホフムング王国の最西端の小さな辺境である。


 まるでお椀の底にいるかのように切り上がった絶壁と深い森、どこまでも広がる荒野に険しい山脈で囲まれたこの地は、厳しい辺境といえる場所である。南部の交易の街サースポートへの足掛かりとなる街ランドと酪農で生計を立てるモルケル村があり、どちらも小さく牧歌的な穏やかさに溢れている。


 領主館のあるモルケル村は、先代の賢政で豊かな水場が整備されたことから牧草が育ち、酪農村として豊かになり始めた村である。

 海飛沫がそのままそそりたった様な絶壁は海と陸とを明白に隔て、海からの侵略を難しくするだけでなく、海風から水場や牧草を守っている。


 ディック・エンデアベルトは3代目辺境伯だ。辺境故の不便さを好み、おおらかで懐の深いこの男は、隣国の侵攻を許さず幾つもの武勲を立てたことで知られ、絶壁と共に、王国の守りの要とされた。


 光の加減で金にも見える栗毛に薄茶の瞳の精悍な顔立ち、すらりとした大柄な身体から覗く鍛えられた筋肉は、誰もが二度見するほどの美男夫であるが、その身なりは貴族とは言い難く、無精髭に無造作に束ねられた癖毛、ヨレヨレの平民服といった出立ち。かろうじて醸し出す色気のみが貴族という対面を保っているという有り様である。


「ただでさえ貴族っちゃぁ敷居が高いんだ。気さくな方が良いだろう?」


 冒険者であった彼は、何者をも恐れぬ腕っぷしと全てを受け入れる(細かいことは気にしない)寛容さで、領民から厚い信頼を得ており、エンデアベルト領は平民も貴族も隔たりなく穏やかな雰囲気に包まれている。

 しかし、一歩領外に出れば、並外れた戦闘センスと魔物を仕留めるその頻度、隣国からの兵を壊滅させた手腕ゆえに戦闘狂の暴君としてその名を轟かす。

 領民は、強い魔物を領主自ら退治してそこそこに数を減らしてくれる上、報告や手続きが面倒だというくだらない理由で素材や戦利品を民に分け与えてくれ、さらに暴君の名のもと野党すら近づかないという恩恵があるため、誰も否定することなく旨みに味を占めている。そして領主自身も自由気ままな生活を満喫しているがゆえに気を悪くするどころか大喜びでその名を楽しんでいるのである。

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