002 魔法書
「魔法が施されています。御注意を」
執事の言葉に、伸ばした手を止めるが、幼子が抱えていた物だ、大丈夫だろうと思い直す。
館裏庭の奥、錆びれた作業小屋。領主と執事は、小汚い机に一冊の本を置き、対峙する。
魔法がかけられたものは、開示する場所や人を選ぶ。時に爆発し、時に魔物が襲いかかる。そんな被害を最小限に留めるべく、他人気のない場所を選んで、俺たちは幼子の本を調べる。
さほど大きくもないそれは、古びてはいるものの立派な表装が施され、赤い革の周囲が時折光を帯びる。
そっと表紙をめくるが、特に何も起きない。男達は安堵する。ーーが、次にあまりの美しさに溜息を漏らす。
「見事な姿絵だ。家族だな。」
「ええ、服装からもかなり高貴な身分であると伺えます。王族?でしょうか。いえ、紋章がございます……」
少女のような笑みを讃えた女性は、艶めいた美しい黒髪をたなびかせ、同じく黒髪の赤子を抱いている。大きな黒い瞳、長いまつ毛の赤子は無垢な存在そのものであり、幸せそうに笑っている。女性の肩を寄せ、白き豪奢な杖を持つ美男夫は、魔力を高める衣装を身に纏い、よく見るとその司祭帽には賢者の刺繍が施されていた。
「なんと、お父上は賢者様であられる様です。先ほどの母親の魔力といい、魔法使いの才がおありでしょう。これは楽しみでございます」
執事が、珍しく頬を緩ませる。
「一族の歴史書みたいなものか……。魔法をかけて守らなきゃならん秘密があるのか? 嫌な予感しかしない」
ささと頁を繰ると本は突然、淡い光を鋭くして放ち、俺を包み込んだ。ーーと、同時に膨大な言葉、映像が停めどなく流れ込み、身じろぎ一つ許されない程の圧がかけられた。
「古代文字?いえ、異国の文字でしょうか?暗号のように一部に古代文字を織り交ぜ、いや、違います。……残念ながら我々には読めそうもありません。鑑定に出したところで……」
執事の呑気な呟きが、遥か遠くの意識の外から聞こえてくる。
俺は情報の泉で吐きそうな嫌悪感に襲われ、ただ立っていることで精一杯だった。
「……、ディック様?どうされました?」
「あなた、しっかりなさい!」
異変に気付いた執事に胸ぐらを掴まれ、やっと意識を取り戻す。
「……、ハァ、ハァ……。悪い。助かった。何があった?」
やっとの思いで声を絞り出す。
「それは私の台詞です! 何があったのですか? 酷い顔色です。 魔法ですか? 精神攻撃の類いですか?」
「お前は何ともないのか?」
呆れたように問うと
「何も問題はありません。むしろ、何故、あなたの様子が変わったのか疑問です」
と嫌な顔をしている。
「言葉が、姿絵が……おそらく本の内容が流れ込んできた。この本は……、この本は……、」
「……育児日記なの……か?」
「はぁ?」
今度は執事が声を失った。
柔らかな頬が時折緩み、ふわりと笑顔を見せると、また、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てる。大きすぎるベッドに寝かされた幼子は、まだ、母親との永遠の別れを知らず、健やかで穏やかな寝顔である。
幼き身に何があったのか、この無垢な存在にメイド達は知らず涙を浮かべて世話にあたる。
さっきまで清々しく晴れ渡った空に鉛のような雲が覆い始めていた。
ポツリ、ポツリ。
その夜遅く。
重苦しい気配に耐えられなかった空が小さな水滴を落とし始めた頃、小さな幼子はそっと黒い漆黒の瞳を覗かせた。
燭台の揺れる炎に照らされた頬が神々しさを纏い、まだ微睡の中にいる仕草に壊れてしまいそうな危うさを漂わせる。
「起きたか……。ここは安全だ。安心しろ……」
俺はなるべく穏やかに、優しい声で話しかける。
執事は、その手の魔法で温めたミルクを幼子の前に差し出し、ポチャリとベリーの蜜漬けを落としてかき混ぜると、小さな手にそっと手渡した。
「わぁ……。」
小鳥のさえずりのような甲高い声が響き、その大きな瞳で周りを見渡す。こくりこくりと喉を鳴らしてミルクを飲み干した幼子は満面の笑みを浮かべた。
「山のおばあは? 母様はどこ? ……もう大丈夫なの?」
ミルクを飲んで覚醒した幼子は、人懐こい笑みを湛え、キョロキョロと辺りを伺う。自身の状況を知りたそうだ。
こいつは、何をどこまで把握できるのだろうか? 理解できなくてもいい。 隠し通せるものではない。 こういうことは早いうちが良い。
俺は言葉を選びつつ、幼子を保護した時の様子を淡々と伝えた。激しく泣かれ、抵抗されることを覚悟して……。
しかし幼子は
「……そう」
と一呼吸すると布団に潜り込んだまま動かなくなった。
暗い闇が館を包み、雨の音だけが時が動いていることを示していた。
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