時計の病心編 第4話


 マッキンリーは一点を見つめていた。

 その視線は手の中にあるものへ注がれている。

 彼の手には件の『時計』があった。


 マッキンリーはイーハイの詰所から戻ってきていた。

 しかしながら、彼の足は街道とササラギ小隊詰所の門の狭間で止まり、敷地内に進むことはなかった。

 マッキンリーは時計の文字盤に刻まれたロゴを見る。

 その下に、数字が小さく刻まれている。

 ────『B133526』。


「どうかしたのか? 副隊長殿。」

 マッキンリーは、聞こえてきた声に顔を上げた。

 そこには落ち着いた雰囲気の男が一人、寮に帰る途中か何かだったのか、首だけをこちらに向けて立っていた。

「グリードか。戻ってたんだな」

 彼は、グリード=ノムラン。

 グリードは身体をマッキンリーに向けると、敬礼し、口を開いた。

「今しがた帰還した。そしたら、副隊長殿が立ったままになっているのに出くわした。」

「ああ……すまなかった。」

 グリードは何に謝られているのか分からず一瞬眉を顰めたが、マッキンリーが手に何かを持っていたのを見て首をわずかに傾げる。

「何を見ていたんだ?」

「……これだ。」

 マッキンリーは『時計』を前に出し、グリードに見せる。

 グリードは『時計』を見ると、感心したように頷いた。

「ほう、時計か。良い作りみたいだな」

「………サンキュー」

 グリードは吃驚しながらマッキンリーの方へ向いた。

「? これはもしかして副隊長殿が作ったのか?」

「いや……違う。」

「では、ご身内の方か?」

「ああ。」

 グリードは短く言葉を返すマッキンリーをじっと見つめた。

 素人のグリードから見ても『時計』はとても良い作りに見えるのだが、それを見るマッキンリーの表情や眼の中には小さな葛藤や苦しみ………他にも様々なものが宿っているように見えた。

 マッキンリーの短い返答でも、家族仲が悪いというわけではなさそうだとグリードは察したが、その後ろに複雑な背景を見た気がした彼は言葉を選んだ。

 グリードは優しく、ゆっくりと言う。

「そうか。良い仕事をする。私も一品欲しいところだ。」

「………頼めば喜んで作ってくれると思うぞ。なんせ、誰かに時計を使ってもらうのが好きな人なんだ。」

「素晴らしい職人ではないか。今度、ぜひ紹介してくれ。」

「ああ。そうさせてくれ。顧客が増えるのは、嬉しいだろうからな。」

 ようやく、マッキンリーはぎこちないものながらもグリードに笑顔を見せた。

 グリードにその笑顔の意味を追求する気は全くなく、それも一つの『本物』であると解釈して、笑顔を返す。

 そこで、マッキンリーがなにかに気がついたように辺りを見回した。

 ───そういえば、グリードは今帰ってきたといったか?

 巡回に行っていたグリードには二人ほどついて行った隊員がいたはずだが、その二人の姿は見当たらなかった。

 寮へ向かう途中だったらしいなら、その二人も一緒にいるはずなのだが。

「ところで………一緒に行っていたモリアナとサヴァランはどうしたんだ?」

「ああ。その二人ならいつもどおりだぞ。」

 いつもどおり? と、マッキンリーが眉を顰めると、グリードは調子を変えないまま、説明を始めた。

「モリアナは森の中に仕掛けてあった網に引っ掛かった後地面に落ちて、サヴァランは歩いてたら落とし穴に落ちたから担いで帰ってきて医務室に放り込んだ。」

「…………」

 マッキンリーはしばしの間、言葉の意味がわからず硬直した。

 なんで森の中にそんなもんがあるんだよ、という疑問が頭の中で回り始めるが、よく考えるとたまに───毛皮や獣肉などの調達のために動物を捕まえるための罠が仕掛けてあることがある。

 大方、それに引っかかったのだろうとか考えるうちに「ああ、そういえばあの二人はなぁ……」という気持ちがマッキンリーの中に湧き、何故かとてつもなく申し訳ない気持ちをグリードに対して感じた。

「………なんかすまん」

「流石に慣れたから気にするな、副隊長殿」

 グリードは何故か謝罪を口にするマッキンリーに苦笑してみせた。





「と、いうわけで……本部から捜査の許可が下りましたー!」

「ああ。サンキュー、マフィー」

 両手を上げて大げさに喜ぶマフィー。

 諸々の手続きを行ってくれた彼女に対して、マッキンリーはマイオラ式の礼を述べた。


 あれから数日。

 隊長たるササラギがいない状態をなんとか誤魔化しながら、マッキンリーとマフィーは委任状による捜査許可の返還手続きを進めた。

 結果、ある程度危なっかしいところはあったものの、委任状は無事受理され、今日、その許可の連絡と証明書の発行がされたのだった。

 その間にクリスを含めた隊員も何もしていなかったわけではなく、新たな『心臓』の目撃情報がないかを探したり、巡回の頻度を増やしたりなどしていた。

 クリス自身も、最初に見た『心臓』と同じ『波長』を見つけることがないかと気を張っていたが───そもそも『心臓』が現れることがこの間は無く、平和であることは何よりではあったが、空振りに終わった為に少し微妙な気分であった。


「結局、イーハイさんの所でも死体の身元は分からなかったんですよね」

 クリスは肩を落としながら言った。

 イーハイは律儀なところがあるのか、委任状が受理されていないにも関わらず、クリスたちに私情の手紙という体で情報を回してきていた。

 ───が、結局自分たちが見た以上のことは殆どわからず、何も伝えることがないという一言と、それに対する謝罪文が載せられていたのだった。

 何もわからなかった、ということが分かっただけでも……と、クリスは感謝の手紙は返したが、手の打ちようがなくなったことに対しては不安を感じていた。

「指紋まで取れなかったんじゃ仕方ないわな」

 マッキンリーも肩を竦める。

「でも、それなら僕たちも何から調べたら……」

「そこで……これさ。」

 マッキンリーは自分の隊服の懐を漁ると、何かを取り出してクリスに見せた。

 クリスがマッキンリーが広げた手の中を見ると、そこにはあの壊れた『時計』があった。

「それは……」

「それ……、私のお父さんが作った時計なの」

「……………えっ!?」

 クリスは驚いて、マフィーの方を見た。

 マフィーは「いやぁ〜」と声を出してから、続ける。

「私もおじ……、副隊長から聞いたとき、世間は狭いなぁ〜、なんて思ったよ。」

 「えへへ」とマフィーは照れたように笑い、マッキンリーに近寄ると、彼女は時計の文字盤のある箇所を指さした。

「でもほら、これ……ここにロゴがあるでしょ? あと……製造番号。」

「製造番号?」

 彼女が指す場所には、時計店のものと思わしきロゴと、謎の数字が描かれていた。 

「『B133526』、って書いてあるでしょ? 私のお父さん、凄く几帳面な人でね。どのお客さんにどの時計を渡したか、ちゃんと分かるようにしてたんだ。」

 クリスはマフィーの言葉に弾かれたように顔を上げる。

「じゃあ、マフィーさんのお父さんに会いに行けば……!」

「うん。持ち主の名前がわかると思う! …………でも………」

 マフィーはそれまで見せていた明るい表情を曇らせ、突然、言葉を濁して俯いた。

「? ………どうかしたんですか?」

「ううん、なんでもない……」

「…………………」

 力なく笑うマフィーに、クリスは戸惑ってしまった。

 なんと声をかければいいか分からず、マッキンリーに視線をやったが、マッキンリー自身もクリスを複雑そうに、………いや、申し訳無さそうな顔で見つめてくるだけだった。

「………え、えっと、それで、」

 クリスはなんとか場を繋ごうと、うまく動かない口を開く。

 この二人になにかあるかもしれなくても、元は自分のワガママのために二人が持ってきてくれたことなのだからと、クリスは心を決める。

「マフィーさんのお父さんはどこにお店を?」

 クリスが聞くが、マフィーは悲しげな顔を浮かべるばかりで、答えに詰まっているようだった。

 すると、マッキンリーの方から声がした。

「………アンナ療養病院だ」

「……療養病院……?」

 クリスは再び、マッキンリーの方を見る。

 視線は合わなかった。

 なぜなら、彼は窓の向こうを眺めていたからだ。

 出てきた言葉が店の名前でないことに、クリスは嫌な予感を隠しきれずにいた。

 その時点で、マフィーとマッキンリーの家族である『目的の人』が、思わしくない状態にあることが誰にでも分かるからであった。

「来れば分かるさ。向こうに着いたら教える。」

 それだけいうと、マッキンリーはクリスやマフィーには顔を見せないまま、執務室の入口のほうへ歩いていく。

「マフィー、俺は保存食を作り置きしてくる。外出の準備と隊員への報告を頼む」

「うん……あ、いえ、了解です」

「……………」

 どこか力なく出ていく二人の背中を見送りながら、クリスは一人、執務室に残る。


 マッキンリー副隊長は、時計のことを知っていた。

 ………イーハイさんは、どこまで知っていたのかな。

 マフィーさんのお父さんは、………………。


 クリスの頭の中で、疑問が渦巻く。

 なにか、彼らの大切なものを……自分が壊していくかもしれない。

 そんな予感に、クリスは身を震わせた。






「着いたぞ。」

 数刻後。

 クリスはマッキンリーとマフィーに促されるまま、街を行き来する移動用馬車に乗せられ、マフィーの父親がいるという『アンナ療養病院』という場所に連れてこられていた。

 その名前から、クリスは大きな病院を少しだけ想像していたのだが、全然違っていた。

 クリスが想像していたような病院のある種の無骨さは感じず、むしろその施設とも言える建物はパステル調の柔らかな色合いで、周りに緑も多く、そういう宿泊施設だと言われれば信じてしまいそうなほど落ち着いた場所だった。

 クリスは、マッキンリーの方に向き直る。

「あの……マッキンリーさん、ここって……」

「ああ……。」

 マッキンリーは、無言で病院のミントグリーンカラーの扉に向かい、中に入っていくマフィーの姿を見送っていた。

「こういう病院は、周辺だとここ以外に無いからな……」

 クリスはそう呟くマッキンリーから視線を外し、今しがたマフィーが入っていった扉を見た。

 両開きの扉の横に貼られた、一枚の貼り紙ががクリスの目に映る。

 ───貼り紙には、『緩和ケア実施中!』『先生や看護士と一緒に病気と向き合いましょう!』と書かれていた。

 クリスはそれを、何ともし難い気持ちで見つめていた。

 ややあって、マフィーが建物の扉から顔を出した。

「手続きが済んだよ。二人とも、入って」

 そう二人を呼ぶマフィーの声色は、いつもよりも落ち着いたものだった。

 クリスは先に歩き出したマッキンリーの背を見る。

 

 クリスの中で、一つの思考がその足を止めていた。

 自分としてはただ、『手がかり』が見つかればそれで良かったのだし、そもそもこの話は自分が言い出さなければ始まらなかったことでもあった。

 イーハイに全部を任せていれば、それで話が終わりだったはずのことだ。

 

 クリス自身、自分の考えが全く無かったわけではない。

 彼がササラギに言ったように、時計を返してあげたい、という気持ちはあった。

 ───だが、クリスはそれが一つの言い訳であることを自覚していた。

 本音としては、彼は『チャンス』だと思ったのだ。


 クリスが持つ『眼』。

 彼の所属する隊の隊長であるはずのササラギは、『クリスの眼を使おうとしない』。

 彼の『ノムレスの心臓』を正確に見つけることのできる『眼』はどの隊にもない特別なもののはずで、クリス自身、当初は自分はそのためにここに呼ばれたのだと思っていた。

 だが、ササラギはクリスに必要最低限しか『眼』を使えと命令しない。

 それも数年をこの隊で過ごしているが、両の手で数えて余るほどかもしれない。

 何度かクリスはその理由について、ササラギに問うた。


 だが、決まって彼はクリスにこう返す。

 『使いたければ勝手に使え、人に判断を委ねるな』。

 そういったことをいつも言う。

 クリスが意識しなくとも、『ノムレスの心臓』は見えてしまうので、使うという言い方には多少の語弊はある。

 より正確なことを言えば、『探せ』と言われたことはない───だ。


 ………なら、僕はどうしてここにいる……?

 僕がすべきことは、何だろう。 

 その答えを得るチャンスが、来ている気がしていた。

 だから彼は『しなくても良かった』ことを盾に、この話を進めようとした。

 『真実』という刃が、人の喉元を狙い始めている気がしながら。

 

 クリスは二人を追いかけて、建物の中へと入った。

 マフィーを先頭に、マッキンリーとクリスは並んで廊下を歩いていく。

 その間、誰も何も話さなかった。

 クリスは廊下ですれ違う穏やかな表情を浮かべて談笑したり、途中のソファーで居眠りをしている患者や、忙しそうに歩き回ったり、時には患者と共に手芸などに勤しむ看護師達を見ながら、ただ足を進めた。

 やがて、彼らは『205号室』と書かれた病室にたどり着く。

 マフィーはその部屋の扉に向かって右腕を上げた。

 その腕は上がったまま、しばし止まり───ようやく、控えめに扉を三回叩いた。

「お父さん、来たよ。」

「その声……マフィーかい? 入っておいで。」

 中から、穏やかな男性の声がした。

 マフィーがその声に応えて扉を開けると、白い空間が広がった。

 タンスやソファー、本棚、物書き机。

 最低限のものが備えられた部屋の窓の近くには、医療用のベッドがあった。

 そして、そのベッドの上に、その人物はいた。

 ベッドの頭側を立て、座るような姿勢を保っていたその人物は、マフィーの姿を見ると、小さく腕を上げて手を振ってみせた。

「やぁ、マフィー。いつもすまないね。」

 腕を下ろし、読んでいたらしい本を閉じて、マフィーの父たる人物が娘たるマフィーに微笑みかける。

「仕事が忙しいって聞いたけど、大丈夫なのかい?」

「うん……。大丈夫よ、お父さん。」

 マフィーは父親のいるベッドに近寄ると、その手を取った。

「実は、お見舞いもそうなんだけど、今日、私……仕事でも来たの。」

「仕事……?」

 マフィーは父の問いかけに、後ろに目線をやった。

 父親は娘の視線を追いかけて、そこでマッキンリーとクリスたちの姿を見た。

「! 君は……、君たちは……」

 一瞬、クリスは自分を見たマフィーの父親がとても驚いたような表情を浮かべたのを見た気がしたが、それは前に一歩出たマッキンリーによって掻き消された。

「ご無沙汰しております、……お義兄さん。」

「マッキンリー! マッキンリーじゃないか!? 久しぶりだな……! 元気だったかい?」

 マフィーの父はマッキンリーの姿を見ると、これでもかというほど破顔した。

 マッキンリーがマフィーの父に近づき、その腕を伸ばして彼と握手を交わした。

「一ヶ月も顔を見せられず、申し訳なかった。義兄さんも……具合は、どうです?」

「ああ。お陰さまで……。また、費用を送ってくれただろう? すまないな……。」

「いえ。少しでも義兄さんの役に立てれば……と思って。」

「………ありがとう。世話をかけて、本当にすまない…………。兄らしいことが少しでもできたら、良いんだけどね……」

「十分ですよ、義兄さん。」

「…………そうかな?」

「お父さん、叔父さんはウソがニガテだってよく知ってるでしょ。」

「マフィー、お前なぁ」

「はは、そうだったね……。」

 クリスは、家族の団らんを静かに見守った。

 自分がマフィーの父と初対面なのもあり、入りづらかったというのもあるが、邪魔する理由がまったくないことが一番の理由だった。

 が、マフィーの父の関心のほうが勝ったらしい。

 彼は二人の合間からクリスに視線を向ける。

「…………ところで、後ろの彼は? 君たちの隊の人かな。」

「あ……。どうも……」

 マフィーとマッキンリーがその場を少しだけ退き、マフィーの父の姿が露わになる。

 クリスは穏やかに笑うマフィーの父に向かって一礼したあと、マフィーやマッキンリーと同じようにベッドの近くに寄った。

「クリス=アイラーンです。お二人には大変お世話になっています。」

「クリス=アイラーン……そうか、君が……」

「…………え?」

 発された言葉に戸惑い、クリスは目を丸くした。

 彼はクリスを見て、まるで安心したかのように彼は笑っている。

 クリスはその表情の意味が分からず、面食らうしかなかった。

 そんなクリスに気がついたのか、マフィーの父は頭を振って、もう一度クリスに向き直る。

「……ああ、いや、なんでもないよ。ごめんね。………私はマクス=アップリー。こちらこそ、娘と義弟がお世話になっています。」

「えっ、いえ、むしろ僕のほうがいつも二人に助けてもらってばかりで……」

 そこで、クリスが少しだけ目線を下げたが……、その目が再び見開かれた。

 

 彼はそれが『見間違い』であることを祈って、目を瞬かせる。

 だが、視界に映るものは変わることがなかった。

 マクス=アップリー。

 その男の胸───心臓に当たる臓器がある場所に、ほんの小さな───『光』があった。

 それは、夜の水辺に飛び回る蛍ほどの小さな光であったが、確かにあった。

 

 外の木漏れ日? いや、違う。

 木の陰は、ベッドに辿り着く前に終わっている。

 服のボタンの反射? ボタンは蛍のような光り方をしない。

 

 クリスが何度ともなく見てきた、『光』がそこにあった。

 クリスは答えを求めるように、マクスの顔を見たが───先程と変わらぬ笑みを浮かべているだけだった。

 両隣に立つ、マフィーとマッキンリーの表情を見る余裕も彼にはなく、彼は呆然としていた。

 その様子を、マフィーとマッキンリーは伺うように静かに見つめているのに、クリスは全く気がついていなかった。


 マクスはそんな彼らの様子を見て、一度目を瞑ると口を開いた。

「それで……さっき仕事だって言っていたけど……どうかしたのかい? 私に何か……あるのかな?」

 マクスの言葉に、三人は一斉に我に返った。

 マッキンリーは急いで自分の懐を探り、あの時計を取り出してマクスに見せた。

「……この時計の持ち主を知りたいんです。」

 マッキンリーがマクスに時計を渡す。

 マクスはそれを見て、目を細めて笑った。

 自分が作ったものであると気がついたのだろう。

「これは……懐かしいね。」

 マクスの片手が時計を撫でる。

「なんて名前のお客さんだったかな……。マフィー、そこの本棚の……うん、十二番めだと思うんだけど……ファイルを取ってくれるかな」

「分かった。えーと……これね。………はい、お父さん。」

「ありがとう。少し待っててくれるかい? 製造番号と照らし合わせるよ。」

 マクスはマフィーが渡してくれたファイルを開き、ゆっくりとページを進め始めた。

「…………、お願いします。」

 その様子を見ながら、クリスは喉の奥から音を絞り出すようにそう言った。





「はあ……。」

 森の中に、大きな溜め息が漏れて消えていく。

 ため息の主はトポリであった。

 彼は緩やかな足取りで歩き、腕を頭の後ろで組みつつ、その幼く見える顔に呆れを浮かべていた。

「全く、勘弁してほしいよ。賞与が出るのに、始末書も発行だなんてついてない。プラマイゼロってやつじゃないか。」

 誰に言うでもなく、彼は独り言を続ける。

 やがて足を進める気力も回避不可能な理不尽を思うとなくなってしまったのか、トポリはその場に立ち止まると大きく肩を落とした。

「それもこれも、うちの隊長がムチャクチャするからだぁ。」

 トポリは「はぁ〜あ……。」とまた大きく溜め息を吐く。

「まあ、止められなかったボクもわる……」

 さらに独り言を続けようとしたトポリは、何かこの場に似つかわしくない音を聞いた気がして、言葉を止めてその場から飛び退いた。

 そのトポリの判断は正しかった。

 トポリがその場から離れた瞬間、彼が立っていた場所に重苦しい音を響かせて、鋭く太い鉄棒のような何かが振り下ろされたからだ。

 気が付かなければ、トポリの頭か、肩か──どちらかは確実に砕かれていただろう。

 鉄棒たる『脚』が退いた場所には分かりやすく地面の抉れが生まれていた。

「うーん、今日、ボクってば神様に見放されてる? 東の国で言う厄日ってやつ?」

 トポリは身構えながら、その場所に『降り立った鉄棒』の正体を見る。

 鉄棒だと思ったそれは『人』であった。

 その『人』の顔を見て、トポリは本日何度目になるか分からなくなった溜め息を吐く。

「……本当に勘弁してよ。これ以上始末書が増えたら、賞与がパーじゃ済まないからさぁ。」

 『人』はトポリの言葉には反応しなかった。

 変わりに───今しがたトポリに落としてみせた、ある種の凶器とでも呼称すべきその『脚』の片方を下げ、体勢を取り始める。

「……だんまり? うそでしょ?」

 トポリがそれを言い終わるか終わらないかの瞬間、鋭い蹴りがトポリを襲う。

 トポリは間一髪でそれを避け、大きく後ろに飛んで距離を取る。

 その間に『敵』であるそれは片足を後ろに下げた姿勢に戻り、トポリヘの追撃の機会を伺っている。

 トポリは追撃を加えてこない相手に対して警戒を強めた。

 無闇に攻撃をしてこないのは、トポリの反撃がいつ行われるか分からないからだろう。

 

 やれやれ、戦えるってバレてるんじゃん。

 なんなら、ボクの戦い方も知ってたりして。


 トポリは自分の戦闘準備が整ったと同時に、絶対に相手が聞かないだろう言葉を選んで声に出した。

 「人間なんだからさ、言葉使わない?」

 再びトポリに『敵』の鋭い『脚』が襲いかかる。

 トポリは今度は避けなかった。

 その時───彼と『敵』の間に、突如『歪な黒い塊』のような壁が生え───彼を守った。

 耳障りな金属音が、辺りに響き渡り──黒い壁は無数の小さな黒い球になると、様々な方向へと飛び散っていった。

「おっかしいなぁ、『うちのよりは』話が出来るはずだったんだけど」

 ざらざらと音を立てて崩れた壁の向こうに、壁を叩き割ったままの姿勢でいる人物の顔を見た。


 …………ササラギ=トリッパー。

 トポリが今、自身の所属する隊の隊長の次に出会いたくない人物であった。


 ササラギはゆっくりと脚を下ろすと、トポリに向かって首を傾げてみせた。

「………これから人で無くなるものに何か必要ですか?」

「これからの話でしょ? 今の話しない?」

 トポリの言葉に、ササラギはただ無言でトポリを見た。

「…………謙虚ですねぇ。」

「ボクじゃ無理。驕る気はないよ。」

 トポリはササラギに対して『あなたには勝てない』とあっさりと言ってみせた。

 彼は両の手を広げ、やれやれと首を振ってみせるが──次に、ササラギに鋭い視線を向けた。

「……でも、だからって『あれ』と引き合わせるのはゴメンなんだよ。」

 トポリはこの場にいない『厄介な獣』の姿を想像して、冷や汗をかきそうになった。

 

 ササラギと『あれ』を会わせてはいけない。

 そんなことになったら、取り返しのつかないほど面倒なことになる。

 それこそ、まさに地獄絵図と言って過言ではないほどの。

 握れない手綱に意味はない。

 トポリはなんとかしてこの接触の場から離れたかった。

 

「基本給まで削られたくないから引いてくれたりしない?」

「キミの言う『あれ』とやらが何を指すのか知りませんが、それは私にメリットがある話なんですか?」

「ついて回る面倒が一個減るよ?」

「キミたちの存在が面倒なんですが」

「あっ、うーん、そうか……」

 どうやら、そもそも彼はトポリという芽を潰しにきたようだった。

 トポリは今しがた自分が口にしたとおり、『まぁ、そうか』という気持ちに苛まれる。

 どこまでの手の内が知られているのかまで分からない以上、トポリはこれ以上余計なことを言うのはよそう、と自分の身の安全を諦めた。

「えっとぉ……何したら許してくれる?」

「そうですね……」

 わざとだろう。

 ササラギは考えるような仕草をした後、

「用があるとしたら一つだけです」

 と、言い───一呼吸置くと、鋭い瞳をトポリにぶつけた。

「───ベルドリッチをどうしましたか?」

 トポリは返答の代わりに、己の武器を再び構えることになった。



(続く)

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