時計の病心編 第3話


「……あの〜……あの死体押し付けてきたの、キミんトコの隊長さんなんだケド??」

 これでもかというほど眉を下げて、イーハイはマッキンリーから受け取った書類から目を離した。

 紙面から離された彼の視界には、真顔のままのマッキンリーが妙に姿勢良く仁王立ちしているのが映る。

 姿勢良く───というのは、仁王立ちと言っても足を広げているわけではなく、イーハイからそう見えただけであり、マッキンリーはしっかりイーハイに対して礼を払ってはいる、という状態だったからだ。

 イーハイ自体、別に目の前の人間がどんな立ち方をしていようと気にはしないが、対してマッキンリーは体裁はしっかりする人間だ。

 そこはイーハイも分かっている。

 しかし、マッキンリーから出たのは、

「だから委任状を出しに来たんですよ、ブチ飛ばしますよ」

「アレェ? えっ? キレ気味??」

 という、上官の立場の人間に向かって『ブチ飛ばす』と言い放つ、礼もなにもないものであった。

 なんなら、マッキンリーは右手をゆっくりと上げて拳を作る。

 「ちょっ……!?」と、声を上げかけたイーハイに対して、彼はこれでもかというほど感情を無くした目を向けていた。

「八つ当たりはしませんから一発殴らせてほしいんですけど、良いですよねイーハイ隊長」

「何もヨクナイんだケド!? 果てしなく八つ当たりだよねソレ?! どんだけフラストレーション貯まったらそうなるの?!」

 イーハイが自分の身を預けている椅子にすがりつきながら訴えてくるのを見て、マッキンリーは長い息を吐く。

「察してください」

「えっ、あっ、うん、なんかゴメン」

 イーハイは姿勢を戻しながら、ササラギのことを思い出す。

 確かにあの隊長の下にいたら何かと大変そうだという気はしていたが、まさか重要書類の為の印まで部下に放り投げていくとは………。

 ………と、イーハイは心の中で頭を抱えた。

 実際に人に後始末を押し付けておいて、やっぱり必要だったから権限返してください、という話を持ち込まれたのが自分の隊以外だったら隊長格に会う前に「ふざけるな!」と門前払いされてもおかしくなかっただろうに。

 イーハイがマッキンリーが抱えているだろう心労の種を色々と想像していると、彼の隣に立っていたナギサが頭を下げた。

「心中お察しして余りあります」

 という言葉を添えながら。

 イーハイは言葉の意味を捉えきれず一瞬呆けたが、頭を上げた後のナギサの視線が微妙に彼に突き刺さっていたので、彼はそれが自分への皮肉であることを察するしかなかった。

「待って? このタイミングでソレ言われるとココロにクるんだケド?? ナギサちゃん普段オレに何思ってたの!?」

「果てしなくウザいナンパ癖のクソです」

 ナギサは清々しいほどの無表情をイーハイに向けると、一言だけハッキリと言った。

「オレの味方ドコなのこの空間……?」 

 イーハイ自体に自分があまり模範的な上司でない自覚はあったものの、ナギサのあまりにも即答ではっきりとした言葉にイーハイは今度は机に突っ伏した。

 数秒間待った後、イーハイはなんとか顔を上げ、先程から頭の中にあったことを話そうと口を開く。

「てか、オレじゃなかったらキミたち一発クビだよ!?」

「喜んでお暇を頂きます」

 そう言ってイーハイの隣から立ち去ろうとしたナギサの服の袖が掴まれた。

「待って待って待って待って!? 分かった、ゴメン! ゴメンナサイ!!」

「……だ、そうです。マッキンリー様」

 マッキンリーは、イーハイに縋りつかれながらもそれを無視して淡々とした態度を崩さないでいるナギサを見て、何となしによくわからないところで彼女も彼に苦労を抱えさせられているのだろう、という気になった。

 ………まぁ、イーハイのような夜の店通いの上司に良い印象を持つのはそもそもごく一部の層だろうとも思うが。

 同時に、上司のそのような緩さに甘える部下という自分たちの姿も存在しているわけで……とマッキンリーは苦笑する。

「ここの隊もウチとあんま変わんねぇな」

「こうでもしなきゃやっていられない、……という事です。」

 ナギサの言葉に、時間が止まる。

 ナギサの袖からゆっくりとイーハイの手が離れた。

「あなたもそうなのでは? マッキンリー様」

 マッキンリーはナギサの問いにわずかの間だけ驚きの表情を見せた。

 やがてゆっくりとその頭が、視線が、下がる。

 

 マッキンリーの脳裏に、土に汚れた例の『時計』が過る。

 あの時計は、『あの人』が作った。

 ならば、あの人が恐らく知っている。

 だが、もしもそれをしたら、どうなるのだろうか。

 『彼』にはきっと『視えて』しまう。

 そうしたらきっと、自分たちは、決断を迫られるかもしれない。

 それは悪いことか、それとも善いことか。

 『時計』が眼の前に現れた時、マッキンリーは焦ったのだ。

 そして、ササラギが委任状をマッキンリーに頼んだのは────。

 …………考えられることすべてが腹立たしく思える。

 マッキンリーはあの言葉足らずどころではない己の上司のやることが回りくどくも、大体が『真』であることを理解していた。

 

 マッキンリーはイーハイが『時計』を寄越してきたというのをクリスから聞いたが、それはあくまでも偶然の話。

 イーハイには別の意図があって『時計』を渡してきたのだろう。

 マッキンリーに察せたのはそれだけだ。

 でも、ササラギは『委任状』を貰ってこいと言った。

 …………あいつはどこまで、知っている?


「マッキンリー殿。」

 マッキンリーは前から聞こえてきた落ち着いた声色にハッ、となって顔を上げた。

 イーハイの目が、マッキンリーの目を捉えた。

 見透かすような眼差しに、マッキンリーは半歩、後ろに下がりそうになった。

「キミのところの隊長殿がオレに何かを頼むときって、大体が『とてもヤッカイなこと』だったりするんだ。………あ、クジョーを言いたいとか、そんなんじゃないよ。」

 マッキンリーはその言葉だけで、イーハイもササラギが自分とは別の思惑で動いていると見抜いているのだろうと理解した。

 イーハイは一度目を伏せる。

「単に個人的な───……うん。友人の警告として受け取って欲しいから、今言っておくね」

 その目が開かれ、先程よりも強い光を宿した。

「『キミがイラつくのはよく分かる』。」

 マッキンリーのヒュッと喉が鳴った。

「『ただし個人的な感情を抑えられないなら、この件はキミたちに任せることはしない』。………わかった?」

 そう言い括ると、イーハイは微笑んでみせた。

「……………イーハイ隊長、」

 マッキンリーは二の句を継ごうとして、出来なかった。

 口が震えて、上手く音にならない。

 喉が緩く絞められて、気官を邪魔される。

 それがイーハイの見せた気迫によるものなのか、それとも己が混乱と戸惑いから脱せていないからなのか、彼には判断できていない。

 やっと絞り出せたものは、

「あなたは、どこまで………」

 という、曖昧なものだった。

「んーん、オレは何も知らないよ。」

 イーハイは首を横に振ってみせる。

「でも、強いて言うなら、オレもキミたちとはそれなりのツキアイだってこと」

 彼は努めて、優しく諭すように言う。

「だから、うん、そう。なーんとなく分かっちゃうんだよ。『彼』の行動パターンってやつがね。……そうだろう?」

「………………」

 マッキンリーは黙り込むしかなかった。

 その様子を見たイーハイは苦笑すると、手に持っていた委任状を机に置いて、署名欄に自分の名前を記載する。

 書き終えると、紙を適当に空中で振ってインクを乾かしながら、口を開いた。

「まぁ、オレも死体の検視にはクリスくんの『眼』を借りたいし…………そういうことにしておくよ。」

 イーハイはナギサに委任状を手渡す。

 マッキンリーはナギサが机を避けて自分の前に歩いてくるまでをただ見つめていた。

 

 ───クリスの『眼』、か。


「お受け取りください」

 ナギサがマッキンリーの前に委任状を差し出す。

 マッキンリーは酷くゆっくりと手を伸ばし、それを受け取った。





「ほー、じゃあ隊長は行方不明で、副隊長は出かけて留守なのか。」

「う、うん。ごめんね」

 クリスは眼の前の青年に頭を下げた。

 青年───トスク=ラスタ=グロークはそんなクリスに対して首を傾げる。

「いや、なんでクリスが謝るんだ? 悪いのは勝手に消えたササラギ隊長だ」

「う、うん、そうなんだけど……一応、僕の話聞いたあとに居なくなっちゃったから……」

 クリスはあの後、委任状をイーハイの所まで貰いに行ったマッキンリーを待ち、ササラギ小隊の寮で待機していた。

 そこに別の場所の巡回を行っていた別の隊員たちが帰ってきたのだが───帰ってきたというよりは、結果を報告する相手であるササラギやマッキンリーが見当たらず、二人が居ないかどうかを探して寮に顔を出しに来たというのが正しかったらしく、寮の中で右往左往していた『彼ら』とクリスは廊下で対面したのだった。

 『彼ら』はというと、寮に来た時点でマッキンリーはともかくササラギがいないだろうことは察していて、クリスと対面したときには既にササラギへの報告は諦めていたようだった。

 マッキンリーも恐らくいなさそうだと思った彼らはトスクの部屋に集まり、休息することにした。

 そこで、クリスは彼らにササラギとマッキンリーがいない理由について話し───現在に至る。

「隊長が勝手にいなくなるのはいつものことじゃないか。クリスが気にすることないだろ。」

「グロークとラタの言うとおりだよ、クリス。気にしないでいいからね。」

「ラタ……スクルトさん……」

 口々にクリスに声をかけたのは、トスクと共に行動をしていた少年──ラタ=ユートュと、青年──スクルト=バーランスである。

 クリスが彼らの方を見ると、彼らは揃って首を縦に振った。

「仕方ないから、報告書は作っておくだけ作って保管しておくか。マッキンリーさんが帰ってきたら出せばいいしな」

 トスクの言葉に、スクルトが「そうだね」と返したところで、クリスは「そういえば……」と口にした。

「トスクさん達って今回どこに行ってたんでしたっけ?」

「僕たちは今回北側だったんだよ。」

 トスクが答えると、ラタが溜め息を吐いた。

「ハズレだったんだけどね。前回はグロークのせいで酷い目にあったから、まだ良いけど。」

 ラタの言い分に、トスクが「はぁっ!?」と声を上げた。

「何だと!? 何であれが僕のせいになってるんだ!?」

「おまえが川沿いを歩こうとか言うからあんな目にあったんじゃないか。」

「お前が歩きたいって言ったんだろ!?」

 吃驚するクリスの目の前で口論を始めてしまったラタとトスクの間に、スクルトがやんわりと入り込み、「はい、はい」と二人を手で制した。

「こらこら、二人とも。一週間も前のことで喧嘩しないでよ。あのときは僕の水筒の水が切れちゃったから二人に川に行こうって頼んだじゃない。それで手打ちにしてよ。」

 自分たちの顔を覗き込んでくるスクルトに二人は閉口して、お互いの顔を見合わせた。

「……ごめん、スクルト。」

「……悪かったよ、バーランス」

「はいはい」

 何故か膨れっ面でスクルトに謝る二人にクリスは苦笑する。

「仲良いよね、三人とも」

「どこが!?」「何がだ!?」

 クリスの言葉にラタとトスクが揃って勢いよく言い返してくるものだから、スクルトとクリスは噴き出して笑いだしてしまった。

 そんな二人をラタとトスクはなんとも言えない、何か奇妙なものでも見てしまったかのような顔で見つめている。

 やがて笑いの波が引いてきた時、クリスは笑いすぎて出てきてしまった涙を拭った。

 そうして気持ちが落ち着いてきた頃に、クリスはあることを思い出した。

 

 先程の、三人の話に出てきたもの。

 確か、その川にいた『ノムレスの心臓』は…………。

 クリスは一呼吸置いたあと、口を開いた。


「ところで……、その川でのことなんだけど」

「うん?」

 トスクの応答と共に、三人の目線がクリスに向けられる。

「たしかその時……出てきた『心臓』持ちは行方不明者……だったんだよね?」

「ああ。………もうその時には本部から来た最新リストから外されてたけどね。」

 クリスの質問に、ラタが答えながら思い出すように上を見る。

「行方不明になってから三ヶ月くらい経過してたからな。それ以上は捜索できないって判断だったんだろ」

 ラタの言葉に、トスクがそう付け加えた。

 

 スクルトが話していた、一週間前のこと。

 彼らが立ち寄ったという川に運良くなのか、悪くなのか───『ノムレスの心臓』が徘徊していた。

 が、これは確実に運の悪いことで、その『心臓』はかなり強い個体だったらしく彼らは処理に手間取り、幸いなことに大きな怪我こそしなかったが長時間の戦闘を強いられ、最後の方にはスクルトが持つ防御用の装置で押しつぶすしかなかったほど攻撃手段を失いながら戦ったらしい───ということをクリスは聞いていた。

 マッキンリーからの話では、無理だと思えば隊員の命が優先されるので撤退をしても構わない、無理にその場で討伐しなくても良い、というルールがあるのでそれを守ってほしかったようなのだが、三人は何としてでも倒さないといけないと強い個体を見て思ってしまったらしく、そのまま倒してきてしまったらしい。


 そして、その『心臓』であるのだが───その個体は元になったものの顔が残っていた。

 ところどころ多少変形はしていたものの、その相貌に特徴があったために、それが何者であったかがすぐに判明した。

 それは、ちょうど三ヶ月前に『捜索願』が提出されていた近くの町の住人だったのである。

 その街から捜索願が出る一週間ほど前からその人物は姿を消しており、あまりにも帰ってくる気配もなく、不審に思った家族が役場に通報したらしい。

 結果───政府で定められた三ヶ月という期間内の間に行方不明となった人物を発見することは叶わず、捜査は打ち切られることになっていた……という話であったはずだった。


 大体は捜査の打ち切りと共に、関連資料の廃棄が求められていて、今回もそうだったのだが──────。


「マフィーさんが資料を全部残すタイプで良かったよね。あれがなかったら分からなかったかもしれないや。」

 スクルトは頷きながらそう言った。

 彼の言う通り、ササラギ小隊の事務保管庫に、行方不明者についての資料が残ったままになっていた。

 マフィーは「どうして結果のはっきりしていないことに関する書類を捨てる必要があるんだろう? 百歩譲って、解決したならわかるけど」と疑問に思っていたらしい。

 だから残しておいた、と言っていた。

 それについて政府から多少のお咎めは食らったものの、結果的に遺体は『心臓』を抜いてから家族の元に返された……というのが、事の顛末である。

 そこまでを思い出したトスクが、あることに思い当たる。

「……もしかして、今度見つかった『心臓』持ちもそうなのか?」

「それも調べに行こうと思って。」

 クリスが答えると、ラタが考えるように自らの腕を組んだ。

「クリスは死体を見ていなかったのか?」

「あのときはササラギさんに引っ張られて帰ってきちゃったからさ……」

 クリスは片手で頭を掻きながら、自分が出会った『心臓』のことを思い出す。

 あの『心臓』は『人型』だった。

 それを考えたら、あの『心臓』が元々人であった可能性は捨てきれない。

 『心臓』とは、そういう認識ができるものだ。

「あと……たぶん今回の『心臓』持ちが最近出没していたやつらの本体……だったんだと思うんだ」

「『心臓』のオーラ……だっけ。徘徊してたやつと同じだったの?」

 スクルトの質問に、クリスは頷く。

「うん……。そう『視えた』。」

「ふーん……。本体、か。だから今までのやつらは『心臓』を取り出しても小さかったりしたんだね。」

 クリスの言葉を聞きながら、ラタは納得したように呟いた。

「でも、なんでそんなことになってるんだろうな。行方不明者にまでそんな『心臓』の被害が出てる。なら……」

 トスクが苦々しい表情をその顔に浮かべながら、下を向く。

 その次の言葉を言いたくないのか、トスクの話がそれ以上続かなくなったのを見て、スクルトが続けた。

「…………これは偶然じゃなくて、人為的に誰かがやっていること、ってことだよね。」

「人拐いってことかい? しかも………そしたら、人拐いの中に『心臓』を移植するようなやつがいるってことになるじゃないか。」

 ラタは続けられた言葉に心底嫌そうにしながら、上半身を少しだけ後ろに退かせた。

 スクルトも顔を僅かに歪ませ、眉間に皺を寄せていた。

「………だとしたら、………ちょっと、僕たちが考えるよりも大きなことが後ろにあることになっちゃうけど……」

 四人の間に、重い沈黙が流れる。

 ここまで彼らが話しているのはその殆どが『妄想』や『想像』の域を出ていないのだが、そのような想定をしてしまえるほど、それぞれが言いようのない『違和感』を抱えていた。

 その違和感が何を指し、自分が何を疑っているのかまでを彼らは追いかけることはしてこなかった。

 ここに来て、彼らは思ってもとうに捨てたはずの無知故に来る無数の小さな疑問に追われていた。

 トスク、ラタ、スクルトは、『視る者』であるクリスを見つめる。

 彼の『眼』は、彼らの求める『真実』に触れてしまうかもしれなかったからだ。

 もしも、その『真実』が、その一欠でも彼の身を滅ぼす物になりうるとしたら、彼はどうなってしまうのか。

 想像が杞憂であって欲しいと思う反面、彼らが過ごしてきた中で持ち合わせた違和感がその思いに攻撃を仕掛けてきている。

 この四人の中で唯一成人から数年が過ぎたスクルトですら、その想像の先を見ることを憚りたくなった。

「………大丈夫なのか? この話。」

「…………………」

 絞り出すように、トスクはクリスに問いかける。

 クリスはトスクたちの顔を見渡し、やがて少しだけ俯きながら、片手を顔に充てがった。

 クリスは目を瞑る。

 その脳裏に、先日のジーニアスの言葉が浮かび上がった。


『世の中というのは思っているよりもずぅーっと複雑ってことだ、……少年。』

『だが、どんな優しい嘘でもいつか暴かれる必要が来るときがある。それを忘れないでやってくれ。』

『君がこれを追おうとするならな。』


 クリスの『眼』は特殊だった。

 人類にとって『ノムレスの心臓』はただの石にしか見えず、眼の前に道端で拾ったものと並べられてしまえば、どちらがそれなのかを見分けることはできない。

 彼だけが、唯一『ノムレスの心臓』を見分けることができる。

 『ノムレスの心臓』が持つ特殊なエネルギー波のようなものが見えるのだ。


 一体誰がそんなクリスの特異な『眼』のことを知ったのか、クリスは『アストサウス警備隊』の人間から直接スカウトを受けたことを思い出す。

 自分でも知らなかった、自分自身の能力を他者から伝えられたときの不可思議さと気味の悪さを彼は未だ拭えていない。


 世の中は、自分が思っているよりも複雑だ。

 もしかしたら、いや、もしかしなくとも、既に複雑さの中に知らずのうちに放り込まれているのだろう。

 クリスは『追う者』にされていた。

 そして、追うために切り捨てなければならないことがいつか来る……それを『観なくてはならない』。

 

 クリスは顔から手を離して、目を開いた。

 

「大丈夫……だと、思う。」

 喉に力を込めて、クリスは言う。

「今回のことは、僕がこの『眼』で見なくちゃいけないことなんだと思うんだ。………じゃなくちゃ、僕がここにいる意味がなくなっちゃうもんね」

「………そっか。」

 トスクは、クリスの目に、彼自身の強さを見た。

「でも、絶対無理はしないでくれよ。僕たちもなるべく今までより細かく見ていくことになるが……」

「行方不明者が何者かに『心臓』持ちにされてて……、それが回収されてるとなると、犯人は慎重になるはず……だね。」

「明らかに一人じゃ無理な規模の話だね。他のみんなにも話して注意を呼びかけたほうがいいんじゃないのか?」

「うん、そのほうがいいね」

 トスク、スクルト、ラタがそれぞれ顔を見合わせながら、意見を述べていく。

 それは三人からの実質的な協力の申し出のようなものだった。

 当たり前のようにクリスのことを考えてくれた三人に、クリスは頭を下げる。

「三人とも……ありがとう。」

「『心臓』関係はクリスがいなきゃ始まらないってのもあるからな。」

 トスクはクリスに対して笑ってみせた。

 しかし、その表情はすぐに曇ることになった。

「………それにしても、どうして『心臓』をこんなふうに扱うんだろうな……?」

 もしも、彼らの妄想が『真実』に触れているのならば、誰がなんのために『心臓』を人に植え付けているのか───トスクは深淵を突くような考えに頭を振った。

 




 一寸先は闇。


 ………とは、よく言ったものだ。

 レンカは明るい廊下の先から暗い部屋の中へと通されようとしていた。

 トポリに促されはしたものの、その一歩を踏み出すにはそれ相応の勇気が要る。

 何故なら、この先を見たら彼女は本当に『戻れなくなる』だろうことが容易に想像できたからだ。

 せめて、扉でもあればもう少し思い切りよく行けただろうに……という思いを、レンカは呼吸とともに抑え込んだ。

 

 ────………一歩。

 レンカの足は大きな重りでもつけられたかと思うほど慎重に、ゆっくりと小さく持ち上がり、やがて歩幅を伴ったそれがレンカを進ませる。

 歩みだしてしまえば、レンカはすべてを捨てきれた。

 そして、変わりに一つだけの感情を無理やり高ぶらせた。

 彼女は一人の女であり人間であり、『研究者』である。

 彼女は自らに学者たれと鞭を振るった。


 この先にあるものを知りたい。


 その好奇心と言える感情を彼女は動物に投げる玩具や餌のように暗闇の中に放り投げて、それを自らで取りに行く。

 ああ、これがもっと、心を満たすほどの好奇であったら、どれだけ楽だっただろうか。

 猫をも殺せるなら、この暗闇が自らを喰らい尽くす鯨の大口であることを望みたい。

 

 しかし、鯨の大口に飲み込まれるものが最後に見るのは、『現実』である。

 それが鯨の内臓であるのか、それともやがて自らを蝕み、訪れる死であるのか。

 それは大口に飛び込んだものしかわからない。

 

「こ……これは!?」

 彼女はその『どちらも』を見てしまった。

 だが、彼女とてあらゆる現実を見てきている。

 今更腰を抜かして座り込むなどはしない。

 絶望を覚えたりもしない。

 だからこそ、彼女は頭の中を駆け巡る『理解』に追いつくことができなかった。

 彼女に培われた経験全てが、彼女に現実を押し付けては流れていく。


 部屋という箱の中にあったものは、そういう代物だった。

 

「うん。どうかなぁ? 博士。」

 トポリが立ち尽くすレンカの下に現れる。

「気に入ってもらえたかな?」

 先に彼はこの光景を見ているからなのだろうか、笑顔のままそう言い放つ彼にレンカは引きそうになったが、爪先に力を入れた。

「………あなた達がやったの?」

「まさか。」

 トポリは首を横に振る。

「博士ったらあんな狂犬病の擬人化みたいな人がそんなことできると思うの?」

 『狂犬病の擬人化』、という言葉の意味はあまり良くわからなかったが、レンカはそれが誰を指しているのかすぐに理解した。

 ………確かに、誰がどう見ても『奴』はそのようなことに興味を向ける者ではないと判断するだろう。

「……あなたは?」

「ごあいにくさま、ボクは宗教上の理由でこの手の勉強はしてないんだ。」

 トポリは何かを払うように手を振って見せた。

「全く頭の硬い国だよね。科学も推奨されない国家なんていまどき弱小なはずなんだけど。」

「………すでにロストされた技術なんて科学とは言わないのよ。」

 あえて彼女は『ロスト』というマイオラ皇国語の文字列を使ったが、トポリは呆けた顔になると、

「あれ? そうなんだ。一つ賢くなったよ。」

 と、返してきた。

「……………。」

 レンカは眉間に皺を寄せる。

 彼の服装は『忠安国』製に見えるが、どうやら複雑な道を辿っている人間だったらしい。

「………あなたがいった通り、確かに私はあなた達が私を狙った理由を理解しているつもりよ。」

 レンカはなるべく、低い声で、抑揚を抑えて言う。

「でも、こんなものを見せられるとは思っていなかったわ。」

「……そう。じゃあ、これはレンカ博士じゃないってことだね。」

 言外に『私ならこんなことはしない。』という意味を込めて言ったその言葉は、どうやらトポリに正しく伝わったようだった。

 レンカは短い息を吐く。

「期待とアテは外れてくれたかしら。」

「それは無理があるんじゃないかな。」

 トポリの即答に、レンカは流石に目を見開いた。

「……どういう意味?」

「いいかい。ボクたちは先人の知恵の上にあぐらを掻くだけの存在なんだよ。」

 トポリは片手の人差し指を立てながら、続ける。

「ありとあらゆる実験と検証の追記がすでにされている状態でスタートするのが今の人生と科学なんだ。………だとしたら、今の研究者が行っているのは実験や検証に値するか? という疑問が残るじゃない?」

 トポリの言葉を要約するならば、『今の研究者は誰かが既に研究をし終わったことをただ資料の通りに模倣しているだけ』だということらしい。

 ………それ自体は間違っていない。

 技術的な面がそうさせるのか、あるいは他の実験や文献から得られたことが先を予測させてしまうのか、ここ数十年は科学者の間に目新しい発見が見られていない。

 先の者が行った『行為』の『模倣』を実験と称せるか。

 レンカにとってもそれは、答えられない質問だった。

「………つまり、あなた達が求めているのはさらなる『追記』。先人の知恵の炙り出しというわけね。」

 要は、レンカに用があるらしい連中は『模倣』の先が知りたいようだ。

 『模倣だけの研究者』という知識人を使って、模倣から新たなものを造ろうとしている。

 レンカはその傲慢とも言える何かに呆れた。

「それなら適任がいくらでもいると思うのだけれど。」

「未来のないものは必要がないってことさ。重要なのは積み重ねってね。」

「………でも、その知恵は必要ということ………。気持ちの悪い思想ね。」

 どうやら、そういうのが好きそうでいくらでも語りそうな『年寄り』はお呼びでないらしい。

 その連中に比べたら、レンカはかなり若い部類に入る。

 いつ迎えが来るかもわからないものを引き入れるよりは、自立した人間を保護して世話をするほうが楽なのだろう。

「考えたのはボクじゃないよ。そういう人がいるってだけさ。」

「理解の範疇を超えるわ。」

 レンカははっきりと切り捨てた。

 自分は確かにやろうと思えば『危ない事』をいくらでもできる。

 それを行なってもいい、というのはその危険性を熟知して、知識を使いこなすことができるからだ。

 その知識を火遊びが好きなだけの人間に渡す方が己の身を滅ぼすことは誰にでも分かることだろう。

「そうまでして危なくても便利なものを残そうとするのは何故? あなた達には十分な知恵があるはずよ。」

「ははっ。博士、本当に研究者?」

 トポリは笑ってみせる。

「そんなの簡単じゃないか。便利なものを捨てられない人なんてこの世界に何百万人もいるよ。それを無くそうとするやつは許されない。それが群れればそういう『意志』なんだ。」

 便利なものが何かを犯すとしても、人はそれを捨てられない。

 火を起こすための方法と、火を付ける道具の使い方のどちらを覚えるかと言われたら、大半が後者だろう。

 レンカにも多少なりとも覚えがあり、一瞬だけ顔を顰めた。

「ボクは無知を罪だとは思わないけど、意志に惑わされてしか自分の意見を主張できない奴は罪だと思うけどね。…………そして、自分にとって余計なことは知る必要のない事だと思っている人たちが最後にはバカを見る。」

 レンカはついに目を逸らした。

 火の起こし方を知らない者は、自分が火を付ける道具を持っていることをひけらかして過信する。

 いざそれが使えなくなった時、己には何もない人間だと気がつく時が来る。

 …………そういうことだろう。

「そうなってもそのバカは反省しないし、何なら作ったやつのせいにして、新しい楽な状態に胡座をかくのさ。」

「知識が必ずしも望む形で未来に受け継がれることはない……結果は作られたものの形に集約され、意志は度外視される……」

 レンカは渋い顔のまま、トポリの言い分に付け加えた。

 『自分が無知なのは、そんな便利なものを作ったやつが悪い』。

 『生活を良くするために作られた、火を付けるための道具が必ずしもそのような用途で使われるかどうかまでは保証されない』。

 だからこそ、それがきっかけで滅んでしまった国も歴史上でいくつも存在している。

 その度に人は『私達は過ちを犯した』と恐怖するのに、百年も経てばその実感は薄れてしまう。

「一部の国が極端に科学を嫌う理由ね」

 レンカは目を瞑る。

 そして、呟くように続けた。

「でも、大衆がその利便性を捨てられないなら……それを理由として技術は残り続ける……」

「そして、それをどう使うかを伝授するには博士のような『知識人』が求められる。……………どう? すごく合理的だと思わない?」

「………………………」

 レンカは目を閉じたまま、動かなかった。

 トポリはそれを見て、彼女に迷いが生まれたことを何となく察した。

 まぁ、そうか。

 自分でも『こんなもの』を見せられたら、そうなるだろう。

「博士。」

 トポリの呼びかけに、レンカが目を開く。

「はっきり言うけど、博士に選択権は二つしかないよ。………『あれ』、いくら狂犬病で弱い生物に興味がなくても、妙な合理は通すんだ。」

 レンカは、自分の命が自分のものでないことを思い出す。

「死にたくないなら、『あれ』がしびれを切らす前に決めてほしいな。」

 『罪』か、『死』か。

 その二つしか、彼女には選ぶ道がないようだ。

 彼女に闘う力があったとして、『あれ』に勝つ事ができるか、あるいは生き残ることができるかすら怪しいのだから。

「『博士を生かしておけば、より強いやつに会える』って名目で止めてあげてるんだからさ。」

「………………」

 レンカは息を吐く。

 『研究者は、綱渡りで泥臭く、しぶとく生き残るほうがそれらしい』。

 彼女は、己の師の言葉を心の中で思い出す。

「……くわしい目的を一言で教えて。それで考えるわ。」

 彼女は、自らの道の一つを断った。

「人生の最後になるかもしれない選択くらいさせてくれるでしょう?」

 彼女の言葉に、トポリの口角がゆっくりと上がった。

「そうこなくっちゃ♪」

 

 ………彼らのやり取りを、培養液の中の『ノムレスの心臓のなりかけ』が見つめていた。



(続く)

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