時計の病心編 第2話


「それで、何かフマンでもあるんですかねぇ?」

 イーハイは向かい側のソファーに座る人物を見ていた。


 彼は膝の近くに片肘をつき、手を顎に当てて前屈みになるという、『客』として招かれておきながらお世辞にもあまり行儀のよろしくない姿勢で、褐色肌の青年とローテーブル越しに対峙している。


 褐色肌の青年、ルッツ=トゥループはそんな彼の態度を知ってか知らずか、自身の手に持った拳大の石───『ノムレスの心臓』を観察していた。

 ルッツは『ノムレスの心臓』を手の中でくるくると回し、様々な方向から見て───ある個所に、文字が書かれているのを見つける。

 そこには、『B133526』と書かれていた。

 彼はそれをじっと見つめた後、口元に柔らかな笑みを浮かべてイーハイの方を向いた。

「……いいえ。特にありません。お疲れさまでした。」

「…………。」

 イーハイはルッツの傍から見れば人のよさそうに見える笑顔に、半ば白い目とも言えるような目を向けた。

 イーハイの経験上、この男の腹の中がどうなっているかということを探るのは難しいと結論づけているのもあって、ルッツの浮かべる微笑みの裏を暴いてやろうという気を起こしたことはないのだが。

 どうしてもこの男に何か薄ら暗いものを感じざるを得ず、イーハイはどこか硬い表情のまま、ルッツを見つめていた。

 そんなイーハイの心情もおそらく目の前の男は察しているだろうに、その態度は一切変わることはなかった。

 これを、どこかの国だと『ポーカーフェイス』と称するんだったか……? と、イーハイはどうでも良いことを考えた。

 結局、たった少しの間にもかかわらず謎の沈黙に耐えられなくなったイーハイは、何となく───本当に何となくの思い付きで、相手が絶対に答えなさそうな質問を考えて、口を開いた。

 ………その沈黙の時間ですら相手の思惑かもしれない、という疑念を拭えないままに。

「ねえ、ルッツ殿。……それ、どうするんですか?」

「どう……とは?」

 何だか辿々しいイーハイの敬語に対して、ルッツは傍から見たら何も知らない人のような表情で小首を傾げた。

 イーハイは「素っ惚け」とでも言いたくなるような質問を返してきたルッツに辟易しそうになりながら、ささやかな抵抗をするために敢えて相手の言葉を待った。

 イーハイからの返答がないことを気にしているのかいないのか、ルッツは意味深に目を細めると、

「『これ』の件に関しては、貴方が処理をされたのでは?」

 と、『ノムレスの心臓』をイーハイに見せながら言う。

 イーハイは『心臓』とルッツを交互に見て、尖りそうになる口角を抑え込んだ。

「………まぁ、はい。」

「なら、それで結構ですよ」

 イーハイはルッツの返しで、これ以上何か言うのは止そう、という気持ちになった。

 『どこまで把握されているのか』、分からなかったからだった。

「……あ、そ。」

 イーハイが素っ気のない返事をしても、ルッツの表情は変わらない───はずだったが、ルッツは視線のみを明後日の方向に向け、少し気を抜いたような口調で小さく呟いた。

「残りは我々の仕事ですから……。あとは、あちらさえ上手く行けば良いのですけど……。」

「アチラ……?」

 イーハイが思わず聞き返すと、ルッツは再びイーハイの方へ視線を戻し───口角を緩く上げ、微笑んだ。

 今のは恐らく、『わざと』だ。

 イーハイは、自分の背筋が凍りつき、重く伸し掛かったように思った。





 そこは、施設だったはずの場所。

 白衣の女がいた。

 女は壁に背を預け、片手の平をつけながら、眼の前に広がる現状を再認識するしかなく、引き攣りそうになる喉と震える唇を心の中で叱咤する。

 靴の裏の感触を思い出す。

 『踏んではならないものを踏んだ』、その感触が女の足の裏側から足首に這い上がり、脳を目指してこようとする。

 少しでも気を抜けば、女は身体の機能を失ってしまうかもしれない。

 ───それは、『どの意味』で?

 何が書いてあったのかもはやわからないほどに、いや、そもそもそのような色の紙だったかと思いたくなるほどに、『赤く濡れた無数の紙』が床の上で寝こけているのだ。

 私もそうなるのかもしれない。女は、足を踏み鳴らしたいのを堪えた。

 そこまでになって、女はついに頭に怒りが登ってくるのを感じ取った。

 なにか言ってやらないと気が済まない。

 その衝動が無謀極まりないとして、やらなければならないと感じるのはなぜだろうか。

 自分の性格だろうか。それとも、女という性を持ったものが本能的に持っているらしいものだろうか。

 どちらにせよ、女は自分の中の小心が消え去り、何だか分からない闘志になった、ということだけを事実として捉えた。

 彼女は、見る。

 恐怖に培わられた怒りを込めた視線を、その『背』に投げつけてやる。

「………厄介者とは聴いていたけど、想像するよりもとんでもなかったみたいね」

 女は自分の声色に驚きそうになった。若干震えてはいたが、思うよりもずっと低い声が自らの口から漏れたからだった。

 その驚きは、「言ってやった」という気持ちで上塗りした。

 ───だが、彼女の言葉は独り言になった。

 独り言にならざるを得なかった。

「……あー、つまらねぇ。」

 彼女が見る『背』は、振り返りもしないで独り言を言った。

 女の、壁を触る手に力が籠もり、痺れを伝わらせた。

 手が震えるのは、緊張か、───畏怖か。

 風切り音が、赤の塊を床に散らす。

「ホントーにつまらねぇ。」

 もう一度、不満げな独り言が部屋の中を木霊する。

 本当に音が反響しているわけでもない。

 それなのに、金属製の楽器でも近場で鳴らされた衝撃を食らったかのように、女の身体がその言葉の音に震えた。

 女の爪先に力が入る。

「……………話が通じる相手なのかしら、あなた。」

 今度は、女は独り言のつもりで言ったはずだった。

 だが───、すぐにそれを後悔することになった。

 蛇に睨まれた蛙、なんていう言葉がマイオラ皇国にあるという話だが、女はできるものならその言葉を嘲笑してやりたい気分に駆られた。

 女に向けられたものは、蛇のそれよりももっと大きな、飢えて牙を剥き出しにした『獣』のもの……と形容できるもの。

 自分の存在は蛙という生物よりも小さく、脆い気さえする。

「………あァ?」

 聞きようによっては間抜けにも聞こえるその一音だけが、女には『獣』の唸り声と同じものに聞こえた。

 女の命の全てを左右する声だ。

 こんなことなら、もう少し日頃の行いを良くして生きてもよかったかもしれない。

 女は一人、誰に言うでもなく反省しながら……身体が空白になったように感じて、目を閉じる。

 ────が、すぐに開かれることになった。

「ちょっと、ちょっとー。隊長ってばさ、目的を忘れないで欲しいなぁ。」

「………!?」

 この場に似つかわしくない、調子の良い高めの声が聞こえてきたからだった。

 女が目を見開いて声のした方を見れば、自分よりも頭一つ分は小さいだろう背丈の人物が、『獣』の後ろから顔をのぞかせていた。

「……こ…子供…?! 何処から……」

 女には新たにこの場に現れた人物が、どう見積もっても子供にしか見えなかった。

 だからそのように言ったのだが、その子供にしか見えない人物は不満だったらしい。

 眉間にシワを寄せて、ちょっと不機嫌そうな顔をしながら、「えーっ?」と唇を尖らせてみせた。

「子供とは失礼な。年はお姉さんほどではないけど、成人してるよ?」

 女は口を噤むと、成人していると言い放った人物の出で立ちを見た。

 彼の登場により、少し場が落ち着いたように感じたからというのと、彼の口ぶりからすると命の保証はされているらしいので───女は考える余裕を取り戻していた。

 女はある一つの小さな記憶に手が触れたのを感じる。

 それを皮切りに、女の頭の中でいくつかの映像が流れた。

 それはいくつかのパズルのピースのようで、女は少ないながらそれを慎重に組み合わせる。

 『背が低く』、『子供のような見た目』をした───『獣』の従者。

 そんな存在がいると、女は同僚だった者たちから聞いていた。

 そう、確か名前は………。

「………あなた、トポリ=トトホリね……」

「あれ? よく知ってるじゃない。」

「良くも悪くも……だけど。」

 子供のような見た目をした青年───トポリ=トトホリは自分の名前を言い当てた女に気の抜けた表情を見せたが、徐々にその顔を綻ばせ、無邪気な笑みを張り付けた。

「はぁ〜、なら話が早そうだ。………そう思えば、ボクらが有名なのも偶には悪くないかもね。」

 いたずらを思いついた子供のような仕草で、トポリは『獣』の様子を伺いながらそう言った。

 床に散らばる無数の紙を一瞥して───彼はもう一度、女の方を向いて、笑う。

「じゃ、ボクらがここに来た理由も察しがついてるわけだ。」

「…………」

 女は、その男の目に見た目にそぐわない色を見た。

 無邪気な子供のような青年は、怪しく笑い、女の方に片手を伸ばした。

「一緒に来てもらうよぉ? ………レンカ=ベルドリッチ博士。」

「…………」

 白衣の女───レンカ=ベルドリッチの運命は、他者の手に渡ることになった。

 それを見届けた『獣』が、出口となる扉に足を向けた。

「……あ〜あ。めんどくせぇ。」

 『獣』はすべての興味を失ったようだった。

 気だるげに歩いていたかと思えば、近くにあった『物言わぬ物体』をなんの意味もなく両断した『獣』は、その目に何も宿さないまま。

「どっかにいねぇかな───最高に闘えるヤツ。」

 ………赤い足跡を残して、去った。





「そんなもん探してどうするんです?」

 飛んできたのはそんな一刀両断だったので、クリスは思わず目の前の執務机に突っ伏しそうになった。

 現在、クリスはあることを提案しに、ササラギ小隊の詰所の隊長室まで来ていた。

 が、返答が今のそれだった。

 そんなもんなんて言い方はないだろう、とクリスはササラギに対して抗議しようとしたが、そのまま話題を逸らされてしまいそうなので返答に対する言葉だけを選んだ。

「ご親族がいるなら返してあげたいじゃないですか。」

 クリスがササラギに打診しに来た話とは、先日の『ノムレスの心臓』に付いていたという『時計』の話だった。

 どういう経緯で『ノムレスの心臓』が時計を所持していたのかはわからないが、襲われた人間が持っていたものであろうことは伺えて、もしその元の所持者が死んでいるようなら家族に返すべきだと、クリスは考えた。

 そういうわけで、『時計の持ち主の家族を探させてほしい』とクリスはササラギに言いに来たのだが。

「ご家族死んでるんじゃないですか?」

 ササラギは眉間に僅かにシワを寄せ、不謹慎なことをなんの躊躇いもなく言った。

「人の心無いんか、あんたは。」

 クリスは思わず、呆れてそう言った。

 もちろん、ササラギの言いたいことがわからないでもなく、時計の持ち主ごと、その親族が襲われて亡くなっている可能性もあったが、クリスはそれならそれで、と思っていた。

 もう一度食い下がろうとクリスが口を開いた時、隊長室の扉が開いた。

「おーい、ササラギ。洗濯物出しやがれ………って、なんだ? クリスもいたのか。」

 入ってきたのは、副隊長のマッキンリーだった。

 隊の家事全般を担う彼は、どうやら今は洗濯の時間で隊員の洗濯物を集めている最中らしく、手には既に複数の洋服や先日使われたのだろう隊服のいくつかが入った大きめの籠を持っていた。

「あ。マッキンリーさん。おはようございます。」

「ああ。おはよう。………で、何の話をしてたんだ?」

 マッキンリーが執務机の前に備え付けられた談話用のソファーに乱雑に置かれたタオルなどを回収しながら聞いてくる。

 クリスは「ああ、」と、マッキンリーの歩く方向を見ながら、

「昨日の時計の件です。ご家族がいるならお返ししたほうがいいかなって」

 と、答えた。

 マッキンリーの手が止まる。

 彼はゆっくりとクリスを見た。

 クリスの真っ直ぐな視線が、マッキンリーの視線と交わった。

「ああ……。『心臓』持ちの……。」

 マッキンリーは静かにそう言った。

 クリスは様子が少し変わったマッキンリーを不思議に思って、少し喉が詰まった感覚を覚えたが、ゆっくりと自分の口を開いた。

「なので、身元を調べたいんですけど……」

「…………………。」

 返答はなかった。

 マッキンリーはクリスから視線を逸らすと、何事かを思案するように地面を見る。

 クリスは返答を待つものの、マッキンリーが一向に顔を上げないことを不安に思い始めた。

 そのうちに、マッキンリーの眉間に徐々に皺が寄り始めたのがクリスには見えた。

「………………? マッキンリーさん………?」

 小さく、クリスはマッキンリーの名を呼んだが、マッキンリーは顔を上げなかった。

 何も聞こえていないらしい彼のその姿は、世界の全てから切り離されてしまったかのように感じて、クリスがもう一度マッキンリーを呼ぼうとした時だった。

 

「マッキンリー」

「………へ?」


 静かだが、確かな声がマッキンリーの名を呼んだ。

 びくり、とマッキンリーの体が震え、弾かれたようにクリスと声の主の方を見る。

 声の主は、ササラギであった。

 マッキンリーは呼んでおいて突然身支度を整え始めたササラギに面食らったが、それをこの人を相手に気にしていても仕方がないと思い、

「あ、……ああ。何だ?」

 と、普通に返事をした。

「その件はあなたに任せますんで、どうにかしておいてください」

「…………は?」

 マッキンリーが聞き返すのを無視して、ササラギは隊服を整え終わると椅子から立ち上がり、出口の方に向かっていく。

「どうにかって……おい、どこ行くんだ?」

「イーハイくんに『処理』を任せたのを忘れて委任状を書いていませんでした。洗濯のついでについでに出しておいてくださいね」

 ササラギは笑顔でそれだけ言うと、唖然とする二人を置いて扉を開け、そのまま出ていってしまった。

 バタン、と音を立てて扉が閉まった瞬間に正気に戻ったマッキンリーは急いで扉に向かったが。

「…………ってちょっと待てぇッ!? なんで俺が代筆すんだよ?!」

 彼が扉を開けて、廊下を見回したときには既にササラギの姿はなかった。

「しかももういねぇし!?」

「清々しく押し付けられましたね」

 クリスが同情すると、マッキンリーは「しかたねぇ隊長だな……」と呟き、

「…………まぁ、いつものことだがな……。」

 と、続けながらドアノブから手を離した。

「………で、クリス。さっき、あいつはイーハイに処理を頼んだって言ってたな。」

 マッキンリーの問いかけに、クリスは頷いた。

「はい。イーハイさんがあの時計を投げてよこしたんです」

「なるほどな。それで『委任状』か。」

 納得したようにマッキンリーは頷いたが、クリスは言葉の意味がわからず、首を傾げた。

「………えっと?」

「どんな事件でも、死体とかが発見された場合の話なんだが、最後にそれを請け負ったやつが後々の面倒を見ることになってるんだ。だから、今のところはイーハイのやつに身元や素性を調べる権限が移ってる。」

 どうやら、あの場をイーハイに任せて撤退したことになる為に、記録上はイーハイがあの場の状況を管理、報告することになるらしい。

「え、じゃあ僕たちには調べる権限がないんですか?」

「そうだ。今のところはな。」

「ただ、その事件の発見者で、処理を別の人間に任せたという証明があれば俺たちにも捜査権限が降りるんだよ」

 マッキンリーの話では、本来ならばその場で現場の委任が必要になるのだが、わざわざ書類を持ち出してその場で書くというのは難しい上に命のリスクが高いということで、委任状は後日の提出でも良くなっているらしい。

 しかし、その代わりに現場を委任した場合は、不正申告を避けるために委任者と最終報告者の名と印がある書面がないと委任者には捜査や報告の権限が無い状態になる、という話だった。

 クリスはそれを聞いて、一つだけ思い至ることがあった。

「ってことは……委任状にイーハイさんの署名をもらう必要が出てくるんじゃ……」

 クリスがそう言うと、マッキンリーは苦笑した。

「………あいつなりの捜査許可だと思っておこう。」

「………!」

 クリスの表情が明るいものへ変わっていくのを、マッキンリーは見守る。

「とりあえず、今日はそろそろ他の班が戻る頃だ。全員戻るまでには書類を作っておくから、クリスは外出の準備をしておいてくれ」

「……ありがとうございます!」

 マッキンリーの指示にクリスは勢いよく礼をして、それから隊長室を出ていった。

 一人残されたマッキンリー。

 彼はクリスの足音が完全に遠くなった時、主人のいなくなった執務机を見た。

「……………ササラギ………」

 出会った頃から変わらない、『どうしようもない奴で、何も語らない』男の姿を思い出す。

 ササラギ小隊が結成された日からの、腐れ縁。

 その中で培った『慣れ』は、マッキンリーを一つの考えに至らしめる。

「あいつ、また何か隠してやがるな……」

 ササラギの飲みかけのエナジードリンクが、マッキンリーにはすべてを物語っているように見えた。





「よう、少年。そんなに急いでどこに行くのかね?」

 クリスは外出準備のためにササラギ小隊の寮に走って向かっていた。

 その途中、後ろから声をかけられ、その足を止める。

 声がした方を向けば、一人の───壮年と言うには老け込んだ顔の技師の男が一人、そこに立っていた。

「ジーニアスさん?」

「おう。昨日はお疲れ様だな。」

 ジーニアスであった。

 彼は片手を上げ、クリスに向かって振ってみせる。

「して、何をそんなに急いでいるのかね? たしか君は戻ってきたばかりで休みだったはずだが?」

「あ、実は……」

 クリスは自分が急いでいた理由をジーニアスに簡潔に説明した。

 ジーニアスは「なるほどなぁ…」と呟き、

「時計の持ち主の身元調査ねぇ……」

 と、腕を組んで考えた。

「その持ち主ってぇのは、昨今話題の行方不明者リストの中にはいなかったのかね? 死体は見たんだろう? 『心臓』の。」

 ジーニアスの問いにクリスは首を横に振ってみせた。

 死体は『視た』。それだけだった。

 ジーニアスとしては、『時計の持ち主本人』が『ノムレスの心臓』の侵食を受けた可能性のことも考えた方がいい、ということを言いたいのだろうが、クリスは先日の『ノムレスの心臓』の顔を思い出す。

 目や口、鼻の形といった、人相の判別に必要な部分は殆どなかった。

 背格好も、人のそれからもはや外れかけていた。

 それはすでに『心臓』の侵食を多大に受けている、というふうに考える他なく、クリスは静かに言う。

「………『心臓』の侵食が激しくて、元の形がどうだったか分からない状態だったんです」

 クリスの顔が曇る。

「昨日、リストを漁ってたんですけど……あんまりピンとくる顔の人がいなくて。」

「それじゃあ、仮にイーハイのヤロウに委任状を貰って、死体をじぃ〜っくり見れるよーになったところでどうにもならん気がするんだが?」

「……あ。」

 クリスはそこは完全に失念していた。

 そもそも『ノムレスの心臓』となってしまった人が時計の持ち主本人であれ、そうでない人であれ、それを判断する要素が存在していない。

 それでも委任状さえどうにかなれば『時計の持ち主の家族の捜査』はできるだろうが、闇雲に当たるようなものになることは必然で。

 「そんなもん、一人でやるってのかい?」とでも言いたげなジーニアスの視線にクリスは縮こまるしかなかった。

 委任状に署名を貰う相手である、あのイーハイなら手伝ってくれるかもしれないが、それだっていくらイーハイが気さくな人間でもクリスにとっては上官なので、頼める立場ではない。

 マッキンリーも進言自体は可能だろうが、自分の上官ではないので効力はとても薄いだろう。

 仮にイーハイが了承しても、何かしらの協力捜査のための手続きを踏まなければならなくなる。

 隊の仲間たちを動かすのだって、クリスのお願いを聞いてくれはするだろう人たちだが、上官等の命令もなく勝手に動けば違反になってしまう。

 そうなったら、クリスには何もできないのだ。

「少年よ、さては舞い上がっておったな?」

 クリスは更に縮こまるしかなかった。

 ……が、途中でクリスの頭に疑問が浮かび上がった。

「………じゃあ、イーハイさんはどうして時計を寄こしたんでしょうか……」

 イーハイは、わざわざ時計をこちらに投げて寄越した。

 イーハイに捜査や後処理の権限が移るなら、権限を無くす自分たちに『時計を渡す』行為はおかしいだろう。

 身元を示す手がかりの一つであるはずのそれを、何故。

「時に少年」

「え?」

 ジーニアスの声色が変わったのに驚いて、クリスは下がり気味になっていた顔を上げた。

 普段、飄々とした態度でいることの多いジーニアスが、堂々とした表情で、クリスを見つめていた。

 クリスの背が反射的に伸びて、ジーニアスの言葉を待つ。

「………直面したくない事実に立ち向かわなければならない時、君ならば……どうする?」

「え………。」

 クリスは予想外の言葉が飛んできて、戸惑った。

 直面したくない事実。どういうことだろうか。

 自分ならどうするかを聞かれているはずなのに、クリスはこの質問がクリス自身のことを指しているわけではない気がして、返答に詰まった。

「………どういうことですか?」

 返答の代わりに出てきたのは、それだった。

 ジーニアスはそれを聞いて少しだけ表情を和らげると、続けた。

「世の中というのは思っているよりもずぅーっと複雑ってことだ、……少年。」

 クリスはそれを口にしたジーニアスの目に、何かが浮かんだのを見た。

 その瞳に浮かぶものはあまりにも深すぎて、クリスにはそれが何なのかを理解することはおろか、読み取ることさえ難しすぎた。

「………だが、どんな優しい嘘でもいつか暴かれる必要が来るときがある。それを忘れないでやってくれ。君がこれを追おうとするならな。」

「………………」

 クリスは変わらず言葉の意味を捉え難く感じたが、ジーニアスがクリスに対して苦言を呈しているわけでも、意地悪をして遠い言葉をわざと言っているわけでもない、ということは感じ取った。

 この人は『僕を守ろうとして』、こんなふうに言っている。

 それを、なんとか伝えられる範囲で、ジーニアスは自分に言葉をぶつけたのかもしれない。

「よく分からないですけど、」

 クリスは慎重に、言葉を選ぶ。

「僕がやろうとしていることは誰かを傷つけること……かもしれないってことですか?」

 クリスの言葉に、ジーニアスは喉の奥で笑ってみせる。

「どうだろうなぁ。他人のことなんぞ儂にはさぁ〜っぱり分からんよ。……だが、誰かが見たものは変えられんのだよ。」

 ジーニアスは、遠くを見た。

「………………ジーニアスさん……?」

「ま、儂が今痛いのはどっちかといえば懐の方だがなぁ〜!」

 彼は盛大に戯けて、そう言った。

 懐が痛い、というのは例の『ヒールタカマツ社』への補填として送られた、ジーニアスの家からササラギ小隊への資金として送られるはずだったもののことだろう。

 話題の転換のしかたが急で、ジーニアスが空気を戻そうとしているのがすぐに分かったクリスは、『それ以上を追求するな』という意味に受け取った。

「それ、言ってて悲しくなりませんか……?」

「ぶっちゃけ、処理は悲しくなるほど大変だった」

 二人は笑いあった。

「さて、先人の戯れであまり若人を引き止めるのは良くないな。」

 ジーニアスはクリスの頭に手を置く。

「……程々にな、クリス少年。」

「えと……………」

 優しい笑みを向けられ、クリスは少し戸惑いながら、

「ありがとうございます」

と、返事をした。

 ゆっくりとジーニアスの手が頭から離れていく。

「それじゃ……また後で!」

「おう、また後で」

 ジーニアスは自分に向かって手を振りながら走っていく彼を、自分も手を振って見送り、クリスが前を向いて走り出した時、その顔から笑みが消えた。

「『ノムレス』……その名はもはや呪いみたいなものだな」

 ジーニアス=ダノ=ストレイズは独り、呟く。

「………儂は背を押したぞ?」

 クリスが去った方向とは別の、ある方向に視線をやりながら、それを睨みつけるように見た。

「『未来あるべき者たち』の為に、な……」

 その言葉を、木の陰から何者かが聞いていた。





「おかえりなさいませ」

 メイド姿の女性が、夜になってから帰ってきた己の上司に向かって頭を下げた。

 上司の男は……ようやく息をつく。 

「うん、ただいま」

 メイドは男の顔を見た。

 男───イーハイ=トーヴは、何とも言えない顔をしていた。

 メイドはその顔について考えた。

 もしこの男が『乱れきった趣味』を致してきた時、その『相手』とやらとの『運動』の内容が不満だったみたいな話であれば、こんな顔はしないだろう。

 かといって、何処かで何か本当に運動でもしてきて疲れている、というわけではなさそうだった。

 なぜ、私はそんな心配をしなければいけないのか。

 メイドは少し苛立っていた。

 このイーハイという男は、上司の立場に向いていないんじゃないかという気を薄々感じている。

 何故ならこの男、本当に大事なことをするときに部下を頼ることを全くしないからだ。

「………そのお顔、……あまりよろしく無さそうですね」

「うん、まぁ……ね。」

 少し語気を強めて言ってみたものの、イーハイは本当に疲れているのか、メイドの意思を汲み取れなかった。

 メイドはそれにも、少し苛立ちを覚える。

「………気になることがあるんですね」

「…………うん」

 ほら。絶対に内容を言おうとしない。

 頷くクセに、なんてやつ。

 メイドは次の言葉を紡げなかった。

「ねぇ、ナギサちゃん」

「はい」

 メイド───ナギサ=ラムカーンは苛立ちの対象に冷静に応えてみせる。

 何も頼ろうとしてくれない上司の頬を叩いてやりそうになりながら。

「もしも願いが叶うなら、………どんなことでもやり遂げられたりする?」

「…………唐突な質問ですね」

「………うん、そうだね」

 ナギサは思い出す。

 イーハイに初めて会った日のことを。

「…………答えるとしたら」

 ナギサは思い出す。

 二度とないだろう、あの瞬間を。

「私なら、『そんな都合のいいものは最初からない』」

 ナギサは思い出す。

 あの瞬間を齎したものは奇跡だと信じない、と決めたことを。

「───と、切り捨てます」

 ナギサはそう言い切った。

 イーハイも、彼女と出会った頃のことを思い出した。

 この子は、その時も同じ目をしていた。

 真っ直ぐで、諦めの悪くて、強い目を。

「………うん。ナギサちゃんらしいや」

「………そうですか」

 イーハイは窓の外を見る。

「……………祈りも呪いも、誰かの願いだって……キミは言ってたね」

 『誰かに幸せになってほしい、誰かに不幸になって欲しいっていうのは、ただの願いだから』。

 イーハイは彼女に最初に言われたことを思い出す。

「……そう遠くない未来に、誰かの『願い』が成就する日がくる」

 ナギサには、その誰かについては察することはできなかった。

 だが、一つわかることがあった。

 それは、今自分達に降りかかるかもしれないことが「祈り」であるのか、「呪い」であるのか定かではない……ということだ。

 どちらに転ぶかによって、全てが変わるのだろう。

 イーハイは窓の外に見える月を見た。

 『願いは、奇跡で叶えられるものではない』。

「その時の為に、オレたちもやれることをしよう。積み重ねられた、夢みたいな物語が始まる日まで」

 それは一つの、彼なりの宣戦布告であるのだと、ナギサは理解した。



(続く)

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