神様と生贄
近づいてきたわたしたちに、その人影は気がついたらしい。こちらの方を振り返ったかと思うとぎょっとしたように体をそらしたかと思えば、這うようにしてその場を逃げ出そうとした。
「待って!」
わたしが言うと、人影の動きが止まった。闇の中から、人影が息の詰まるような視線を投げかけてくる。
「あなたは、ここに住んでいるの……」
そのような問いかけをしたのは、ここに来たのが偶然のようには感じられなかったから。
なんというか、風に導かれたような気がしたのだ。……もちろん、そんなはずはない。目の前にいるのは人に違いないのだから。
わたしは言葉を待った。向こうにいる誰かが、逃げ出すというのなら、今度こそ呼び止めるつもりはなかった。
「ちがいます」
果たして、人影は声を発した。もぞもぞと動いたかと思うと、神社の床下から影が表へと出てくる。木漏れ日に照らされ現れたのは少年だった。
パーカーとジーパンにスニーカー姿だったけれども、そのどれもが泥にまみれ、いたるところが破れていた。
「ひどい姿……」
「君、遭難でもしたのかい?」
「ぼくは……逃げてるんです」
「逃げてる? いったい誰からこんな山の中を」
少年が一点を指した。神社とは真逆の方向、山の輪郭へと向けられたその指先が向く方角にあるのは、一夜をともにした観測所だ。
「あそこにいる白戸という男からです」
少年の口から思いがけない名前に、わたしは驚いた。隣のあまねも、眉を上げていた。
「なに……? その話詳しく教えてくれ」
あまねが一歩前に出ると、少年は怯えたように一歩後ずさった。
「ど、どうしてですか」
「私たちはどうやら奇妙な縁があるらしい。……その白戸とは私も会った」
「え……も、もしかして僕を」
「それは違います。わたしたちは、あそこの湖に興味があっただけで」
少年はわたしとあまねのことを交互に見る。白戸さんとの接点を疑われているらしかった。
わたしがあまねの表情を窺うと、あまねはまっすぐに少年のことを見つめていた。
「あー、私は探偵だ」
「いきなり何言っているのですか」
「助手くん、黙って」いつになく真剣な顔であまねが続ける。「探偵であるからには約束はたがえない。君のことは白戸には絶対教えないと約束しよう」
「それを信じろっていうんですか」
「そういうことだな。だが安心しろ、私はいくつもの難事件を解決した名探偵だ」
「迷探偵の間違いでは」
「ばっか、そんなわけあるかっ! 少年、助手くんの言葉に耳を傾ける必要なんて全くないからな!」
「変わった人たちですね」
先ほどまで暗かったその表情にはじめて、明るいものが浮かんだ。
「ほれ見ろ! 助手くんも変わってるだとよ」
「それであまねがいいのでしたら、別にいいのですけども。あ、名前は?」
「な、ナギです」
「ナギくんね、よろしく」
わたしは手を差しだした。その手をナギくんは掴もうとして、その直前に、ばっとひっこめた。わたしの手に何かあるかのように――あるいは、自分の手に何かがあるかのように。
「えっと、こっちで話します。白戸との関係について」
ごまかすようにナギくんは言うのだった。
⭐︎⭐︎⭐︎
わたしたちは神社の本殿前に並んで座る。本来なら神聖なところで何をやっているのだと神主がやってくるところだけれども、ここにはわたしたち三人以外誰もいない。
もしかしたら、神様だってとっくの昔に愛想をつかして去ってしまっているのかも。
そんな静かな境内で、おずおずと少年は口を開く。
「白戸とは湖で出会って……」
「ちょっと待って」話が始まって早々、あまねが話の腰を折った。「そもそもどうして君はこんなところに来たんだ?」
あまねが自分のことは棚に上げて、訊ねた。
「それは、母がこの村の出身で」
「あれ、雑誌によれば」
「うん、私も思った。月刊モーって雑誌があったんだが、もしかして湖になった際、唯一生き残った人というのはもしや」
「その雑誌のことは知りませんけど、たぶん、母のことだと思います」
ナギの目が遠くを見つめる。それは、ここにはいない誰かへ向けられた視線。
「答えにくいなら言わなくてもいいのだけれど、お母様は」
「数週間前に亡くなって、それでその時に、天雲村生まれであることと――村の人たちを殺したのは自分だと、最期に」
「殺した?」
わたしは幹の隙間から顔をのぞかせる湖を見た。あれは自然現象ではなかったのか。
「それはどういう意味だ……?」
「母が言うには、神様に願ってしまったから、らしいです」
ナギが、神社を見上げる。今にも崩れ落ちてしまいそうな神社は、小さくとも立派な造りをしていた名残が残っている。村の人たちによって建てられたものだったのだろうか。
「君のお母さんは、巫女だったり?」
「巫女とは言ってませんでした。ただ、生贄だと」
「生贄」
「そんな非科学的なことが」
「神学的なことはさておくとして、生贄か。生贄といっても本当に殺されていたわけではないだろう。そうでなければ、彼はここにはいない」
「じゃあどんな生贄だっていうのですか」
わたしの語気はいささか強くなっていたに違いない。神様を信じていないというのはどこかで言ったような気がする。
神様のために供物を捧げるだなんて、わたしからすれば信じられなかった。ヒトが生贄と捧げられるだなんて、断じて許されることではない。
「さあね。最初は君が危惧してるように人が捧げられていたかもしれないよ。でも、村が亡くなる直前そうだったわけではないのは確かだ」
「どういうことです」
「儀式は形を変えたってこと。生贄という名前だけ残ったが、儀式で捧げものはやらなくなったとかじゃないだろうか。あくまで憶測にすぎないよ。生きている人に聞けたら一番なのだが」
わたしとあまねは揃ってナギくんの方を見る。
「ぼ、僕は母から聞かされたこと以外何も知らなくて。っていうか、ここに湖があるってことも、母の言葉で知ったくらいなんです」
「そうか。それは残念だ」
あまり残念そうにみえない口調であまねが言う。
「まあ、もうすでに終わったことだからな。それはさておき、どうして君はあの男から逃げることになったのだ?」
「あの人は、僕のことを神様とかなんとか言って……」
「神様? 神様ってーと比喩的表現ではなく、神社で奉られているような?」
「はい……まさしくここにいたという神様と僕を間違えているらしくて」
「どこからどう見ても人だけれど。自称探偵のあまねはどう見えているの」
「いや私から見ても、人だな。化け物が成りすましているようでもさなそうだが、皮をかぶっていたらわからんな」
「皮を被るって?」
「そういう特殊な嗜好があるのだ。この前の真実の光があればなー」
「あれ、嘘っぱちだったじゃないですか」
「そういうことにしておこう。それよりも、あの男、神様を信仰するような人間とは思えなかったが」
無精ひげでしわくちゃの白衣を身にまとった白戸さんは、研究者のテンプレートみたいな人だった。
そんな人が神を信仰しているというのは確かに意外だ。むしろ、研究者という存在は神様を否定する立場にいるとばかり。
「君は一体何という神に誤認されているのだ」
「風の神、らしいです」
ナギが言うと、ぴゅうーっとまるで待っていたかのように風が吹いた。優しいそよ風に、周囲の木々が歓喜に震えるように葉を揺すぶる。
「風の神か。なるほど」
「何がなるほどなの」
「いやね、風を吹かせる神様っていうのは日本書紀に存在してるんだよ、シツナヒコって。ほら、学校で元寇って習っただろ。あの時、二度神風が吹いたが、シツナヒコが起こしたとか起こしていないとか言われてるんだ」
「この子が、その神様だと?」
あまねは肩をすくめた。
「別に私はそう思っちゃいないが、白戸はそう思ってるんだろうね。なるほど、今朝、車がなかったのはここにいるナギ君のことを探していたからか」
「困ります! 僕は、神様とかそんな大それたものじゃないのに」
「誰だってそうだ。君は、あの男の目的を聞いているか?」
「知りません。それに、言ってることがまったく分からなかったんです。神様を呼び出す呪文を使って、君がやってきた。君がイタクなんだって」
沈黙が辺りに訪れた。先ほどまで吹いていた風はなりを潜め、木々は死んでしまったみたいに動かない。
イタクとかいう聞いたこともなければ見たこともない神の名と、ナギくんのことをそのよくわからない神だと思い込んでいる白戸さん。ナギくんからしたらいい迷惑だろう。わたしなら一発殴るだろうな。
「イタクというのはどんな神なのですか?」
「さあ……僕が知ってるのは白戸が言ってたことくらいで。儀式で呼ぶことができて、天候を操る神様……」
しばらく考え込んでいたあまねが、組んでいた腕を解いた。
「いやはや、まさか二回連続で神様関係のことに巻き込まれるとはね」
「なにか憑いているのではないでしょうね」
「肩はすこぶる軽いが……」
「それは幽霊」
「とにかく、ナギ君」
「は、はいっ」
「とにかく、君をここから逃がさなければな。とりあえず、バス停まで行こう」
「た、助けてくれるんですか?」
「そりゃあ、当然だろ。困ってる人を放っておけるわけないじゃん」
「探偵みたいなこと言いますね」
「だから探偵だ!」
弾かれるように立ち上がったあまねは、勢いそのままナギ君に手を差しだした。当の本人は、困惑したように硬直していた。
「ほら行くぞ」
「はい!」
ナギはあまねの手をとって立ち上がった。
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