湖と神社

 遠くに眩いキラメキが無数に見えた。視界がさっと開けたかと思うと、その先に湖はあった。


 山の中の踊り場のように平らな場所に、天雲湖は位置しており、注ぎ込む水の流れはなく、また出ていく水の流れもない。


 湖畔へと近づいていけば、クリアブルーの湖面は、ガラスのように不動だとわかった。時折アメンボが水面をすいーっと滑っていってやっと、それが液体だと認識できるほど。


 背の低い雑草の生えた湖畔を歩くわたしたち以外。生物がいなくなってしまったかのように、湖の近くはひっそりとしている。


 靴を濡らさないように岸辺ぎりぎりから水中を眺めていたあまねが声をあげた。


「あ! 見てみて」


 あまねが指さす先を向けば、ゆらゆら揺らめく水草の向こうに、波打つような瓦の屋根があった。八の字をギリギリ保ってはいたけども、柱は朽ちてしまったらしく海底に屋根の部分が残っているだけだ。もっと深いところには、また別の大きな建物があった。


「本当に水中に建物が……」


 疑っていたわけではなかった。だけども、信じられなかったのだ。水中に村が沈む――そう言ったことがないわけではない。


 でもだ。ここは一晩のうちに水中に沈んだ、それもダムの建設があったわけではなく、ただ雨が降っただけでこうなった。そんなのが真実だなんて、誰が信じられるものか。


「すごいねえ」


「すごいですけれど、なんだか怖いです」


「こんなことが他の場所でも起きるかもしれないから?」


「住んでいるところがこうなったらどうしますか」


「ならないことを祈るばかりだが……なったときは高い所にも逃げるさ」


 あまねが小石を拾い上げ、湖へ放り投げる。静かな湖面にできた波紋は、どこまでも広がっていくかのよう。投げ込まれた石は、あっという間に見えなくなってしまった。


「結構深いですね」


「見た感じ、すり鉢状の形をしてるんじゃないかな」


 わたしは地図を眺める。天雲湖の周りには無数の線がひかれている。等高線というやつだ。湖の三方を取り囲むように伸びるその線の間隔は狭い。


 山の傾斜はきついってことだ。もしかしたら、ここは谷のようになっており、水中もかなり深いかもしれない。


「潜ってみれば何かわかるかもしれないが」


「本気で言ってます?」


 あまねの服装は泳ぐのには適していない。もっといえば、貧相な体つきなのだから、泳ぎが得意そうには見えなかった。


 だというのに、我らが探偵さんは自信満々胸をそらした。


「助手くん、泳いでみたまえ」


「馬鹿言わないでください」


「泳げないのかー?」


「あのですね、泳げはしますけれども、泳ぎに適した格好――水着の持ち合わせはないから泳ぎませんよ。それに淡水で泳ぐことの危険性というのを一度考えた方がいいと思いますね」


「……まさか冷静に返されるとは」


「命がかかってますから」


「あーあ、つまんない。これじゃあなにもわかんないじゃん」


 口を尖らせたあまねが転がっている石を蹴っ飛ばす。その背中を突きとばして、湖中へたたき込みたくなる衝動をこらえる。


「いつもみたいにネットでわからなかったのですか」


「わかんなかったから来たんだよ。いささか古い事件だからねえ、新聞のアーカイブが一部残っていたくらいでさあ。この近くって村とか町がないからさ、見ていた人もいないんだと」


 何が起きたのかを知っているのは、ここに居を構えていた人たちだけ。


 だけども、その人たちは水底に沈んでいる。つまり、事の顛末を知っているのは、このあたりに広がる大自然、山とか木とか風とかくらいということ。


 あるいは、どこにいるともしれない、ただ一人の生き残りのみ。


 その時、びゅうと風が強く吹いた。


 木々が体を揺らし、ざわざわと音を立てる。地面に落ちていた緑の葉が舞い上がり、風に弄ばれるように空を舞う。それを目で追っていたら、対岸に人影を見た気がした。


「ん?」


「どうかした?」


「人が、いた気がしたのですけれど」


 見間違えてしまったのだろうか、まばたきの後には、そこに誰もいない。


「いませんね」


「なんにせよあっちに行ってみようではないか」



⭐︎⭐︎⭐︎



 人がいた対岸に来てみたけれども、やはり見間違えだったのかもしれない。そこには誰もいなかった。


 対岸は、先ほどまでいたところとほとんど変わらない。山の方を見れば、登山道の続きと思われる道が伸びている。


 登山道入り口には、木製の杭のようなものが突き刺さっていた。吹けば倒れそうなそれには、かすれた文字が書かれていた。


「天雲岳と……」


「読みにくいですけれども、神社でしょうか」


「ふうん、神社ねえ」


 あまねは登山道の不安定な石段に足をかける。


「行くのですか?」


 スマホに表示された時計の針は、今まさに十二時を回ったところ。夏とはいえ、暗くなった森を歩きたくはないし、昨日のように雨に打たれたくもない。


 正直なところ、今すぐにでもバスに乗って帰りたかった。


「当然じゃないか。神社は昔からあるのがほとんど、村近くにあるものならなおさらだろう。天雲村のことがなにかわかるかもしれないではないか」


「はあ」


 入口に突っ立っていたわたしの手をあまねは取って、さあ行くぞ、と引っ張り始める。


 意気揚々と登山道を歩き始めたあまねだったけれども、すぐにそのペースがゆっくりとなっていって、そして動きが止まった。


「あの」


 肩で息するあまねに声をかけるけれども、返事はいっこうにやってこない。あまねの黒髪は滝のような汗でしっとりと濡れていた。


 登山道は先ほどまでとは違い、明らかに登っている。階段がちゃんとしていたのは最初だけで、踏み固められた土とそこから顔を出していた岩を足がかりにするほかなかった。気を遣わないと転んでしまうかもしれない。


 運動不足のあまねには重労働だろう。わたしは前に出て、水を差しだす。無言で受け取ったあまねはコクコクと水を飲み始める。


「ゆっくり行きましょう」


 あまねが小さく頷いた。言葉を発する余裕もないらしい。少し休憩して、わたしは歩き始める。ゆっくりと歩き始める。ここまでやってきた手前、せっかくなら、その神社とやらを見てみたいという気持ちはあった。


 あまねのペースに合わせて慎重に歩いていると、分岐点に差し掛かる。上に伸びる道と右にそれる道。分岐の根元に突き刺さった看板によれば、右が神社へ続く道らしい。


 わたしたちは右へと進んでいく。すると、苔むした鳥居が見えてきた。いくつかの鳥居をくぐると、いかにも神社然とした建物が姿を現した。


「ここが……」


 わたしとあまねは揃ったように立ち止まり、建物を見上げる。


 それほど大きくない建物は、木々に隠れるようにして建っているためか、いたるところが変色しコケに浸食されていた。参拝のための鈴も鈴の緒もそこにはありはしない。


 人が来なくなって久しいことは容易に想像できた。それでも、いやだからこそ、あたりは神秘的な空気で満ち満ちていた。


「天雲神社」


「はい?」


「この神社の名前、そこに書かれているだろう」


 本殿正面の鳥居の上には、石でできた看板のようなものが掛けられていた。そこには天雲神社の名が刻み込まれている。


「そのままですね」


「村の名前も山の名からとられているから、何かあるのかもな」


 あまねは本殿の前まで向かうと、二礼二拍手一礼した。わたしも同じことをする。


「あまねも神様に対しては礼を尽くすのですね」


「そりゃあ、誰だってバチはかぶりたくないだろ」


「確かに」


 いるかもわからない神様に一応の挨拶をしたところで、わたしたちは神社の周りを見て回ろうとした。


 そんな矢先、またしても風が吹いた。


 一陣の風は、わたしの体を包み込みくすぐるようにまとわりついたかと思えば、神社の奥の方へと吹いていった。


「な、なんだあ?」


「――あっち」


 わたしは風が吹いていった方を指さした。どうしてそんなことをしたのかはわからない。


 指さした先は神社の床下で、そこにはうずくまる影があった。


 気づかれないように近づく。その影は人だった。

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