湖へ

 翌朝。


 ぴっちり閉じたカーテンを開けると、日の光に照らされた山々が見えた。


 昨夜の土砂降りが嘘かのように雲一つない快晴。飛び込みたくなるようなスカイブルーの空がどこまでも広がっている。


 わたしは、大きく伸びをする。床で眠ったからかひどく体がこわばっていた。睡眠が浅かったか、あくびが口をついて出た。


「起きてください……」


 昨日と同じ格好のまま――わたしもだ――ベッドで眠っているあまねの体を揺すぶる。


「あと三十分だけ……」


「今日、晴れたら外に出ると言っていたではないですか。起きてください」


 ほら、とわたしがシーツを引っ張れば、あまねは大事なもののようにしっかり握りしめて離そうとしない。しばらく綱引きもどきのことをして、ようやくあまねが目を覚ました。


「どうしてすぐ起こしてくれなかったの。もう九時じゃん」


「起こしましたけれども」


「あ、うん、ごめん」


 わたしたちは、軽く身支度をしてから、朝食をとった。朝食自体は勝手に食べていいよ、と言われていたので、乾パンを拝借した。……流石に朝からカップ麺はきついし、それ以外だと乾パンくらいしかなかったのだ。


 乾パンを半分ほど食べて、わたしたちは外へ出ることにする。その際、白戸さんに挨拶でもしようかと研究室をのぞいたのだけども、誰もいなかった。


 外へ出ると、穏やかにそよぐ風がわたしたちを出迎えた。昨夜の雨の名残か、アスファルトの駐車場に水たまりをつくっている。


 そこに白戸さんの車はなかった。車があったであろう場所には、わずかに乾いた部分があった。


「雨がやんでからどこかへ行ったのかな」


「でもどこへ行くのでしょうか」


「さあね。もしかしたら、研究のためかもしれないよ」


「フィールドワークとか……?」


「そ。データ取るだけなら、あそこのレーダー使えばいいだけだしね」


 あまねが背後の建物を指さす。建物上部には、雨水したたるドームがある。白い球体の中にはアンテナが入っており、それであたりの自然環境を探査しているのだそう。


 でも、それだけではわからないことがあるからこそ、外へ出ていったのだろうか……?


「ま、案外、街に行ってフレンチトーストでも食べてるだけかもね」


「それ、あまねが今やりたいことでしょ」


「バレた? でも、湖に行きたいってのは本当だよ」


 あまねは、眼下に広がる景色に目を向けた。


 昨夜は分厚い雲と夕方ということもあって、景色は最悪だったけれども、今は違う。観測所は山の稜線近くに建てられているらしく、この一帯を見下ろすことができた。


 鬱蒼とした森が、なだらかな斜面に沿って広がっている。遠くの方には、コンクリートジャングルが見えた。三時間ほどの距離のはずだけども、視覚的にはそれ以上の距離のように感じられる。


 そして、森の一画に目を向けると、水をたたえた場所がある。そここそ、天雲湖――そして湖に沈んだ天雲村がある場所である。



⭐︎⭐︎⭐︎



 白戸さんが渡してくれた地図によれば、観測所から天雲湖までは直線距離にして一キロほどの距離らしい。一キロというとかなり近そうだけども、その実、直線で行ける道はなく、ぐねんぐねんと曲がりくねりうねるような登山道を行くほかなかった。


「そういえば」わたしは踏み固められた登山道を歩きながら話しかける。


「昨日見た人って、湖の方に行ったのかもしれませんね」


 返事はなかった。立ち止まって背後を見れば、今にも転んでしまいそうなほどにおぼつかない足取りであまねが歩いていた。


「だ、大丈夫ですか」


「全然、全く、大丈夫じゃない……」


「水ありますけれど」


 給湯室の水を入れただけの水筒を、わたしはあまねに差し出す。小さな手が水筒をかっさらっていくと、あおるように飲み始めた。


「あー生き返る」


「それはよかったですね。普段から運動しないからそんなに疲れるのです」


「だって、クーラーの効いたところから出たくないしぃ」


「あまねは出なさすぎです。もうちょっと運動しましょう」


 えーっと、溶けて消えてしまいそうな声をあげるあまねの手を取る。汗ばんだその手は熱を帯びており、いつもよりも血色がいいように見える。


「助手くんの手、冷たいね」


「別にそんなことないと思いますけれども」


「気持ちいいから握ってていい?」


「はあ。それくらいでしたら」


 わたしたちは手をつないでゆっくりと登山道を歩く。


 今歩いている登山道を地図で確認すると、どうやら天雲岳の頂上まで続いているらしい。


 そこから九十九連山の峰々を縦断することもできそうだけれども、わたしたちの目的は登山ではなく、天雲湖を一目見ることである。


「というか、あまね」


「なに?」


「湖を見て、それからどうするの?」


「湖に沈んでるっていう村が本当かを確かめて」


「それから?」


 あまねは黙り込んでしまった。わたしは溜め息をつく。


「それ以上のことは考えていなかった、と」


「一晩にして村が湖と化してしまった理由は探ってみたいところだが、当時わからなかったものが今わかるとは到底思えないしな……」


「雑誌には書いてなかったのです?」


 わたしの問いかけに、あまねは頷きスマホを渡してくる。画面に表示されているのは、月刊モーの中のページを撮影した画像だった。


 そのページには、天雲湖ができることとなった顛末がまとめられていたけれども、憶測に次ぐ憶測で、内容は皆無といっても差し支えはなかった。


「うっすい情報ですねえ」


「うぐっ。しょうがないじゃん、情報が全くないそうなんだからさっ」


「自分の事のように弁明しますね」


「オカルトをバカにされるのなんか、悔しいし」


「バカにはしていません。私には理解できないというだけで」


 ふんっとあまねが鼻を鳴らすのをよそに、わたしは風に揺られている木々へと目を向けた。青々とした葉っぱが揺れこすれ合うたびに、甘く新鮮な香りが鼻孔を撫でる。


 そういえば、ここ最近は、妙なことに巻き込まれ続けてきた。謎の水晶体だったり、真実を知ることができるという光だったり……。思い出すだけで鳥肌が立ってきて、頭がどうにかなってしまいそうだ。


 大きく深呼吸をすると、胸いっぱいに入った大自然の営みとかマイナスイオンとかが、わたしのささくれだった心を癒してくれるような気がした。


「ここに来てはじめて、来てよかったと思っています」


「今まで来なければよかったと思ってたの?」


 助手くんらしいね、とあまねが言ったけれど、その言葉の意味はよくわからなかった。

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