観測所で過ごす一夜
窓に叩きつけられる雨粒を見ていたら、足音がやってきた。
扉を開けてバタバタと入ってきたのは白戸さんである。その手には、コーヒーカップ三つが乗せられたおぼんがあった。
「ブラックしかないですが」
白戸さんは、わたしとあまねの前に二つのコーヒーカップを置いた。いかにも苦そうな真っ黒な液体に、あまねは「うへえ」と声を上げた。
「ミルクはありませんか?」
「すまない、砂糖もミルクもないんだ」
「だってさ、あまね」
「言わなくてもいいじゃん! べつに牛乳とか砂糖とかなくても飲めるし!」
あまねは言うなり、カップを持って、ぐびっと飲んだ。次の瞬間、口から霧状のコーヒーが飛び出した。
「あっつ! にっが!」
「だから言わんこっちゃない……本当にすみません」
わたしは頭を下げる。隣を見れば、あまねはティッシュを受け取ってテーブルやら口元やらを吹いている。頭を下げる様子はない。……なんでわたしが謝っているんだ。
「謝るのは私の方です、お茶を用意しておけばよかったですね」
わたしは部屋を見まわす。白戸さんのものと思しき部屋は狭いというわけではないけれど、いたるところに書類が積み上げられ、足の踏み場もないほど。あまねが占領している部屋でもここまでは汚くない。
「おひとりでいらっしゃるのですか」
「ええ、まあ。だれもこんなところにいたくはないでしょうしね」
「確かにねー。ネットもつながりにくいみたいだし?」
「ですねえ。それはこのあたり特有の変わりやすい気候が関わっていまして。私はそれを研究するためにここにいるのです」
「研究?」
「はい。この辺りは山脈が幾重にもそびえたっているためか、気候が変わりやすいのです。ほら、このあたりでは、村が沈んだという話があるでしょう」
「それって!」あまねが興奮したように身を乗り出した。「天雲村のことだ」
「ええそうですが、ご存じなのですか?」
「ああ。月刊モーに書かれていて、気になってその湖とやらを見に来たの」
「……わたしは無理やりですけどね」
わたしはコーヒーを口に含む。先ほどまで雨に打たれて冷えた体に、熱々のコーヒーがしみわたる。
白戸さんは目をぱちくりとさせて。
「珍しいねえ。オカルトのためにこんな山の中まで来るなんて」
「そうかなあ。こんな大事件、新聞の一面になってそうだが……」
あまねはスマホを取り出して操作する。すぐに舌打ちした。ネットがつながっていないから確認することができないらしい。
「でも、本当の事なんですか……? その、村一つが沈むなんて」
「本当さ。明日、雨が止んだら見に行ってみるといい。水が澄んでいたら建物の一つが見えるはずだから」
立ち上がった白戸さんは、書類に埋まっているデスクに向かっていって、何かを探し始める。
それを横目に見ながら、わたしはあまねに話しかける。
「あの人、どうしてこんなところにいるのでしょう」
「彼が言った通り、気象の研究のためだろう。入るとき白い球体状の物体見えたの覚えてる? あれ、気象レーダーだよ」
「じゃあ、あの人が言っているのは正しい?」
「まさか疑ってたのかい? 命の恩人かもしれない人を?」
「……恩人だからって、安心できるかはまた別です。下心があって助けたのかもしれませんし」
「そりゃそうかもしれないがね。こんな雨の中に研究するくらいの人だから、私たちのことなんて眼中にないぜ、たぶん」
「なら、いいのですけども」
そんなやり取りをしていると、白戸さんが戻ってきた。手には、何かが握られていた。
「これは周辺の地図だ。古いが、役に立つんじゃないかな」
カップの横に置かれたのは、しわくちゃの地図と傷だらけのコンパス。それらを手に取ったあまねはためつすがめつする。
「使い方わかる?」
「わかりますけれど、というかあまねはわからないのですか」
「ば、バカにしてる? 助手が探偵を?」
「いや、バカにはしてません。知らないのだな、と思いまして、ぷぷっ」
「今笑ったじゃん! ぜーったいバカにしてるよ」
「意外だなと思っただけで、そんな」
「まあ、最近の子はスマホばかりで地図には慣れていないだろう。むしろ、地図を読み慣れている君の方が珍しいというかなんというか」
「こういうの見るの好きなので。あと、使い方を知っていたらいざという時助かるかもしれないじゃないですか」
口をへの字にしながらあまねが言う。「いざというときって?」
「そりゃあ遭難したときとか」
「そんなレアケース想定してる方がおかしーよ」
⭐︎⭐︎⭐︎
わたしたちは、観測所の一室を貸してもらうこととなった。プレートには仮眠室とあり、ベッドと一つと机と椅子があったけれども、ほとんど使用されていない。
「私はあっちの研究室で眠るから」
ぼさぼさの髪をかきながら、白戸さんは教えてくれた。あの部屋で、寝泊まりしているのだとか。
確かに、研究室は、生活ゴミをまとめたような袋とかで、生活感にあふれていた。
それと引き換え、ここは埃っぽく、生活感に乏しい。扉には鍵をかけることもできるようだし、女性ということで、プライバシーとかなんとか気にしてくれているらしかった。
がちゃんと扉が閉まり、白戸さんの足音が離れていく。その直後、あまねはベッドへとダイブ。
「うわっホコリっぽ……」
「見るからに使われてませんもんね」
わたしは窓へ近づく。日に焼けたカーテンを開くと、ホコリまみれの窓があった。
その向こうに広がっているのは、雲交じりの白々とした闇と絶え間なく降り注ぐ大量の雨粒。
「いつ止むんでしょうか」
「それこそ、あの人に訊けばいいじゃん」
「それはそうなのですけども。なんかうさん臭くありません?」
「別にそうは思わないが。まあ、変わってる人だ」
「ですよね。あまねくらい変わっています」
「それ、褒めてる? 褒めてないよね?」
そんなことを言うあまねを放っておいて、わたしは換気のためにと窓の鍵に手をかけた。
時刻は午後八時を回っていた。空に見えるはずの星々は、分厚い雲に遮られている。闇夜でもはっきりとわかるほど濃密な雲は、吹く風によるものなのか常に変化をし続け、同じ姿を一瞬でも保っていることがない。
もやもやとした雲から稲光が飛び出し、白光が空と大地を照らす。その強烈な光によって、地面には複雑怪奇な陰影が生まれた。
ふと視線を感じたような気がした。
降ってくるような視線に空を見上げる。ものすごい勢いで流れ去っていく雨雲に浮かび上がった陰影は、どこか人の顔のようにも見えた。いや、そのようにしか見えなくて。
わたしはあまねの肩を叩く。
「いたっ。どうしたの、いきなり」
「あれ……」
わたしは、空に浮かぶ憤怒の顔を指さした。指さしたつもりだったのだけども、あまねは不思議そうに首を傾げる。
「雲がどうかしたの?」その顔は、困っているように見えた。
わたしは、窓の方へと向きなおる。先ほどと同じように、切れ間のない雲が姿を変えながら濁流のように流れている。そこに、怒りを露わにした人間の顔はなく、灰色のもくもくがあるだけであった。
目をこする。でもやはり、雲は雲で、人面では決してなかった。
「あれ……」
「何か見た? たとえば、竜とか」
「……何も。なにも見てません」
あまねが信じてくれるのか、いやそもそも先ほど見たものが錯覚ではなかったと断言できず、わたしはそう言うことしかできなかった。
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