神風
わたしたちは神のいない(たぶん)神社を後にした。足場の悪い登山道を降り、天雲湖までたどり着く。
直上を過ぎ、斜めから降り注ぐようになったお天道様の光の中へ出ていこうとしたら、あまねに首根っこを掴まれた。
「何するのですか!」
文句を言うわたしに、あまねは無言で湖の向こうを指さした。
そこに人影があった。白い白衣を着た男性。
「白戸さんだ。どうしてここが?」
「偶然あるいは、つけられていたのか」
バス停へ向かうためには、白戸さんがいる方を通らなければならない。神社の方へとって返して天雲岳頂上から迂回するのは、今のわたしたちの装備ではあまりに無謀すぎる。
わたしたちは顔を見合わせた。わたしは覚悟はできていたし、あまねもたぶんそうだろう。
でも、ナギくんはどうだろうか。
彼の目は泳いでいたけれども、一度首を振ったかと思うと。
「いきましょう」
「うん」
「相手は大の大人とはいえ一人だ。――助手くんなら余裕さ」
「だといいのですけどね」
わたしたちは日の下へと揃って踏み出す。湖畔を足音を立てないようにしながら歩いたけれども、白戸さんに気がつかれた。
「おや、お二人ここにいらしたのですね」
白戸さんの目が大きく見開かれた。
「そ、そこにいるのはナギじゃないか。ずっと探してたんだぞ」
「お知り合いですか」
「え、ええ。知り合いというか、家族でして。ほら、ナギ一緒に帰ろう」
わたしはナギくんを見た。家出という可能性もないではなかったけれども、体を震わせてまで怯えているところを見るに、その可能性はないようだ。
あまねが、一歩前に出る。
「話はすでに聞いています。あなたは何をするつもりなのですか」
「何の話ですかな」
「イタクという神を呼んで、一体何を?」
白戸さんが大きく見開いた。はあ、と大きなため息ののちに、天を仰ぐ。その顔が正面を向いた時には、表情は一変していた。人のよさそうな雰囲気はどこへやら、その顔に浮かぶのは狂気的なものだったのである。
「知られてしまったのならばしょうがない。神の証明を行うことで、私を馬鹿にしてきた奴らの鼻を明かすのさ」
「なんてしょうもないことに神を使ってるんだ」
「しょうもないことだと!」
「あまり刺激しないでください、あまね」
「ごめん、でもほんとのことだし……」
「おい! そこの女! 早くナギを渡せ」
「渡すものですか。こんなに怯えているというのに」
「そんなことを言っていてもいいのか。私はお前らなぞ簡単に殺すことができるのだぞ」
「やればいいでしょ――ここにいる助手くんを誰だと思う、合気道の大会で優勝したこともあるんだぞ!」
わたしの陰にいそいそと隠れながら、あまねが言った。
結局、こうなってしまうのか。
「というか、啖呵切っておいて、あまねは隠れるのですか」
「私は非戦闘員、頭脳労働担当だから。君、荒事は頼んだよ」
「……できることはやります」
わたしは一歩、二歩と前に出る。相対する白戸さんの手には何もなく、白衣はそれほど膨らんでいない。ナイフくらいはあるかもしれないけれど、拳銃が入っているってことはないのではないか。
それなら、大の大人だからって勝てないわけじゃない。合気道というのは柔よく剛を制するものなのだ。
「――――」
白戸さんが何事かを呟いた。その言葉はよく聞こえなかったけれども、なにやらよくない響き方をした。脳にこびりつく、不快で体が冷えていくような恐怖を連想させる音階。その言葉は、一つ一つはひらがなとして認識しているのに、全体としては何を言っているのかわからなかった。外国語だと脳が認識しているかのようだ。
つぶやきが呼び水となったかのように、太陽が分厚い雲におおわれ、辺りが暗くなってくる。そんなことがあるわけがない。
気味が悪い。ぞくりと悪寒は背筋を舐めるように走っていった。遠くで、焦ったようなカラスの鳴き声が不気味に響く。
わたしは白戸さんに近づいていく。戦うのはいけないことだ自衛のために使いなさい、と師匠から耳にタコができてしまうほどに聞かされてきた。
でも、それではダメだ。あの男は、何かをするつもりだ。
直感に突き動かされ、わたしは白戸さんの腕に手を伸ばした。手首を掴んで地面へ投げ飛ばすつもりで。
しかし、わたしは白戸さんに触れることはできなかった。
「え?」
掴んだつもりだった。白戸さんだって避ける気配は微塵も見せていなかった。それなのに、指一本触れられなかった。
まるで、わたしの手が掴むのを拒絶しているかのよう。
あるいは、わたしの認識よりもずっと速く移動したとでもいうのか。
「どうした。掴まえないのか」
コケにするように、わたしは再び腕を掴もうとした。だけど、やはりつかめない。白戸さんの腕はウナギのようにするりと逃れていく。
「助手くん!?」
「どうして掴めないの!」
わたしは突きとばすように腕を出した。当身のつもりでやったが、それすら外れる。これはどうしようもないとわたしは距離を取った。
相も変わらず不動の白戸さんは、その口元に余裕の笑みが浮かんでいる。ムカつくけれども、わたしにはどうすることもできなかった。
白戸さんの呟く声は今なお続いている。長い長い、呪文のような文言。それが口ずさまれるたび、空はどんよりとした雲に覆われ、そこから重苦しい空気がのしかかってくるかのようだった。
息苦しい。体が重い荷物を持たされたときみたいに、熱くてだるい。
「重力が増してる……いやこれは」
「死ね!」
白戸さんの手が振り下ろされる。その瞬間、彼の体から、無数の触手が飛び出してくるのが見えたような気がした。禍々しく冒涜的な、タコのような触手は哀れな犠牲者を求めるように、わたしとあまねめがけて伸びていく。
わたしたちに触れる直前、雷が鳴った。
地を割り、空気を震わせ落ちた光は、轟音と閃光をまきちらす。
「きゃ!」
誰の悲鳴かもわからない。わたしが出したものなのかもわからない。視界は真っ白に染め上げられ、鼓膜はビリビリと震動し、キーンと痛んだ。三半規管までもがダメになってしまったみたいに、体がふらつく。
真白になってしまった視界も少しすると、まともになってくる。
「あまね、大丈夫ですか」
「なんとか……」
声がわたしの足元から聞こえてきた。見れば、あまねは倒れているらしい。滲んだ視界ではよくわからなかったけれども、ケガはないようだ。
視界がにじんでいる。いや、雨が降っていて、そう見えるのだ。
重苦しく空中に浮かぶ雲から降る雨は、びゅうと吹く強風に乗って、地面を打つ。一瞬のうちに、湖は雨のカーテンに包まれていた。
いや、悠長に状況を把握している場合ではない。白戸さんは――。
わたしは正面を見た。そこにはびしょぬれになった白戸さんの姿が変わらずあった。だけども、その表情はまるきり違っていた。
「あ、あなた様が神だというのですか。ここにいるナギではなく、あなたこそがイタクだと!」
天空へ向けられたその表情は、驚き動揺し、恐怖にゆがんでいる。わたしは、同じ方向を見た。
ものすごい勢いで流れていく複雑奇怪な雲が、頭上を覆っていた。それは、人の顔に見えたり、あるいはヘラジカのように見えたりする。
それは大自然が見せる神秘的な光景なのか、あるいは、白戸さんの言う通り、神か。
不意に、風が吹いた。つんのめってしまうほどの強い風に、わたしは反射的に目を閉じた。
何があったのか、わたしにはわからない。
ただ、空で雷が鳴ったのはわかった。足音のように連続して雷鳴が轟いたかと思えば、次の瞬間、情けない男の悲鳴が響いた。
その直後、風がぱったりと止んだ。目を開けると白戸さんの姿はない。上空に小さなヒトのような影が浮かんでいたけれども、それが白戸さんなのかはわからなかった。
わかりたくなかったというのもあるし、もしも違ったら、空飛ぶ未知の存在を認めることになるではないか。
神がいて、それが白戸さんを舞い上げていったなんて。
わたしは振り返った。あまねと、ナギくんの無事を確認しようと。
あまねは無事だった。
だけども、ナギくんの姿は影一つなかったのである。
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