豹変する男

 彼女にとっては大きな(わたしにとっては普通の)歩幅で、あまねが歩く。


「まだ、怒っているんですか」


「……怒ってない」


「それ、怒ってる人絶対言いますよね」


「…………」


 歩調がスローダウンする。隣に立って横を見れば、リスみたいに頬を膨らませている。そのほかはいつものだるんとしたセーラー服姿である。


 わたしが上から下まであまねのことを見ていたら、目が合った。


「なに」


「いや、外に出るんだから、もっとちゃんとした格好がよかったんじゃないです」


 平日とは人通りの多い歩道で、あまねの姿は非常に浮いている。純粋さあるいは硬い印象を抱きがちなセーラー服をだらしなく着こなしたあまねは、むやみやたらに肌を露出しているわけでもないのに、インモラルな空気を漂わせている。そのせいか、道行く人々の視線が痛い痛い。同伴者のわたしに対する視線は不審者に対するそれと変わらない。


 それに気がついていないのか、あまねは首を傾げる。


「狙ってないならそんな恰好しないでください」


「えぇー私、これしかないんだけど」


「今度一緒に買いに行きましょう、ね?」


 困惑しながら、あまねが頷いた。こんな格好で外をうろつき回られちゃあ、いつか襲われかねないから、近々行かないとなあ。休みを取って、単位のことも考えないと……。


 未来予想図を組み立てながら歩いていると、あまねが立ち止まる。その背中にぶつかりそうになりながら、わたしも立ち止まる。


「名刺に書かれていた場所はここだね」


 そこは、駅前の高級ホテルである。建物を見上げたあまねは、


「十二階にいるみたいだねえ」


「十二階ってことはスイートか。うらやましい」


「よく知ってるね」


「ここで働いていたことがあるので」


 ネカフェで働く前のことだ。割にいい給料のバイトで、気に入っていたのだが、客とケンカしてしまったためにクビになってしまった。相手がイチャモンつけてきたから売り言葉に買い言葉、しょうがなかったとはいえ惜しいことをした。


「助手くんは色々なところで働いているんだねえ」


 わたしたちはホテルのドアをくぐる。


 ふかふかの絨毯を歩き、フロントへ。


 仕立てのよい制服を着たフロントマンがわたしたちに微笑みを投げかけてくる。


「お泊りでしょうか」


 にこにこにこ。


 そのような眩しい笑顔の前にしたあまねは硬直する。振り向くさまは、油が切れかけた扉のようにゆっくり。わたしを向いたあまねがツンツンつついてきた。


「なんですか」


 つついてきた指が、フロントマンの方を向く。話をしろってことらしい。


 わたしはあまねの前へ出て、


「十二階にいる青柳教授という方に会いたいんですけど」


 そう言うと、フロントマンの視線がわたしから、隣のあまねに向く。彼の眉間にしわが寄る。……何を考えているのかわかった気がする。


「この子はこう見えても探偵なので……」


「はあ……」


「とにかく、教授に電話していただけると確認できると思いますので」


 わたしが頭を下げると、フロントマンはしきりに首を振りながら、内線電話をかけ始める。いくつかの言葉が交わされたのち、電話が置かれる。


「連絡いたしましたところ、青柳様はお待ちになられているそうです」


 フロントマンがカードキーを渡してくる。黒くて、きらびやかなカードキーだ。


「これで青柳様の部屋が開きます。御帰りになられる場合にお返しください」


 わたしは頭を下げて、エレベーターへと向かう。


 ちょうどその時、チンと音を立てて扉が開く。わたしたちはエレベーターへと乗り込む。


「こう見えてもってどういうことー」


「だって、どこからどう見ても探偵には見えないですもん」


「う、うそ。どこからどう見ても探偵でしょ」


 愕然としているあまねは、どうひいき目に見ても学生でしかない。それもいかがわしいとかがつきそうな学生で、百人が百人全員、探偵だとは思わないことだろう。


 エレベーターの鏡の前で百面相をしながら「鹿撃ち帽……いやキセルがいいかなあ」などとあまねがぶつぶつ呟いているうちに、目的の十二階に到着する。


 扉が開いて、廊下に出る。


 ブラックカードキーには、12ー3と書かれている。12階にはスイートルームが三つあり、一番奥のひときわ大きな部屋で寝泊まりしているよう。部屋が広い分、スイートの中でも価格が高い。


「教授って儲かるんですか?」


「滅茶苦茶ってわけじゃないが、結構儲かるんじゃない。テレビとか雑誌の露出もあるし」


 扉をノックする。


 何か声が聞こえた。どうぞ、と言っているような言っていないような聞き取りづらい声。午前中聞いたときよりも、なんだかしわがれている。


「……なんかハスキーになってない?」


「確かに声が枯れてる。風邪でも引いたのかな」


 それだったらちょっといやだなあ、と思いながら、わたしはカードキーをスロットに挿入する。カチッと音がして、ロックが解除される。ドアノブを回して、扉を開ける。


 扉の向こうには、通路がまっすぐに伸びている。


「おや、真っ暗ですね」


「バイトしてた時はしつこいくらい点検しろって言われてたのに。あのー!」


 闇へ声をかけるけど、返事はない。いや……何か、荒い息遣いのようなものをが聞こえてくる。身じろぎの方向からは、汗と血が混じったような臭いが漂ってきた。


 ヤバい。


 頭が、危機感を募らせた声を上げた気がした。


 あの闇の向こうには何がいる。


「あまねさん、わたしの後ろに」


「いきなりどうしたの――」


「いいからっ!」


 不承不承といった感じで、あまねが頷く。


「絶対に、前へ出ないでください」


 恐る恐る前へと歩みを進める。


 暗い廊下をスリ足気味に進んでいくうちに、目が闇になれてくる。廊下の先はひときわ大きなリビングとなっている。半円状をした部屋には、その孤の部分すべてが窓となっており、そこからの景色がこのスイートルームの売りである。だが、その窓はカーテンによってすべて覆われている。


 リビングへと足を踏み入れた途端、すえたような臭いがむわっと強くなった。先ほどと似たような臭い……いや、肉が腐ったような臭いまで混じってくる。


 ぱっと見、人の気配はない。張りつめた緊張が、ちょっとだけ緩む。だけど、青柳さんはいったいどこへ?


 きょろきょろと見回っていると、ベッドルームの方からべちゃべちゃと湿っぽい音がかすかに聞こえてきた。水っぽい泥を混ぜているようなそんな音。


「なんだろうね、この音」


 あまねが訊ねてくるが、わたしにわかるわけもない。ただ、何もかもが異常で、不気味。本来なら青柳さんに声をかけるべきなのかもしれないけど、したくない。


 ベッドルームの扉は半開きになっていた。ノブをそっと掴んで、ゆっくり全開にする。静かに部屋の中へと滑り込む。


 先ほどの部屋同様、ベッドルームも真っ暗。室内灯も枕元のランプさえもついていない。それでも、キングサイズのベッドは見える。


 そして、その奥でうごめく影も。


「青柳さん……?」


 悩んだが、わたしは問いかけることにした。


 頭の中では、この場から立ち去れ、脳が警報を発していた。心臓がざわざわして、落ち着かない。


 ベッドの影にへたり込んでいた人物が、顔を上げこちらを見る。


 ふしゅる。


 ガスが漏れたかのような小さな音。それは、ヘビが発する威嚇の音にも似ている。


 影がのそりと立ち上がる。一歩、また一歩。よたよたとふらつきながら、わたしたちへと近づいてくる。距離が近づくと、人影がはっきりとする。


 スーツを着た男性は、青柳さんだ。


 彼に呼びかけようとした言葉が、青柳さんの姿をとらえた途端、ひっこんでいく。


 パリッとしたワイシャツにべったりこびりつく赤いシミ。その手には血を滴らせた肉塊が握られている。くちゃくちゃと下品な咀嚼音をまき散らす口は、血で真っ赤に染まっている。


 少し前の青柳さんとは似ても似つかない。知的かつ、高慢な態度は今はどこにもなかった。


 そこにあるのは、現代社会において、失われて久しい、原始的な野生だった。


 暗闇でもはっきりとわかってしまうほどに、その目がぎらりと輝く。獲物に喜ぶ捕食者のような輝き。


 でっぷりとした体格には似合わぬ俊敏さで、血にまみれた体が動く――。


 わたしは背後のあまねを突き飛ばす。キャッという悲鳴が背後で聞こえる。怪我をしていないといいけど、心配している余裕はない。


 正面の青柳さんだったそいつは、目前に迫っている。その腕を、鞭のようにしならせ、振るってくる。反射的に体を反らせて避ける。ぶおんと、腐乱臭とともに風圧が顔を打つ。


 うっと声が出た。


 目の前の男の顔には、鬼気迫るものがあった。恐怖ではなく、獲物を狩るという殺意に満ちている。また、こぶしが飛んでくる。力任せに振るわれた腕は、型なんてあったものじゃない。だからこそ、怖い。


 向かってきた腕を、ギリギリのところでかわす。伸びきった腕を、腕で抱きしめ、もう片方の手でシャツの袖を掴む。


 くるりと体を百八十度回転させ、わずかにしゃがむ。同時に、男を引っ張り、腰の上を滑らせる。


「――!」


 男を一本背負い、叩きつける。


 背中が大理石の床にぶつかる直前、体が不自然に反る。ブリッジのような形で足から着地したかと思えば、勢いそのままにわたしを腕ごと引っ張ろうとしてくる。バッと腕を離せば、バク転気味にくるくる回転して、床へと四足で着地した。


 よだれを垂らしながら、わたしを見つめるそれは、まさしく獣。


 今まで組み手を行った相手とは姿かたちが似ているだけの異質な存在。それは理解しているのだが、いや、理解しているからこそ本気が出せていない。


 わたしと目の前のそれは、睨みあう。


「いったた……」


 声が響いた。


 あいつの視線が声の方を向き、少し遅れてわたしがそちらを向いた。


 声を発したのはあまねだ。腰を打ち付けてしまったのだろうか、痛む場所を押さえながら顔をしかめている。


 目の前のヒト型のバケモノが獰猛な笑みを浮かべた。


「まずっ……!」


 言葉よりも先に、バケモノはアマノめがけて動き出している。四肢を馬のように機敏に動かし、床を舐めるように動き、飛び上がった。


 犬歯をむき出しにしたバケモノがアマノを襲う――。


 ――真っ赤に飛び散る血液。


 ――手足が吹き飛んでしまった人々。


 ――血と黒煙の中に一人生き残ってしまったわたし。


 死にたくない。


 誰にも死んでほしくない。


 フラッシュバックした映像。わたしの口から、声にならない絶叫がほとばしる。


 それが呼び水になったかのように、闇に光が走った。


 電撃だ。白い稲妻がどこからともなく飛んだかと思うと、バケモノへ突き刺さる。


 バケモノの体が空中でくの字に折れ曲がり、墜落する。べちゃりと気味の悪い音ともに、バケモノは床を転がる。煩悶する声とともに、肉の焼けた臭いが漂う。スーツは焦げ、ふさふさだった髪の毛はちりちりになっている。それだけの電撃を受けたにもかかわらず、それはまだ動こうとしていた。


「しつこいやつめ」


 声がしたかと思えば、電撃が殺到する。一度二度三度……それはバケモノの腕が床へ落ちるまで続いた。


 扉の方を見れば、女が立っていた。


 写真の女――降矢紫乃が。


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