天井のシミ
赤城ハル
第1話
私より2回り以上歳が離れた柿谷君と柊木君が洗濯機の近くで談笑をしていた。
普段ならスルーをしていたのだが、彼らの笑みがどことなく厭らしく、そして下卑た目をしていたので良からぬことを考えているのではと思って、私は声をかけた。
「別になんでもないですよ」
「ないっすよ」
2人は適当な会釈をした後、そそくさと去って行った。
私は2人が去った後、大きく溜め息をついて、洗濯機のボタンを押した。
怪しすぎだろ。どうせ良からぬことを考えているのだろう。管理責任者の東堂さんに伝えておくべきかな?
洗濯機が水を流し、そしてガタンガタンと音を立てて、仕事をする。
私の働いている老人ホームでは普通の老人、足腰の弱い老人、痴呆のある老人、そして寝たきりのご高齢の老人、基本的にはこの4タイプが住んでいる。
私達は彼らを利用者さんと呼び、世話をしている。
そして利用者達は階数によって棲み分けられている。
その中で私は3階の足腰の弱い利用者の世話を担当している。
一仕事を終えて、職員ブースで休憩をしていると、
「岩倉さんがまた癇癪を起こしたらしいわよ」
おしゃべり好きの角田さんが職員ブースに訪れて、わざとらしい困った顔で言う。
そしてその岩倉さんの今日の担当は清水さんだった。
私は内心、昨日でなくて良かったと胸を撫で下ろした。昨日だったら私が担当だった。そして私が清掃しなくてはいけなかったのだ。
その岩倉さんの癇癪とは糞尿をした後、オムツを脱いで、そしてそれを壁へ投げつけるという行為である。オムツから飛び出た一部の糞尿は壁や床に飛び跳ねる。そして私達は床や壁を清掃しないといけない。
「清水さん、最近は義理のお母さんのお世話もあるとかでしんどいのに大変よね」
それはまるでお前手伝いに行けよと言っているようだった。こっちも面倒な利用者の相手をしているんだ。休める時は休ませてもらいたい。というかお前が行けよ。
「岩倉さんも昔はあんなことしなかったのにね。やっぱ病院へ行ってからかしら」
「病院? どうして?」
何も知らない柿谷君が聞く。
それを角田さんは「仕方ないわねえ」みたいなわざとらしい顔をして語り始める。
「岩倉さん、かなり昔に小さい息子さんを医者の医療ミスで亡くしたらしいのよ。それ以来、医者が嫌いでね。でもこの間、手術をしないといけなくなって、その時に手術が嫌で癇癪を起こし始めたのよ」
「あの癇癪って、それからってことですか?」
「そうよ」
ちなみにその手術はなしとなり、投薬による治療でなんとかなったとか。
それからというものの岩倉さんその件で味をしめたのかオムツを投げれば、こちらが言うことを聞いてくれると思い始めたらしい。
「小さい息子って……だいぶ前ですよね」
岩倉さんは85歳。小さい息子がいた頃となると60年ほど前になる。
「トラウマね」
「そんなにトラウマって引きずるものですか?」
「そりゃあ、引きずるでしょ」
つい私は口を挟んでしまった。
2人が私へと目を向けるので、
「年寄りってのは最近のことはすぐ忘れるのに昔のことばかりは思い出すでしょ? ほら木村さんも昔のことを話すでしょ? しかも何度も同じ事をさ」
過去話を聞くのはまだ良いが同じ話をループされるのは苦痛だった。
「なるほど。昔のことを思い出して。それでトラウマもフラッシュバックするんですね」
柿谷君が理解したのかうんうんと頷き、
「たしか田中さんも昔、お風呂でのトラウマがあったから、入浴が嫌いって聞きましたけど」
「そうね。毎回、お風呂介助時は苦労するわ」
角田さんが溜め息を吐く。
その苦労には私も経験がある。
重いし、うるさい、難癖つけてくるし。ご家族に嘘をつく。
変な誤解を与えてしまうと非常に面倒くさい。
向こう側が違う施設に預けるというと管理責任者の東堂さんが止めに入る。
こちらとしてさ面倒な利用者は出て行ってもらいたい。
けど東堂さんからしたら管理責任者としての立場が危うくなるので、止めざるを得ないのだ。出て行ったなら、それは利用者の言い分が正しいという風聞が流れてしまう。そうなれば東堂さんの本社のでの評価も下がってしまう。
「お風呂のトラウマってなんですかね?」
柿谷君が角田さんに聞く。
「子供の頃に従兄弟にションベンをかけられたって話よ」
「なんすかそれ」
「あら? あなたはしたことない?」
「ないっすよ」
「ふうん。私の子供の頃って、やんちゃな子がいてプールでションベンする馬鹿がいたわよ」
「プール! マジっすか?」
「たぶん君の時にもいたわよ。隠れてやってたやつが」
「いないっすよ」
柿谷君はぶんぶんと手を振って否定する。
「ねえ、目が赤くなる原因って知ってる?」
「塩素でしょ? こんな丸いやつがプールにあって、それで目が赤くなるんでしょ?」
柿谷君が親指と人差し指で輪を作る。
それに角田さんはほくそ笑み、
「そう聞いてたでしょ? でもあれって本当はションベンのアン……なんだったかしら。アンモナイトは違うわよね」
「アンモニア」
私は助け舟を出す。
「そう、それ。目が赤くなる本当の原因はそれなのよ」
「えー!? マジっすか?」
「マジよ。マジ。それと最近多くなってらしいわよ」
「多いって?」
「プールでションベンするやつよ。最近は減ったって聞いてたけど、なんか年々増えているらしいわよ」
「どうしてです?」
それは私も初耳だったので聞く。
「モラルの低下よ」
「モラル?」
「そうよ。ほら、迷惑配信者っているでしょ? あんな感じ」
確かに迷惑配信者はモラルに欠けてはいるが、だからといって小学生のモラルが欠けるのか疑問であった。
だけど、柿谷君は違っていたらしくて、
「分かります。最近増えてますよね。モラル低下。バズりたい一心で理性の線を越えちゃう奴」
うんうんと大きく頷いている。
でも小学生の話なんだけど。子供の問題は親の躾と思うのは私だけか?
夕方、廊下でとぼとぼと歩いている清水さんと出会った。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
とは言うものの語気に覇気がない。
「岩倉さん、どうだった?」
「大したことはないです。では」
話はこれで終わりと言わんばかりに締め、清水さんは廊下を進む。
私はその丸まった背中を見て、少し危うい気を感じた。
「ねえ、赤ちゃんと利用者のどっちがしんどい?」
社会人になった娘が夕食時にそんなことを聞いてきた。
「いきなり何?」
夕食の生姜焼きを胃に落として、私は娘に聞き返す。
「いやさ、どっちも泣いて喚いて、駄々をこねるでしょ? だから、どっちが面倒を見るのにしんどいのかなって」
「そりゃあ、利用者がしんどいわよ。体重だって重いし、あやし方なんて分からないんだから。オムツ替えも一苦労だし」
その時のことを思い出して、私は呻いていた。
「……食事中にする話ではないわね」
頭の映像を消すためにテレビを見る。
芸人が意味のわからない単語を発して、変なポーズを取っている。その訳の分からない芸をする芸人は、ここ最近、テレビで売れている芸人らしく、子供たちも真似をしているとか。
「今の芸風って意味がわからないわね」
「ああいうのは雰囲気よ。意味を考えたらダメよ」
奇声を発せればウケる時代とは。世も末だな。あれならうちの利用者と……いや、やめよう。
「ねえ、おじいちゃんやおばあちゃんはどんな人だった?」
「おじいちゃんにおばあちゃん?」
「あ、ひいおじいちゃんのことね」
つまり、私にとってのおじいちゃんとおばあちゃんということね。
「ううんと……ひいおじいちゃんは柿をよく食べる人かしら。で、ひいおばあちゃんはグチグチうるさい人かな」
「それだけ?」
「ひいおじいちゃんは私が子供の頃にすぐなくなったし、ひいおばちゃんも正月くらいに会う人ってイメージだし。私が中学生頃に亡くなったしね」
「ふうん」
「どうしたの? 急に?」
「最近ヤングケアラーって増えたでしょ?」
「ああ。CMでよく見るわね」
CMでは両親が共働きで、子供が学校から帰って祖父母の面倒を見るという。そして周りの人も手を貸してあげましょうと訴える啓発系だ。
「核家族が増えたのにヤングケアラーが増えたっていうのが、おかしいなって感じて」
「そもそも共働きも少なかったしね」
それが今では低賃金で共働きは当たり前、性によるイメージを払拭し平等化だもん。
今と昔、どちかが良いかと言われたら……。
「昔はサラリーマンなんてダサくてなりたくないって人が多かったのにね」
今では正社員になりたいって人が多い世の中。サラリーマンが目指す先の一つになるとは。
「今は子供達の夢で上位に動画配信者が多いらしいわよ」
娘が溜め息交じりに言う。
「芸人じゃないの?」
「芸人より動画配信者の方が人気なのよ」
「テレビを見ない子が多いって言うけど、そこまで来たか」
そういえば角田さんが迷惑配信とモラルは繋がっているみたいな話をしていたが、それは子供がそういったものを見て、真似をするということなのか。
「今では芸人もあやかって動画配信をやってるくらいだもんね」
「大変ね。芸人も」
テレビに視線を向けると芸人が意味不明な単語を発して、番組の内のキャストを笑かしていた。
この前は毒舌が流行っていた。
その頃は私も笑っていた。
悪口に近いそれになぜ私は笑ったのか。今、思うと不思議な話。
「あら? あの人、毒舌の人じゃない?」
番組の内に毒舌の芸人がいた。
「あの人は今、この番組のMCをやってるのよ」
「へえ」
なんか複雑な気分だ。
毒舌で演者をいじるのか。
「なんか面白くないわね」
利用者も使う休憩スペースで柿谷君が何かを探していた。疲れていたので無視しようとしたけど目端でうろうろされてはうっとうしいので声をかけた。
「さっきから何を探しているの?」
「ボールペンがなくて。ここに置いたんですよ」
と棚を指す。
「落ちたんじゃないの?」
「でも床になくて」
「誰かが拾って他のところに置いたとか?」
「置きました?」
「今、来たばっかだから知らないわよ」
「どうしよう」
柿谷君が情けない声を出す。
「何? ボールペン必要なの?」
「違います。あれ、高かったんです」
「いくらくらい」
「1000円です」
一瞬高いのかと考えたが、ボールペンに1000円も出したくない。なら高いのだろう。私なら5本セットの100円ボールペンを使う。実質20円だ。1000円のボールペンに比べたら50分の1。
無くそうが壊れようが痛みがないもの。
「どうしてそんな高いボールペンなんか?」
私は呆れつつ聞く。
「なんていうか……ちゃんと働こうと意気込んで」
そう言って、柿谷君はしょんぼりする。
まったく。仕方ないな。
私も探してあげようとした時、思い当たった。そう言えば先程、大野さんがいたということに。
「たぶん大野さんかもね。あの人、手癖が悪いから」
「手癖?」
「人の物を盗るのよ」
大野さんは色々な物を自分の物だと思い、手当たり次第盗みまくる。私もホッチキスとか物差しとか色々と盗まれた経験がある。
「中にはゴミまで集めるからね」
ある日、柿谷君と柊木君が管理責任者の東堂さんに怒られていた。
なんでも5階に住む松本さんとその飼い猫のどちらが先に死ぬのかという賭けをしていたらしい。
松本さんは106歳という超ご高齢。そして猫も15歳で老猫であった。我が老人ホームは室内で飼えるペットなら同居可としている。
そしてその松本さんとと老猫はいつ亡くなってもおかしくなく、柿谷君と柊木君はどちらが先に亡くなるかを賭けていたらしい。
それと後で知ったことだが、どうやら先日のにやけた会話はどうやら賭けの話だったようだ。
非常に不謹慎な内容なため誰も2人を擁護はできない。
そしてつい先日、松本さんが先にお亡くなりになり、老猫が後を追うように亡くなり、施設内では少しの間、感動としんみりした空気が流れていた。私もまたその件がまるで奇跡のように感じた。
けれどその賭け事のことで2人が言い争い、とうとう東堂さんにバレてしまい怒られるという事態になった。
その賭け事の言い争いというのは、柿谷君が賭けに勝ったのに、柊木君があれやこれやと言い訳をして金払いを渋っていたというもの。
「モラルの低下よね」
角田さんは言葉では非難しているが、口元は笑っていた。
そして柊木君は素行問題や度重なる遅刻、そして改善の余地がないこともあってクビになり、柿谷君は微罪処分となり、老猫をきちんと埋葬することを命じられた。
老猫が亡くなった時、松本さんのご家族が老猫の埋葬についてもこちらに一任を要求し、東堂さんは承ったのだ。
翌日の朝礼で老猫の葬儀の件について柿谷君がみんなに質問をした。
「あれって生ゴミでいいんですか?」
これにはさすが皆は呆れていた。
ペットを生ゴミで捨てるやつが世の中にいるのか。
「何を生ゴミに捨てるのかな?」
東堂さんが努めて冷静に聞く。
でも、これはすぐにぶち切れるだろうな誰もが思った。
何も気づいていない柿谷君は無垢な顔で、
「猫の死体」
と告げた。
その瞬間、私達は耳を塞いだ。
東堂さんの怒鳴り声が手を通り越えて、耳の奥へと届く。
「清水さんが辞めました」
朝礼で東堂さんからそのような報告があった。
「どうしてですか?」
角田さんが代表して聞いた。
「お義母さんのご様態が芳しくないとかで」
東堂さんは残念そうに言う。
「まあ、それは残念ね」
残念というよりもこれからの仕事の配分について心配しているように聞こえる。
「ここ近日で2人もお辞めになられました。外からヘルパーを2人ほど迎えますので、その間はよろしくお願いします」
この『外から』というのは系列の老人ホームから臨時で来てもらうということ。
その後、柿谷君はネットで動物の葬儀をググり、老猫は近く動物霊園と呼ばれる所に埋葬されることになった。
けど、葬儀後にその動物霊園の管理はずさんで、預けられた動物は適当に埋葬されていたことが判明。
それは夕方のニュース番組でも取り上げられるほどの騒ぎであった。
もちろん、こちら側が預けた老猫も含まれていた。
そして朝の朝礼でその件についての東堂さんから報告があった。
「猫の遺骨は諦めるべきでしょう」
「もうちょっと早く、ずさんな管理と埋葬が報道されていたら良かったのに。そしたら自分もあんなところに任せたりはしませんでしたよ」
柿谷君は自分には一切非がないような言い方をする。
「レビューサイトとか見なかったの?」
東堂さんが眉を八の字にさせて聞く。
「そんな通販サイトとかじゃないんですから」
確かに動物霊園のレビューサイトなんて聞いたことがない。
「それでどうするのよ?」
角田さんが溜め息交じりに柿谷君に聞く。
「そんなこと言われても。自分はただきちんと手続きに則って……」
柿谷君は俯きつつ、手をもじもじさせながら言う。
「まあ、今回は向こうに非があるので彼を責めるのはよしましょう」
「でも、ご家族は?」
そうだ。ご家族が怒れば、こちらは対応をしないといけない。知らなかったとはいえ、はいそうですかとはいかないだろう。
「それは大丈夫です。すでにお話は済ませております」
「怒っていましたか?」
私は聞いた。
「まあ、最初のうちは。でも、動物霊園側に非があるのですぐに鎮火いたしました。訴えられることもありません」
「良かった」
柿谷君が大きく胸を撫で下ろす。
「でも今後気をつけるように」
東堂さんが強く柿谷君に釘を刺す。
「はい」
だが、問題はそれで終わらなかった。
老人ホームのレビューサイトに今回の賭け事について書かれていたのだ。
『ここでは動物も一緒に入居できますが、介護職員達はどっちが先に死ぬのかと賭け事をしています。つい先日も賭け事があり、その件で一騒ぎがありました』
その他にも利用者の対応や介護士の裏の顔も数多く書かれていた。
嘘は書いてはいないが、どこか他人に誤解と邪推を掻き立てるようなレビュー内容で、レビューが書かれた翌日から電話が鳴りっぱなしだった。
東堂さんは管理責任者として本社に呼ばれた。
「これ書いたの絶対柊木さんですよ」
柿谷君がレビュー内容について憤慨していた。
それもそうだろう。柿谷君は名前こそ書かれていないが、本人と分かるような内容が書かれていた。
「たぶんそうでしょうね」
柊木君以外なら猫の葬儀についても言及しているはず。それがないということは辞めてそのことを知らない柊木君だけだ。
そして夕方に本社から東堂さんが戻ってきた。その顔をえらく憔悴しきっていて、かなり絞られたと伺えられる。
緊急ミーティングが設けられ、東堂さんから今回の件の対応と今後についてのことを聞いた。
対応と言ってもほとんどが弁護士の仕事で、私達は何もせずにいつも通りの仕事をすることで特に何かをすることはなかった。
「柊木君でしょ? 名誉毀損とかで訴えたらいいんじゃない?」
角田さんが東堂さんに尋ねる。
「その可能性は高いです。ただ訴えるかどうかはまだ分かりませんので、そこは弁護士と相談してとのことです」
「ふうん」
「ただ……一つ」
「何?」
東堂さんは尋ねてきた角田さんではなく、柿谷君へ顔を向け、
「松本さんのご家族が賭け事について説明を求めているとのことです」
「えっと……それは……」
「柿谷君、説明の際は同席するように」
「自分もですか?」
「当たり前でしょ!」
角田さんがそう言って、やれやれと鼻を鳴らす。
「は、はい」
柿谷君が肩を落として、しょんぼりとした声音で頷く。
この前、面接をして新たにヘルパーを雇うことになったのだが、それが白紙になってしまった。
「やっぱりねー」
職員ブースでその話を聞いた角田さんが利用者のご家族から貰った手土産のおかきをボリボリ音を立てながら食べる。
「来る頃合いなのに、全然来ないんだもん。おかしいと思ったわ。面接の時もなんか怪しかったのでしょ?」
と角田さんが東堂さんに聞く。
「そうですね。迷いがあるみたいな感じでしたし」
「どうして白紙に? レビューサイトの書き込みが原因ですか?」
柿谷君が東堂さんに聞く。
「それは……どうでしょうね。面接の時はレビューサイト問題の前でしたし」
「なら自分のせいではありませんね」
「あんた、本当に反省してるの?」
角田さんが柿谷君に対して目を鋭く細める。
「してます。してます」
柿谷君は両手を振って答える。
「でも、またヘルパーの募集をしないといけませんね」
東堂さんが肩を落として言う。
「『外から』の派遣はどうなったんですか?」
私は東堂さんに尋ねた。そろそろ来てもおかしくはないのだが。
「それは大丈夫です。もうすぐ来る予定です」
しばらくしてレビューサイトでうちの老人ホームについてあれこれと書き込みを行った者の正体が判明した。
書き込んだのは柊木君ではなく、岩倉さんだった。
まさかの人物に私達は驚いた。清水さんはどうしてあんなことを書いたのか。あんなことを書くような人には見えないのに。
けれど、すぐに腑が落ちた。それも自然と。なぜなら、ここで働いているとどこかおかしくなるのだ。だから、清水さんはあんなことを書いたのだ。溜め込んだ鬱憤を晴らすように。
私達は利用者を見ると長く生きるとこうなるかと考えしまう。
介護士に本心ではどう思われているのか。
利用者には生きる喜びはあるのか。なぜ生き続けるのか。生きる意味は。生きる価値は。
もし私達が歳を取り、彼らのようになれば……。
ああ。いっそのこと……。
そんないけないことを利用者のオムツ替えの時に彼らの尻を拭いたりしているとふと考えてしまう。
もしかしたら立ち場が変われば、私も清水さんのようにレビューサイトにあれこれ書いていたのかもしれない。
「まさかレビューサイトに書き込んだのが柊木でなく清水さんだったとは意外でしたね」
柿谷君はシンプルに驚いていた。
「で、どうするの? 訴えるの?」
角田さんが東堂さんに聞く。
「間違ったことは書いてませんし。裁判になれば負ける可能性もあります」
確かに嘘は書いていない。
勝ったとしても世間に賭け事のことがバレて大変なことになる。
「賭け事なんかするから」
角田さんが横目で柿谷君を睨む。
「待って下さいよ。あいつが無理矢理誘ってきたんですよ」
「とりあへず、清水さんには丁重に書き込みの削除を依頼しました」
「応じなければ?」
「その時は法的措置をとお伝えしております」
「どうして書き込んだのかはお聞きになったのですか?」
私は東堂さんに清水さんの動機を聞いた。
「そこは……何も」
東堂さんは申し訳ない顔で首を横に振る。
清水さんが書き込んだ明確な理由は不明。
でも、私には分かる気がする。この澱みの中で私達は窒息しそうな苦しみを抱えているのだ。
もしかしたら皆も薄々勘付いているのかもしれない。
それでも私達はあえて知らないフリをするのだろう。そしていつも通りの業務を今日も始める。
天井のシミ 赤城ハル @akagi-haru
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