3
ノラウェイダのキッチンは二つある。
デガード用、シャーレ向け。あれは実験室だ。少なくとも、ヒューマンの感覚からしてみれば、調理場と呼べた代物じゃない。備え付けの火口は、コンロというより溶鉱炉並みの火力がある。スパイスの大半も劇薬だ。
「なにしてる?」
寝入りの前に、何か腹に入れようとした俠侍郎は、キッチンで頭を悩ませている
「アンリに茶を淹れようと、したんだが……」
勝手がわからず立ち往生していたというわけか。
「倭克もまさか、薪に火着けてるわけじゃないんだろ」
「当たり前だ。だが、これは火が着かないではないか」
なにしろ、ケイオスクラフト、気密空間に備え付けの火元である。徹底した安全装置付き、加えて電熱式だ。
「どいてな。どのみち、熱い茶じゃ今の学者先生には向かねえよ」
凪爪を押し除ける、俠侍郎。まず業務用のどデカい冷蔵庫から、炭酸水とレモン果汁を取り出す。食糧棚からは、蜜を蓄えた保存瓶。
「それは、蜂蜜か?」
凪爪の疑問、無理もない。瓶の内容液は翡翠色。倭克では、蜂蜜といえば琥珀色が常識だ。
「違う、蟻蜜だ」
「あり?」
「色は虫の違いじゃなくて、花の問題だろうな。コーラルによって、常識なんて変わるもんさ」
スプーンで蟻蜜を掬って、ボウルへ垂らす。時間があれば火に掛けたいとこたが、学者先生の様子を見るに早い方がいい。
レモン果汁を注いでから、さらに適当なスパイスをミルに掛けて、粉末と一緒にかき混ぜる。
「手慣れているな」
「そういうお前は、茶を淹れるのが精一杯ってところか?」
倭克の政治は封建制と聞く。凪爪の身なりや言動からして、彼女の血筋が支配階級に連なるものだと想像が付く。台所で迷っていたのは、何も設備の不慣れだけが原因ではなさそうだ。
「私は
「料理ってのは生きかただ、役回りなんざ関係あるか。覚えておけば、人生豊かになる」
「……兎を捌くことはできるぞ」
父から教わった、あくまで生き抜くすべとして。
「そいつはまた極端だな」
充分に撹拌し、スパイスの風味がシロップへ移ったら網で漉してグラスに注ぐ。シロップを炭酸水で割り、氷を落として完成。
「持って行け、カルダモンとクミンの蟻蜜レモンソーダ割りだ。飲ませる前になにを入れたか話せよ、先生のアレルギーまでは知らねえ」
「二杯ある」
「ひとつはお前の分だ。悪いが、マタタビは切らしてる」
「猫又は猫とは違う。マタタビで酔ったりはしない」
骨格はもちろんだが、ザイルは必ずしも、容姿が似た動物の生態をすべて引き継ぐわけじゃない。知性の獲得は、生物の機能を変えるに充分な分岐点となる。
猫のザイル種の多くは、嗅覚にマタタビへ反応する受容体がない。猫がマタタビのにおい成分へ快感を抱くのは、その防虫作用を利用するための生態だ。知恵と知識を獲得したザイル種には、危険域の快楽を伴ってまでマタタビの利用を促す生態はあだになる。そのための進化だろう。
「礼は言う、ありがとう」
「……グラスは食洗機に入れとけよ」
水要らずの超音波洗浄機を指差す、他の設備と同じく安く買い叩いた中古品だ。デガードとは違って、食事に掛けるのは手間暇だけ。食材も、どれも安く買い叩いた物ばかりだ。
「うん、わかった」
グラスを両手にキッチンを後にする凪爪。尻目にして自前の飯を用意する。仮眠の前だ、軽い物でいい。
冷蔵庫から、ミルクと卵を取り出す。どちらも保存の効く乾燥粉末を買い置きしたが、使える内は新鮮な方がいい。ちなみに、卵は鶏卵でミルクは白だ。混沌の海には、蛇卵や青いミルクを嗜むコーラルもある。
溶いた卵液とミルクの混合液へブランデーを垂らして、食パンへ浸す。じっくり一晩漬け込むのが理想だが、贅沢は言うまい。必要な分だけ焼いて、残りは漬け置きすればいい。
ブランデーの香りを付けた黄金トースト。仕上げに、くだんの翡翠色をした蟻蜜を掛けて完成だ。料理好きな上に、俠侍郎は甘党だ。
「ブランデー……か」ひとり、知人へ思い至る。
「頼るなら、とりあえずは奴だな」
独りごちながらトーストを口へ運ぶ、柔らかな甘みと芳醇な香り、我ながらいい出来だ。腹心地を着けてひと眠りしてから、準備を整えるとしよう。
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