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バブルゲート。
混沌の海を渡るのに、欠かす事のできない航路。ゼリーフィッシュの軌跡を利用したこの道筋は、実に目測距離の二百四十分の一へ縮尺されている。
単純な計算で、二百四十日あたりの航行距離を一日へ短縮できる。燃料や船の耐久、搭乗員の負担を鑑みれば、恩恵は計り知れない。
近海のコーラルならまだしも、バッドランズからギャンブリラ、遠海へ渡るのなら航路からゲートを外す手はないだろう。
「学者先生、覚悟はいいか?」
ゲート進入を目前にするノラウェイダ。アンリが顔色悪く落ち着きのない様子で、操舵室へ居合わせている。
デガードと
「……大丈夫」
正直、俠侍郎が気掛けていたのには驚いた。バブルゲート航行中の事故、父の死因。偽りだったわけだが、三十年という年月はエルフにとっても決して短くはない。思春期――二十代だが――の真っ只中だったなら、なおさらの事。
信じ込むには充分。もちろん、心の整理を着けるのにも充分な時間だ。研究者としてゼリーフィッシュを追うのに、ゲートは避けて通れない。だが、ゲート酔いだけは一向に治らない。
「大船に乗ったつもりで居な。混沌の海で一等の船と、船乗りだ」
「……よく言うわ」
その口上のあとで漂流したのをまだ忘れてはいないが、気を紛らわすには丁度いい。
迫るバブルゲートへ、身を固くする。ゼリーフィッシュの泳跡を利用したバブルゲートだが、ただリング状の泡が漂っているわけではない。
途方もなく巨大な機械群が、泡の周囲を取り囲む。この機械群は主に二つへ別けられる。
ひとつはバブルゲートの定着、安定化を目的にした物理科学の機械。いわく、空間力学と情報力学の工学応用だという。物理科学はアンリの専門外、詳しいところはわからない。
もうひとつがアンリの専門分野、魔法科学の応用工学、ゲートを潜る生体に圧縮空間へ耐えられる魔法処理を施す。
生体の精神と肉体を構成する
生体はすべて、
それを防ぐための魂魄希釈だ。原理としては、希釈というより転写と表す方が的確か。対象の魂魄因子を転写、圧縮空間との緩衝材とする。一般にゲート酔いと言われる症状は、この過程で生じる副作用。
鏡合わせになった無数の虚像に自我が分散する、自分を見詰める自分を見詰め返す錯覚、交錯する錯視。慣れない者は、立ちくらみや嘔吐感。ひどい場合は、一時的な自己喪失に襲われる。
「うえ……」と青ざめる、アンリ。
「うお……」彼女を気掛けていた俠侍郎も、顔色を悪くする。ゲート進入と同時に引き落とされた通行料に。片道だけで六桁だ。寒い財布が、さらに凍える。
「アンリ、大丈夫か」
見かねた凪爪、アンリへ寄り添う。
「凪爪、彼女を奥へ。何か飲ませてやってくれ」とデガード。
「うん、そうしよう」
小柄な凪爪が、アンリへ肩を貸す。さすがに足腰を鍛えているだけあって、身長差を物ともせずにアンリをリビングへと連れて行く。
「さて、俠侍郎」
「なんだよ」
「まさかお前、本気で博打へ賭けようというわけじゃないだろう」
女癖に賭博狂までセットにしているようなら、とうの昔にこの相棒を見限っている。
「目当ては、闘技場だな?」
「ご明察」
闘技場。その名の通り、名前以上の意味もない。腕に覚えのある闘士を募り、勝敗を競わせる。ギャンブリラ、目玉のひとつ。当然、勝敗の行方は賭けの対象だ。
注目の対戦カードとなると、観戦チケットは高額満席。決闘の様子は、オンラインで混沌の海中へ配信される。それだけ大金が動き、ファイトマネーも相応の物になる。
「飛び入りのファイトマネーなど、たかが知れている。承知のはずだが?」
実を言えば、俠侍郎は一度だけ出場した経験がある。新参で一戦限り。安酒で一晩飲み明かすのがようやくの、はした金で。
「対戦カードと、売り出し文句次第だ。注目の決闘となりゃ、話題になる」
事実、名の知れた傭兵が飛び入りで観客を賑わせた例はある。
「どうやって売り込む。私達はただの運び屋、少々腕は立っても使い走りに誇る名誉もあるまい」
「元帝都兵、肩書きはそれだけで充分だろ」
「……正気か?」
帝都兵という経歴は、それだけで恨みを買うに充分だ。話題を呼ぶのは間違いないが、叫ばれるのは恨み辛みばかりだろう。
隠し立てするつもりもないが、表立って声高に経歴を叫ぶリスクくらいは、俠侍郎とて承知の上だ。
「憎っくき帝兵の勝ちへ張る物好きは少ねえ。俺のオッズは跳ね上がるぜ。そこにお前が賭けりゃ、資金の問題は片が着く」
「要らない恨みを買うぞ。ほとぼりが冷めるまで、仕事もやりにくくなる」
「どのみち、しばらく運び屋稼業は畳むしかねえさ。それに揺さぶりにも、うってつけだ」
「揺さぶり?」
「元帝都兵を名乗る男がはばかり知らずに表立って馬鹿騒ぎをやる。もしも、あのコーラルに帝都ゆかりの施設があるとすれば――」
「無視はできないというわけか。危ない賭けだな」
藪蛇のつもりが鬼に出くわす危険もある。
「どこかで博打を乗り越えずに、手の届く相手じゃねえさ」
ノラウェイダを自動操縦へ切り替える、俠侍郎。推進方式が魔導機頼みというだけで、ノラウェイダの操縦システムはおおよそが電子制御、混沌の海を渡るのに自動航行くらい噛ませてある。
「少し寝て来る。なにかあったら起こしてくれ」
操舵室を抜け出る俠侍郎、去り際に「スタンガンは使うなよ」と言い残して。
「やれやれ」とデガード、愛銃のグリップを撫ぜる「どうしたものかな」
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