「ここまでよ、バティスタ。もうやめて」

 膝を着く恩師へ拳を向けるアンリ、その手に鎖を巻き付けて。

「……ああ、そのようだ」

 バティスタ、彼女の手許で揺れる青い石を見上げて、哀しく微笑む。

「今度こそと、あなたは言った。今後こそ止めてみせようと」

「……ああ、たしかに言った」

「どういう意味? 以前にも、誰か私と同じような人を止めたということ?」

「違うな。止められなかったということだ」

「それは、誰?」

「君の父、私の恩師。ファーブル教授だとも」

 予想していた応え。頷けるかどうかは、別として。

「父は事故で死んだ。三十年前、あなたが聞かせてくれたことよ。父が乗り合わせたケイオスクラフトが、バブルゲートの事故で難破したと」

「その通り。航海会社もICCPでさえ、そう言ったさ。しかし三十年前、ゼリーフィッシュの解剖研究に帝都が関与している、その証拠を教授が掴んでいたとしたら、どう思うね」

「三十年前?」と疑問を挟む、俠侍郎。

「貴様がいつ志願したのかは知らないが、とうの昔にあのコーラルの政府は腐敗を抱えていたというわけだ」

「そうかい」

 何を語り聞いたところで、後の祭り先に立たずだ。

「……父さんは、帝都に殺された?」

 因縁。

「なぜ、わたしに嘘を?」

「当時の君は、まだほんの小さな子どもだった」

「もう二十四だった」

「数え年だ、当てにはならない。父親を失った痛みすら持て余していた君に、恨みと怒りを抱え切れたとは思えんよ」

「……今でも、そうだっていうの?」

「どうかな。復讐心というのは厄介だ。目には目をとは言うが、目に物を言わせるだけで終わらせられれば苦労はしない。誰しも、自分の受けた痛みを正確には量れないものだ。歯止めが効かなくなる。復讐を手段に留められない者は、復讐を望むべきじゃない」

「あなたも、そうだった……?」

「……どうかな」

 応えるまでに要した間は、如実に語る。ただの学者が、ああも実戦的な術式を練るまでに、いかほどの執念と研鑽が必要か。机上だけで済む話ではあるまい。実際に流した血の量は、数知れず。

「……私はね、今でも教授のやった事が正しかったとは思えない。君から父親をひとり奪ってまで、やるべきことだったのか?」

「そうね。わたしにもわからない」

 何しろ、今しがた真相を聞いたばかりだ。気持ちの整理すら、まともに付いていない。正直、父を嫌った事がないわけでもない。わたし独り残して死んだ父。嫌ってしまえば、悲しみは紛れるから。

「でもきっと、父さんはこう言ったはず。正しいことが、したいわけじゃない」

「ああ、そういう人だった。やらない後悔だけはしたくないとね。君も同じことを言うのか?」

「わたしはそんな風には考えられない。やらない後悔よりやる後悔だなんて、嘘っぱちよ。そんなことなら、誰も迷ったりしない」

 後悔という代物を相対的に考えようとするのが、そもそもの間違いだ。

「でも、先の後悔なんて知りようがないでしょう。わたしはただ、躓いても後で慰めにできる道を選んでるだけ」

「……前向きなんだか、後ろ向きなんだかわからんな。君は存外、父親似ではないらしい」

「そうね。誰に似たのかしら」

 アンリという人間は、別に父だけでできているわけでもないのだ。

「わたしは行く。そう決めたから」

 これは返すわとアンリ、バティスタへ鎖付きの因子結晶を差し出す。

「待て」とバティスタ。受け取った鎖が、にわかに形を変えた。鎖に含む鉱因子を操り、片眼鏡の鎖留を耳飾りへと生まれ変わらせる。

「餞別だ。持っていきなさい」

「ピアス? 初めて耳へ穴を開けた時、口うるさく説教したのは誰だった?」

「……認めるよ、私は狭量だった」

 もう説教はなしだと、ピアスを手渡す。

「いいえ。まだわたしには、あなたが必要よ。先生」

 必ず帰ると、アンリは受け取った。

「いつ振りかな、君からそう呼ばれるのは」

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