ゼリーフィッシュと呼ばれる生き物が居る。

 混沌に触れた生物は、その肉体の構成要素に関わらず、混沌へ溶ける。混沌の海は、死の海。生命の存在を許さない。

 ゼリーフィッシュだけだ。この海で泳ぐ事を許されているのは。

 名前の通りゼラチン状の身体を有し、ほとんどの個体の体色は限りなく透明に近い。

 傘状の器官を開いては閉じ、弛緩と収縮を繰り返す事で、傘の中心から後に伸びる触腕をたなびかせながら、混沌の海を泳ぐさまは神々しさと同時に、幽霊のような儚さを覚えさせる。

 混沌は質量を持たない。だから水を掻くようにしたところで、反動を得られるはずもないのだが、ゼリーフィッシュはそのようにして、泳いでいる。

 一説には、彼らは空間そのものを掻いて泳いでいるのだという。ゼリーフィッシュが泳いだ後に残る泡状の輪は、空間が圧縮された名残りだと。

 事実、あの泡のリングの中心を通る軌道は外から見た目測距離よりも、極めて短くなっている。その縮尺は、ざっと二四〇分の一。

「そのリングを魔法科学の空間理論で安定化させて運用されているのが、バブルゲート。果てのない混沌の海で、コーラル同士を繋いでいる航路よ」

 操舵室へ駆け付けて来たアンリが、ノラウェイダの間近を泳ぐゼリーフィッシュをつぶさに観察しながら講釈を垂れる。

 アンリの専攻は、ゼリーフィッシュ。研究対象を近くで観察する機会となれば、うってつけのご機嫌取りになると踏んで、キャノピーの向こうへゼリーフィッシュを見付けた俠侍郎達が、これ幸いと呼び付けたのだ。

「知ってるよ。義務教育だ、わざわざ学者先生に聞くまでもねえ」

 不貞腐れた様子の俠侍郎に、デガードが単眼を突き刺す。知識人の機嫌を取りたければ知識を披露させるのが一番だと、デガードが講義を頼み込んだのだ。

 いい生徒を演じなれば、目論みは果たせない。

「この学のない男は無視して、ゼリーフィッシュとコーラルの関係について、ひとつ講義を願いたいな」

「それこそ、知らないわけじゃないでしょ。子ども向けの絵本にだって描いてある」

「ゼリーフィッシュは、コーラルのタネって奴か? ガキの時分に読んだかもな」

 限りなく拡がる混沌の海を、気の遠くなるような時を掛けてゼリーフィッシュが遊泳する理由。

「そう。コーラルは、ゼリーフィッシュが辿るついの姿。あのバッドランズだって、かつては混沌の海を旅していたゼリーフィッシュだった」

「あのゼラチン質が乾いた台地に変わるとは、想像できんな」

「それだけじゃない。起源をさかのぼれば私達でさえ、彼らに行き着く。ゼリーフィッシュは全ての生命の源でもあるのよ」

「それは、なんとも空恐ろしくなる。神の御使いなどと謳われわけだ」

「シャーレは無神論者が多いと聞いていたけれど」

「信仰が薄いのは否定しない。そういう君はどうなんだ?」

「信仰心はない。でも科学者ほど、神様と真摯に向き合っている人種は居ないと思う」

 二人の会話をよそに、俠侍郎はいかにも退屈という態度を隠しもせず、キャノピー越しに泳ぐゼリーフィッシュを眺める。

「ちっせえな」

 目の前を泳ぐゼリーフィッシュは、ノラウェイダの船体と比べて一回り小振りだ。ノラウェイダは、船員の居住スペースも有する中型船。そう考えると生体としては埒外だが、バッドランズのようなコーラルへ変貌するとなると、たしかに小さい。

「そういう種だから。色んなコーラルがあるように、ゼリーフィッシュにも様々な種が居る。あなた達ならあちこち飛び回って見慣れてるんじゃないの、運び屋さん」

 言葉に棘がある。ノラウェイダの現状から、アンリは俠侍郎達の素性を疑っているらしい。

「そりゃあいつらも、あっちこっち泳ぎ回ってるからな。けど、あんなチビが一匹だけで泳いでるのは見たことがねえ」

「そうね」と疑心が晴れたかどうかはともかくとして、アンリは頷いた。

「あれは本来、群れを成して泳ぐ種」

「ゼリーフィッシュに外敵が居るとも思えないが。なぜ、群れを?」

「交配のため。そう考えられている」

「交配? ってことは、ガキをこさえるってのか。そりゃつまり、なんだ? 連中にもオスメスの区別があるのかよ?」

 俠侍郎が驚きをあらわにしたのは、何もゼリーフィッシュが雌雄同体だとか無性生殖をするだとか考えていたわけではない。

 ゼリーフィッシュに、そういう生き物らしい仕組みがあるとは思いも寄らなかっただけだ。これは俠侍郎が浅学だからというわけではなく――違うとも言わないが――一般的な認識だ。

「全ての種に共通して、内臓の一部へ二種類の差がある。これを雌雄による生殖器の違いだと考えられている」

「どうにも、はっきりしねえな」

「ゼリーフィッシュを解剖して確かめたわけじゃないから。透けて見える内部構造の観察から、そう推察されているだけ。彼らは、死体を残さないからね」

 ゼリーフィッシュは死と同時に、同体積の混沌へと転化する。

「ともかく。あの種のゼリーフィッシュが独りで泳いでいるのは妙ね」

 アンリが思案顔で、エルフ特有の長耳へ指を触れさせる。

「わたしが、定期便を使わずにあなた達を雇った理由は覚えてる?」

「たしか、バッドランズの近海をゼリーフィッシュの群れが通るからと――なるほど、あの個体はその群れの一部か」

「でしょうね。すでに観測隊が陣取っているんだけど、どうしても気掛かりなことがあってね。予測じゃ、群れが通過するのにまだ二日の猶予があったはずなんだけど」

 まさかとつぶやきながら、考える時の癖なのか耳をいらうアンリ。

「原因は、こいつじゃねえか?」

 俠侍郎が指差したのは、レーダー探知機の測定情報を映し出す、スフィアモニターだ。エンジンが停まったというだけで、もちろんノラウェイダの電気系統は生きている。

 球状のホログラフィックの中心点はノラウェイダの現在位置、中心よりほど近い場所の光点がゼリーフィッシュが位置する座標を示している。そして、ゼリーフィッシュから少し離れた場所に、もう一つの光点が新しく灯った。レーダー測定範囲に侵入して来たものがある。

「ずいぶんと懐深くまで入り込まれたな」

 電力の消耗を避けるため、レーダーからアクティブ波を飛ばす間隔を開けていたために探知が遅れた。そもそも探知が早かったところで、できる事は何もないのだが。

「やっぱりケイオスクラフトか」

 船外カメラの映像を、キャノピー内臓のディスプレイへ反映。混沌の海を背景にして、接近して来る船影が映し出される。

 映像から読み取れる船の外観を、CPUが識別。型式を割り出す。

 どうやら民間モデルの貨物船らしい。サイズはノラウェイダを優に上回る、艦艇クラス。

 船尾に背負う蒼白い鬼火からして、物理科学に基づく電気推進式。鈍い船速を見るに、カタログスペック通りのクーロン加速を利用したイオンエンジンだ。

「ただの貨物用民間機にしては、ずいぶん剣呑な装備だな」

 デガードの言う通り、貨物艇が積んだ兵装は明らかに民間機の自衛手段の域を超えていた。

 船体の上下左右、死角を潰すように配置されたレーザーカッター、アヴァロン社製のZ-01“アロンダイト”。

 近接防衛にしても、火力が高過ぎる。総計十六の高出力レーザー射出器は、あの貨物艇のカタログスペックに記載されたエンジンオルタネータの発電能力では賄い切れない。別途、ジェネレータを増設しない限りは。

 加えて、船の正面には多連装のミサイルポッドと思しき装備がある。

「奴ら、なにをするつもりだ?」

 誰にともなく問うデガード。

「まさか……! 待って、あの船を停めて!」

 思い至るところがあったのか、アンリが身を乗り出して叫ぶ。

 次の瞬間、彼女が上げる息を呑むような悲鳴と共に、デガードは疑問の答えを知った。

 ポッドの射出孔から、いくつもの飛翔体が撃ち出されたのだ。

 飛翔体の正体は、細く研ぎ澄まされた銛。悪辣にも返しが付いて、貫いた対象から抜けない仕組みになっている。銛の後端からはワイヤーが伸び、ポッドと連結。対象を捕獲、拘束するための装備だ。

 射出された銛の内、四つがゼリーフィッシュの傘を直撃。ワイヤーはおそらくカーボンナノチューブで被覆されたナノメタルワイヤー。四本もあれば、ゼリーフィッシュを牽引するのに充分な強度を有しているはずだ。

「なんてことを……っ!

 悲痛な怒りを込めて、アンリは貨物艇を睨み付ける。

「なんとかできないのっ!?」

「無理を言うなよ。そりゃ俺も、眺めてて気持ちのいい見晴らしじゃねえ」

 実際、俠侍郎は犬の糞を踏み付けたような面持ちだ。

「ああ、あまりにも罪深い」

 デガードも同意を示す。口腔の粉砕歯を唸るように回転させるのは、シャーレの舌打ちにあたるジェスチャーである。

「だがエンジンが動かせない以上、できることはなにもない」

「それは……」

 言葉を詰まらせる、アンリ。手許で握り締めた拳を怒りに振るわせたところで、たしかにどうしようもないのだ。

「おい、新手だ」

 俠侍郎が、レーダーに新たな反応があったのを指摘。船外カメラの映像を追加する。

 ディスプレイへ映し出されたのは、小型のケイオスクラフト。

 型式は、RW-13“バルキリー”。コーラル一つを丸々所有する巨大軍需企業“バルハラ”が開発した高速攻撃艇だ。

 バルキリーに民間仕様モデルはない。個人が入手するとなると、横流しか払い下げのどちらか。工場生産が終わって久しい事を鑑みると難しくはないだろう。

 旧式でこそあるが、性能は侮れない。

 単座式のコックピットより前方に配置された主翼。その両端に取り付けられた双発のプラズマジェットエンジンは、機体の軽さも相まって、現役機に勝るとも劣らない機動性を発揮する。

 次のレーダー波を飛ばした時、バルキリーは貨物艇を目前にするまで距離を詰めていた。

 迎撃。

「お仲間ってわけじゃねえらしい」

 肉迫するバルキリーを、レーザー射出器が迎え撃つ。

 アロンダイトは、レーザーカッター。初動をまず躱しても、最大四秒の照射時間で対象を追う。射出器は上下左右に十六基。何処へ逃れようとも、常に四基以上のアロンダイトから狙われるのだ。

 速さばかりでは捕捉される。

「巧いな」

 バルキリーは、無傷でレーザーの編み目を潜り抜けた。

 巧妙なマニューバの要訣は、左右のエンジンを覆う特徴的なカウル――花弁を模した逆噴射装置スラストリバーサにある。

 二つのスラストリバーサを独立して運用し、高機動航行からの急旋回を可能とする。

 複数のパーツからなる花弁状のスラストリバーサは、精緻な動きでスラスタの推力が向かう方向を変向し、姿勢制御スラスタとは別に、回転、昇降、水平方向の機動を補助。

 従来の偏向ノズルに加え、より能動的な推力変向スラストリバーサにより、バルキリーは高い運動性を得ている。

 稲妻のように鋭くレーザーの編み目を縫って、貨物艇の真下を潜り抜ける。いなや、バルキリーは機首を持ち上げた。同時に、撃発。機体前面、主翼へ内蔵した実弾兵装の機銃が火を吹く。

 相手は貨物船とはいえ、艦艇クラスの船体。機銃程度の火力では、焼け石に水。だが、火線が捉えたのは船体ではなく、ワイヤー。ゼリーフィッシュを拘束しているワイヤーだ。

 機銃の発する高速徹甲弾がカーボンナノ被覆を喰い破り、損耗したワイヤーが一本千切れ飛ぶ。

「ゼリーフィッシュを解放するつもりなのか?」

 己が戦果を見届ける間もなく、襲い来るレーザー光線に追い立てられたバルキリーは、右舷のリバーサを一瞬だけ閉鎖、右へ急旋回するや、リバーサを開放して再び稲妻のように飛翔する。

「解せんな。主砲を撃ち込めば済む話だろうに」

 バルキリーの主兵装は、機体下部に備えたレールガンだ。ノラウェイダの装備するイオン砲と比べると威力は劣るものの、消費電力を抑えられ速射性に優れる。バルキリーの機動性をいかんなく発揮できる、最適な兵装だ。

 船体に二、三発も入れてやれば、ひとたまりもあるまい。

「さてね。軍籍ってわけじゃねえだろうし、弾持ちが悪いのかもな。それか、中の密猟者に用向きでもあるんだろ」

「賞金稼ぎか?」

 広大な混沌の海、はびこる犯罪者を正規の法執行機関だけで取り締まるのは不可能だ。賞金稼ぎは、指名手配された犯罪者の逮捕権限が与えられた民間の委託業者。

 ただし、懸賞金が得られるのは、犯罪者を生け捕りにした場合のみだ。

 ゼリーフィッシュへ危害を与えるのは、いくつかのコーラルでは政治犯よりも重い罪となる。そんな大それた真似に手を付ける手合いとなれば、九分九厘、兇状持ちだろう。

「俺が知るかよ。本人に聞け」

「それはそうだ。ならどうだ、お前の見立ては」

「筋はいい」

 二人がやり取りしている間にも、バルキリーは二本目のワイヤーを切断する。アンリが、その様子をハラハラとした面持ちで見守っている。

「勘と機体性能に頼り過ぎだけどな。技と経験が伴ってりゃ、あんな曲芸染みた動きする必要はねえ」

「からいな」

「からくもなる。まずは射出器から潰せばいいものを、目的以外は見えてねえって飛び方だ。ありゃ早死にするね」

 そう言った矢先、躱し損ねたレーザー光線が、右舷リバーサの一部を切り飛ばす。

「言わんこっちゃねえ」

 ダメージは軽微。とはいえリバーサの機能が損なわれては、万全のマニューバを発揮できない。技量が充分なパイロットなら補う事もできただろうが、センスに頼って飛ぶ者はトラブルやアクシデントに見舞われた時、途端に崩れるものだ。

 果敢に三本目のワイヤーへ撃ち掛かるバルキリー。キレのない機動。加えて三度目となれば、その狙いは火を見るより明らか。

 飛んで火に入る何とやら。バルキリーの予測経路へ網を張ったレーザー網が、右舷のエンジンへ直撃する。

 熱線がエンジンカウルを焼き切り、プラズマエンジンの心臓部、電極が損耗する。すぐさまエンジンの火を落とし誘爆こそ免れたようだが、文句なしの致命傷である。

「ざまあねえ」

 舌打ちと共に、俠侍郎は視線を切った。

「そんな……」と希みを絶たれたアンリが、痛ましい声をもらす。これでゼリーフィッシュを解放する手立てはなくなった。パイロットの身を案じる気持ちもあるのかもしれない。

「ちょっと……!?」

 かと思いきや、彼女は沈痛な声から一転して、素っ頓狂な悲鳴を上げる。

「おい、俠侍郎!」

 デガードもまた、のっぴきならない声を発した。そうそうこんな声を出す男ではない。よほどの事態と身構えて正面に眼をやる俠侍郎は、腹を括った甲斐もなく度肝を抜かれた。

「ふっ、ざけんなあ!」

 船窓の向こういっぱいに、制御不能に陥ったケイオスクラフトを突き付けられれば、誰しも肝を潰すというものだ。

 推進剤を切らしたノラウェイダに、身を躱すすべはない。

 ――――!

 船体が激しく揺さぶられる。

 バルキリーから追突されたノラウェイダは慣性を乱し、錐揉みしながら、間近に迫りつつあったバッドランズへと堕ちてゆく。

「ちょっとこれ! どうするの!」

「落ち着け。座席に座って、ベルトを締めるんだ!」

「クソが! 腹も燃料を空欠でどうしろってんだ!」

 三者三様の悲鳴と怒号を、混ぜこぜにして。

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