ゼリーフィッシュ・スクランブル

楠々 蛙

Opening ゼリーフィッシュ・スクランブル

 混沌ケイオス

 重くも軽くもなく質量を持たない、人智の及ばない液体に付けられた名が、混沌だ。

 その混沌で満ちた果てなく拡がるこの空間を、混沌の海と呼ぶ。

 この海には海面もなければ、海底もない。上下の区別すらないのだから。

 それでも混沌の海には、寄る辺があり、渡る船もある。

 無限に闇が拡がる海へ散りばめられた無数の輝きこそが、その寄る辺。この混沌の海で生命の営みが許された世界、与えられた名は“コーラル”という。

 闇に浮かぶ灯火は、それぞれのコーラルへ昼夜入れ替わりに光を恵む、太陽と月の明かりだ。

 かつて人類は、自らのコーラルから見えるその彼方の明かりを星と呼んでいた。

 その正体が知れたとしても、輝きまでは変わらない。

 混沌の海を渡航するなら、よほど旅慣れている者であっても、ゾッとするほど途方もない光景に心を奪われる一瞬が訪れるというものだ。

「腹ぁ減ったなあ」

 だがそれも、心へゆとりがあっての話。衣食足りてなんとやら、貧すれば心も貧しくなるものだ。

 混沌の海を渡る船――通称、ケイオスクラフトが一艇、海を漂っている。

 ケイオスクラフトの推進方法は、大別して物理科学か魔法科学のどちらかに基づいたものになるが、見たところ、このケイオスクラフトは魔法工学によって設計された、因子推進ジェットエンジンを積んでいるようだ。

 双翼を拡げる怪鳥のようなシルエット。

 かつて悪名を欲しいままにした独裁軍事コーラル、旧“帝都”の局地制圧用ガンシップ、八咫烏やたがらすをベースにしたカスタム機。

 ペットネームの由来にされた三基のメインスラスタは、五基に増設。その代わり、制圧用の強力な魔導機アーティファクト兵器は、全てオミットされている。

 武装といえば、実体弾兵装を格納したガンポッドと、因子推進ジェットエンジンの内部タービンから供給される電力を利用した重金属イオン砲。いずれも特筆する事もない物理工学の兵器で、ケイオスクラフトの自衛手段としては、ごくありふれたものだ。

 本来なら主翼に記されているはずの軍籍を示す記章は塗り潰されて、その上から『NoraWayDa』とペンキで殴り書きされている。

 ノラウェイダ。それがこのケイオスクラフトが背負う船号だ。

 ノラウェイダの船首へ位置する操舵室で、聞くだけで情けなくなる腹の虫の音がする。

「腹減った」

 年の頃は三十五、六。

 短く切り揃えた黒髪に、奥底へ熾火を宿した炭色の瞳。着古したフライトジャケットへ袖を通したヒューマン種。

 混沌の海で最も個体数が多いとされる人類種へ属する男が、空きっ腹を撫でて腹の虫をなだめすかす。

「その音をやめろ、俠侍郎」

 この男、名を俠侍郎きょうじろうという。

「いい加減に気が滅入る」

 言ったそばから、また虫を鳴かせる俠侍郎に、隣へ位置する副操縦席から硬質な声音が文句を付けた。

 渋みの強いバリトン。だがその声質は、男性的というだけにしては、やや硬さが過ぎる。

 黒く染め上げた革製のトレンチコート、その袖口から見えるのは、ヒューマン種とは似ても似つかぬガンメタルの膚。

 高く襟を立てたハードボイルドな着こなし。口許を覆い隠した相貌には、二酸化ケイ素を主成分にしたレンズを嵌め込んだ単眼が覗く。

 まぶたと同じ役割を持つ絞り羽根が、強い光源もないのに半分ほど閉じられているのは、それがいわゆる“ジト目”に当たる表情をあらわにしているからだ。

 そう、彼には感情を形作るだけの知性がある。決められた役割を果たすためだけに作られるロボットとは違うのだ。

 サイバネ技術によって身体機能を拡張して機械の身体を得たサイボーグというわけでもない。彼らは生まれながらにして、鋼鉄の肉体を有するからだ。

 シャーレ

 雌雄の区別を持ち、有機体とは大きく異なるものの性交渉を経て生まれ落ちる、極めて珍しい無機生命の人類種だ。

 このシャーレ種の男は、俠侍郎のビジネスパートナー。名はデガードという。ヒューマンからしてみれば老いも若いも区別が付かないが、本人の談によると、俠侍郎の三倍は生きている年かさだ。といっても、シャーレの平均的な寿命は百五十。シャーレの九十歳は、ヒューマンでいうところの壮年期にあたる。

「好きで鳴らしてるわけじゃねえ」

「つくづく不便だな、ドゥターというやつは」

 卵黄ドゥターというのは有機的な人類種を指す言葉だが、使うのはもっぱらシャーレばかりで滅多に耳にするものではない。俠侍郎は例外だ。デガードの皮肉で、耳タコである。

「うるせえ、くそシャーレ。俺は、雨粒一つで錆びたりゃしねえ」

 売り言葉に買い言葉で、俠侍郎がやり返す。

 さて、いい年をした男が二人、年甲斐もなく皮肉の応酬をしているのは、ノラウェイダがガス欠に陥ったがためだ。

 混沌の海で推進力を失ったケイオスクラフトは、残された慣性に従って、この海を漂うのみである。

 もちろん先述の通り、混沌の海にも寄る辺はある。

 例えば、操舵室のキャノピーから覗く浮き島がそれだ。闇の中、砂と岩ばかりの荒涼とした島が支えもなしに浮かんでいる。

 ここから見る限りではちっぽけな浮き島だが、それは遠近感の問題で、実際に進入してみればノラウェイダの船体は、砂山に埋もれる石ころのようなものだろう。

 バッドランズ。

 それがあのコーラルの名だ。

 形状は平坦フラット。太陽と月は、一つずつ。太陽はコーラルの規模を考慮すると、ひどく大きい。昼間の日差しは強く、砂と岩ばかりの厳しい環境を持つコーラルだが、人里はある。

 食糧と燃料には事欠くまい。このまま慣性に任せれば、あと半日で流れ着く。問題は、それまでこうして空腹に耐えねばならないという事だ。

 食うものはもう、調味料以外は卵の殻すら残っちゃいない。

「元はといえば、デガード。こうなったのはお前のせいだ」

「私が?」

 じろりと睨む俠侍郎に、デガードはキュイ――と音を立てて絞り羽根の開きをさらに狭くする。

「前の仕事のアガリ、メシ代につぎ込んだのはお前じゃねえか」

「しかたあるまい。我々の食事は、なにかと値が張るんだ」

「今回のは桁が違ったぜ」

「ドワーフが掘り当てた銀鉱石だぞ、値千金だ。機を逃せば次にいつ巡り会えるか、わかったものじゃない」

「だから箱詰めの銀を、即金で買い付けたってのか」

 シャーレの主な栄養源は、鉱物だ。有機体が肉を食うように、硬い鉱石資源を経口摂取する様子は中々に見応えがある。

 なんでも、有機生命の胃にあたる臓器には特殊な酸化酵素を分泌する機能があり、卑金属貴金属を問わずに酸化する事で生じるエネルギーを糧とするらしい。

 肉体を構成するのに必要な物質は、腸に該当する臓器で還元して身体へ取り込む。案外、有機体とそう変わりない。最後に不要な錆を排泄するのもそうだ。

「必要な出費だった」

「よく言うぜ」

「そういうお前はどうなんだ、俠侍郎」

「……俺がどうした」

 何やらカウンターの兆しをみせるデガードに、俠侍郎が身構える。済ました顔をしているが、デガードの食糧事情も俠侍郎と同様だ。買い付けた銀鉱石は、すでに錆になっている。余分な金属は、ネジ一本も残っていない。

 つまりデガードも内心穏やかじゃないのだ。

「また行きずりの女へ入れ込んだようじゃないか」

「なにを根拠に……」とうそぶく俠侍郎だが、顔にはっきり図星と書いてある。

 何を隠そう、この俠侍郎という男はすこぶる女癖が悪いのだ。

「出発前、やたらと香水の匂いを染み付かせて朝帰りをして来ただろう。気付くなという方が無理がある。メリュジーヌ、いかにもハルシャフの女あたりが好みそうなブランドだ。私の嗅覚は誤魔化せんよ」

 デガードの嗅覚は後付け、イヌ科の鼻に匹敵する嗅覚素子を身体に埋め込んである。シャーレは、サイバネ移植への抵抗が少ない。肉体的にも精神的にも、拒絶反応が少ないのだ。

 彼らはタトゥーを入れるよりも気軽に、アクセサリ感覚で肉体をサイバネ拡張する。

「またぞろ値の張る装飾でも貢いでやったか。今頃は、質屋帰りの女が満足げな顔をしているだろうよ」

 俠侍郎の女癖が、その惚れっぽさへさらに輪を掛けてタチが悪いのは、女を見る眼がまるでないという事だ。この男が引き寄せた女難へデガードが巻き込まれたのは、枚挙にいとまがない。

「相手の顔も見てねえで、利いた風なことを言うじゃねえか」

「学ばん男だな。いい加減に下半身で物を考えるのはよせ。まったく、タンパク質で身体のできた奴はこれだから困る」

「――いい加減にして」

 空腹で気の立つ二人を、仲裁する声が一つ。

 声の基調は知的なアルトだが、端々にまだ世間に擦れていないソプラノの雰囲気がある女の声。

「客をよそに操縦士同士で痴話喧嘩? まったく、行き届いたサービスね」

 これみよがしな皮肉を浴びせられて、俠侍郎とデガードは一様に振り返った。

 まず眼を惹くのは、彼女の髪色だろう。

 白金から糸を紡いだかのような、美しいプラチナブロンドが女のわずかに仕草に合わせて、さらりと揺れる。

 あるいは、蒼い瞳に見惚れる者も居るだろう。この混沌の海とは違う、透き通るようで水底に深い蒼を湛える海と同じ色を秘めたアクアマリンの瞳は、一度惹き入られた者の心を掴んで離すまい。

 目鼻立ちも、この世のものと思えない美しさだ。

「アテンダントを雇う余裕はないのでね」

 デガードに有機体の女へふしだらな興奮を覚える趣味はないが、それでも美術品と見まごう彼女の姿形を見て何も思わぬ朴念仁というわけではない。

「こいつは旅客船とは違う。操船以外はセルフサービスと最初にことわりを入れといたはずだぜ」

 意外なのは、俠侍郎に熱を上げる様子がない事だ。そういえば、女とあればデガードと同じシャーレ種にも手を出し得る俠侍郎だが、エルフへちょっかいを掛けた事はない。

 俠侍郎の好みはともかくとして、そうエルフだ。

 髪色、虹彩、目鼻立ちよりも特徴的な長い耳、ピアスを飾る長い耳が彼女の属する人類種を如実に語っている。

 エルフ種は、見目麗しい容姿と特徴的な耳を有する人類種だ。魔法の素養に優れ、極めて長命。知識欲が強く、学問の徒を多く輩出している。

 彼女もまた肩に白衣を羽織っている姿を見ればわかる通り、例に漏れない知識の探求者だ。

 名は、アンリというらしい。

「そう。海を漂うだけのことを操船と呼ぶとは知らなかったわ。遊覧船を雇ったわけじゃないのよ」

「バブルゲートが使えてりゃ、今ごろ到着してる。ゲートをくぐる段になってケチ付けて来たのはそっちだろう」

「ゲートを使わなくとも、バッドランズまではそんなに掛からない。そのための燃料を揃えるのに充分な前金を、きちんと支払ったはずよ」

 前金。痛いところを突かれた。その前金が何処に消えたのは、言わずもがなだ。

「まったく、混沌の海で一番の運び屋だなんて言葉を信じてたわけじゃないけど。もう少しマシな働きをしてくれてもいいんじゃない?」

 運び屋、俠侍郎とデガードの生業。ノラウェイダを足にして混沌の海を股に掛ける、アングラ御用達のスマグラー。

「今さらグチグチ抜かすなら、定期便でも使えばよかったんだ。まあ、向こう半月は待ちぼうけを食っただろうけどな」

「そうした方がよかったかもね。このままじゃ寿命が尽きかねないわ」

 先述の通り、エルフは極めて長命だ。

「あと半日もありゃ慣性で目的地に着く。あんたの余生にゃ、毛ほどのこともないだろ?」

「時間は貴重だわ、誰にとってもね。期待しないで待っておくから」

 冷たく言い残して、アンリは操舵室を去って行く。

「珍しいな、俠侍郎。お前が女を相手に釣れない態度を取るのは」

「……エルフは苦手なんだ」

「まあ、お前の趣味は置くとしてだ。このままでは後金を減額されても文句が言えん。どうにか彼女を機嫌を取っておきたいところだが」

「わかってるよ。だから今、頭を巡らせてるんだ」

 などと俠侍郎は言うものの、こうも腹の虫が鳴き止まないのでは巡るものも巡らない。デガードとて同じこと、鳴く虫は居なくとも、空きっ腹には変わりない。

 混沌の海を漂う船で男達はしきりに頭をひねるものの妙案は浮かばずに、エルフの寿命が尽きて行く。

 そんな折に、福音は訪れた。

 もっともそれは、トラブル付きではあったのだが。

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