ゼリーフィッシュ・スクランブル

楠々 蛙

Opening ゼリーフィッシュ・スクランブル

0-1

 混沌ケイオス

 それが、この海の名前だ。

 上下左右の区別なく四方を満たす、色も熱も重さも持たないこの液体を混沌と呼び、その混沌で満ちたこの海を、混沌の海と呼び習わす。

 この海は、生命の存在を許さない。

 混沌にひとしずくでも触れた生体は、その身体を構成する物が何かに関わらず、何かの童話の人魚のようにあぶくと消える。

 まあ、それは物のたとえだ。

 人魚が失恋したからといって泡になる事はなく、ひとつの例外さえ除けば混沌の海にあぶくは起きない。

 混沌に触れた生体は、他の何も残さず、ただ混沌へ溶けるだけという。

 果てもなく拡がるのは、死の海だ。なのに何故、こうも美しいのか。

 輝き。

 光の粒が、視界の八方を埋め尽くす。

 気の遠くなるほど遠くの彼方に見えるのは、“世界コーラル”の灯火だ。

 混沌の海に無数に散りばめられたコーラルの周囲を巡り、昼夜入れ替わりに光を恵む、太陽と月の明かりである。

 かつて人類は、自らのコーラルから仰ぐ彼方の灯火を星と呼び、そこに風情を感じていた。

 その正体が暴かれたとしても、その輝きの色までは変わらない。

 混沌の海を渡航するなら、よほど旅慣れした者であっても視界一面を埋め尽くすこの途方もない景色に、息を呑み心を奪われる一瞬が訪れる。それが人情というものだろう。

「腹ぁ、減ったなあ」

 ただしそれも、心にゆとりがあっての話だ。衣食足りてなんとやら。貧すれば、心もさもしくなるだろう。

 混沌の海に浮かぶ、船が一艇。

 世界間航行船インターコーラルケイオスクラフト。通称、ケイオスクラフト。

 船体に積んだ、数えて五基もの因子推進エレメンタルジェットエンジンは静まり返り、ただ慣性飛行に任せて海を漂っている。

 船体は、艦艇級の大きさに及ばないものの、搭乗員の居住スペースまで有する中型船だ。

 双翼を怪鳥のように広げた独特なシルエット、また物理工学ではなく魔法工学に基づいた推進技術。

 ケイオスクラフトに造詣の深い者が観察すれば、その船が軍事コーラル『帝都』の軍船、“八咫烏やたがらす”というガンシップだと気付いただろう。

 同時に、シルエットと推進方式以外は原型を留めぬほど改修を施されている事も察しが付いたはずだ。

 ベース機である八咫烏のエンジンは、命名の由来となった妖鳥の足数と同じ三基のはずが、二基も増設されて、入れ替わりに局地制圧を目的とした魔導機アーティファクト兵器が全て取り外されている。

 武装といえば実体弾兵装を収納したガンポッドと、因子推進エンジンの内部タービンから発電された電力を利用する荷電粒子砲。いずれも物理工学の武装である。

 この混沌の海では、何とか自衛ができるだろうという程度の火力だ。軍用船と呼ぶには頼りない。

 そもそも軍籍を示す記章が見当たらない。その代わりとばかりに、右翼へ『NoraWayDa』とペンキの殴り書きが記されている。

 ノラウェイダ。

 それがこのケイオスクラフトが背負う船号だ。

 その船内、船頭に位置する操舵室に、聞くもさもしい腹の虫の音が響く。

「腹が減った」

 我が身の空き腹を嘆いて、情けのないため息をもらす男が一人。

 年の頃は二五、六。着古したフライトジャケットへ袖を通したヒューマン種、混沌の海で最も人口が多いとされる人類種の成人男性が、空っ欠を訴える虫をなだめるように腹をなでる。

 短く切り揃えた黒髪に、熾火を底に燻らせた炭色の瞳。彼の生まれたコーラル、武佐志野むさしのでは、ごくありふれた容姿だ。

 この男、名を俠侍郎きょうじろうという。

「その音はやめろ、俠侍郎。聞いてるだけで、気が滅入る」

 同じく、ノラウェイダの操舵室。俠侍郎の隣の副操縦席から、硬い印象のある声がつぶやきを発した。

 聞いた者の全てが、男性的な声と喩えるであろう、低い声音。だがその声の硬さは、ただ性別ばかりが由縁とも思えない。

 少なくとも俠侍郎のような、ヒューマン種からしてみれば。

 黒革を縫製した丈の長いトレンチコートを着流すのは、およそヒューマン種とは似ても似つかぬ、メタリックの膚。

 外套と同じ黒革の中折れ帽子、その庇から、何処か理知的な青い彩光を湛えた単眼が覗く。

 頭と胴体、四肢を備えた体構造。それはヒューマン種と変わりない。だがその身体を構成するのはタンパク質ではなく、鋼鉄だ。

 ひとつ切りの眼窩にも、有機的な角膜や水晶体ではなく、二酸化ケイ素を主成分にしたレンズがはめ込まれ、自ずと発光している。

 まぶたと瞳孔の役割を担う、真鍮で構成された絞り羽根が、強い光源もないのに半分ほど閉じられているのは、それがいわゆるジト目の表情を作っているからだ。

 そう、“彼”は感情と知性を持ち合わせた、知的な生命だ。

 ロボットやマシンではない。強制労働や手段を意味する人工物の名を彼らに向けるのは、差別的に捉えられるだろう。

 サイボーグとも違う。身体機能を後天的にサイバネ技術で拡張した者とは違って、彼らは先天的に、生まれたその時から鋼の肉体を備えているからだ。

 シャーレと呼ばれる彼らは、雌雄の区別を持ち、有機体とは大きく手法を違えこそすれ性交渉を経て子を成す、無機物生命の人類種だ。

 このシャーレ種の男は、俠侍郎のビジネスパートナー。名は、デガードという。ヒューマン種には、見た目からは若いとも老いているとも見分けが付かないが、本人の談によれば、俠侍郎の倍は生きている年かさだ。

「好きで鳴らしてるわけじゃねえ」

 言ったそばから、俠侍郎の腹がなんとも気の抜けた音を鳴らす。

「つくづく不便な身体だな、ドゥターというやつは」

 卵黄ドゥターというのは、有機的な人類種を指す言葉だが、口にする者といえばシャーレ種ばかりで、滅多に耳にするものではない。

 俠侍郎は例外だ。もっぱらデガードのもらす皮肉で、耳タコである。

「うるせえ、くそシャーレ。俺の肌は、雨粒ひとつで錆びたりゃしねえ」

 売り言葉に買い言葉で、俠侍郎がやり返す。

 さて、いい年をした男が二人、年甲斐もなく皮肉の応酬をしているのは、ノラウェイダがガス欠に陥ったがためだ。

 この混沌の中で推進力を失ったケイオスクラフトは、残された慣性に従って、ただこの海を漂うのみである。

 もちろん、混沌の海にも寄る辺はある。

 例えば、操舵室のキャノピーから覗く島がそれだ。

 星明かりを散らばめた闇の中、砂と岩ばかりの島が支えもなしに浮かんでいる。

 ここから見る限りではちっぽけに映るものの、それは遠近感の問題で、実際に進入してみればノラウェイダの船体など、砂山に埋もれる針のようなものだろう。

 バッドランズ。

 それがあのコーラルの名だ。

 形状は|平面《フラット。太陽と月は、それぞれ一つずつ。ほとんど砂と岩しかない厳しい環境のコーラルだが、人里はある。

 そこまで行き着けば、食料と燃料は事欠くまい。このまま慣性に任せれば、あと半日で流れ着く。問題は、それまではこうして腹の虫が空腹を訴えるのを聞くしかないという事だ。

 食料はもう、卵の殻すら残っちゃいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る