勘違い

「あれ? 道人、今日は部活はないのかい?」


 画材道具を背負って屋上前の踊り場に到着した采奈は、僕と、すでに設置されたイーゼルとキャンバスを見て、目を丸くする。



「休んだんだ」


「どうして?」


「だって、今日は新多も朝雨もいないだろう? 采奈を助けられる僕しかいないから」


 今日は水曜日。


 新多は雨の日以外はラグビー部の活動があるし、朝雨が入っている新聞部は水曜日と金曜日は活動日である。



「なるほど。今日ボクを助けられるのは道人しかいない……左ウイングのレギュラー候補は道人のほかに三人もいるのに」


「は?」


「一昨日、ボクに愚痴ってたじゃないか。サッカー部だとポジションがないって」


「うるさいなあ」


 愚痴っていたのはたしかだが、イジられるとさすがに腹が立つ。とはいえ、口の悪さは采奈の真骨頂なのである。



 采奈は、「落ち着け」と言わんばかりに、僕の肩をポンと叩く。


 そして、背負っていたリュックをイーゼルの前に下ろすと、あぐらをかき、自らの書きかけの絵をじっと見つめる。



 隣に突っ立っている僕は、采奈のつむじの渦の中心をぼんやり見る。



「道人、どうやって美術室に入ったんだ?」


「え? どうやってって、普通に入ったけど」


「鍵は?」


「掛かってなかったよ。中にすでに美術部の人がいたから」


「それなら、なおさらどうやって入ったのさ?」


「だから、普通に」


 采奈が何を疑問に思っているのか、僕にはよく分からなかった。



「普通にって、道人は美術部じゃないだろ? どうして美術室への入室を許可されたの?」


「え? 普通に『入って良いですか?』って訊いたら、『入って良いですよ』って美術部の人が」


「イーゼルは?」


「『持ってて良いですか?』って訊いたら、『持ってて良いですよ』って」


「驚いた。道人は美術部員に好かれてるんだね」


 そんなことはないと思う。別に普通のことだ。


 むしろ、采奈が、自らが美術部員でありながら、ほかの美術部員を敵視しているのだ。


 どうやら、美術部員の方も、二年生三年生の先輩を中心に、采奈のことを「障がい者のくせに横柄だ」と嫌っているらしい。



 采奈の愚痴が始まる前に、僕は話題を変える。



「采奈、次は青色?」


「え?」


「次は海を描くのかなって」


 僕がイーゼルに置いた采奈の絵は、書き途中のものであり、全体が素描されてはいるものの、色が塗られてるのはまだほんの一部だ。


 素描も、少なくとも素人が見た限りだと、何が何だか分からない線の集合である。


 ただ、采奈が今描いているのは港町である。なぜなら、昨日、本人がそう言っていたからだ。



「海は描こうと思ってる。ただ青ではないね。どちらかというと赤に近い」


 素人目ながら、僕は、采奈のことを天才だと思っている。


 「ほかの美術部員とソリが合わないから」という理由で、毎度美術室を飛び出し、屋上前の踊り場を作業場にしている采奈は、特に何か実物や写真を見るわけではなく、キャンバスと一対一で向き合っている。


 そして、采奈が描く絵は、写実的でも抽象的でもない。


 それはおそらく、采奈の頭の中にある映像そのものの描写なのだろう、と僕は思っている。感じるままに、しかし、正確に、采奈はキャンバス上にそれを油絵で表す。



「じゃあ、今から赤の絵の具を用意するよ。絵の具とパレットを借りるね。あと油壺と溶き油」


「道人、今日はやけに世話を焼くね」


「今日の『采奈お助け隊』は僕だけだからね」



 「采奈お助け隊」とは、左腕のない采奈を介助する団体のことである。


 采奈と同じクラスである新多と朝雨の二人が結成時のメンバーであり、二ヶ月遅れで僕が二期生として加入した。


 中学一年の十月現在、メンバーはその三人だけである。主な活動は、放課後、可能な限りこの踊り場に集まって、采奈が絵を描くのを手助けすること。



「サボりの多い不良メンバーばかりだから、采奈お助け隊もそろそろメンバー補充を考えた方が良いんじゃない?」


 采奈が右手で差し出したパレットを受け取りながら、僕が冗談混じりに言う。



「道人、誰か勧誘したい人はいるの?」


「勧誘かあ……メンバーの基準は?」


「うーん、基準はないね。朝雨と新多を誘ったのは、ボクの気まぐれだ」


 油壺に溶き油を注ごうと、溶き油の入った瓶を持ち上げた僕の手が止まる。



「……あれ? 今、『朝雨と新多を誘った』って言った?」


「うん。言った。それがどうしたの?」


「いや、だって、采奈お助け隊は、朝雨と新多が結成した団体じゃないの? 左腕のない采奈を助けようという善意で」


 「違う」と采奈がハッキリと言う。



「道人は勘違いしてるよ。采奈お助け隊は、作った団体なんだ」

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