第3話

 時の流れは、慌ただしく過ぎ去っていく。和人が還らないまま、季節は移り変わった。

 秋が深まり、山々が黄色く色づき始める頃、ようやく傷が癒え始めたのかメイや慶子、そして志乃も、時折笑顔をせられるようになった。


 和人が鹿屋基地から出撃してから一年半が経った、良く晴れたそんな春の日。

 志乃は自宅の縁側に腰掛け、久し振りに和人の手紙を読み返した。

 彼の手紙に一緒に綴られていたもの。それは、髪の毛の束であり、その下には和人の字で認められた辞世の句が残っていた。


この身をば 風に変えらむ 桜花

とき隔たるとも 山河忘するな


それは、和人が残した故郷ふるさとへの思いだった。吹き抜ける風や桜の花びらとなって散りゆくとしても、絶対に忘れないという思い。


「和人の馬鹿……」


 読み終えた後、空を見上げて呟いた。


「和人さん、あなたは風の果てを見たの? それとも其処そこにいるの……?」


 もちろん答えが返って来るはずはないが、志乃は空に向かって語りかける。


「あなたは勝手よ。いつもいつもあたしに心配ばっかりかけて、勝手に死んじゃって。馬鹿よ、馬鹿。あなたは大馬鹿よ!……だからあたしは許さない、絶対に和人のこと許さないんだから!」


 志乃は俯き、少しだけ声を震わせる。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて、


「だから思いっきりひっぱたいてやるから、いつかあたしがそこに行くまで、大人しく待ってなさいよ!」


 そしてもう一度、志乃は空を見上げた。

 その腕の中で、安心したようにすやすやと眠る新しい命を抱きながら。


「もうこの手紙を見るのは最後にするわ……あたしは、此所でこの子を立派に育ててみせる。それまでは、和人の好きな笑顔でいてあげるから……」


 その時一陣の風が吹き抜け、ヤマザクラの花弁を大きく散らしていく。

 桜の花弁は、志乃の髪を優しく揺らし、和人が遺した新たな命を祝福するかのように、赤子の上で旋風のように舞っていた。



――――――――――――――――――――――




 手にした古ぼけた手紙に、ポトポトと涙が零れ落ちる。

 かつて、曾祖母志乃が零したであろう場所が再び滲んでいる。普段あまり感情を露わにすることがない茉莉まつりは、この時一人静かに嗚咽を漏らしていた。

 自分が見た光景。それは決して映画やドラマではなく、自分が生まれる遙か昔、本当にあった事なのだ。

 大空に旅立つ前に、曾祖父和人が遺した命。それは時を経て、茉莉まつりの祖母となり、茉莉まつりの父が生まれ、茉莉まつりがいる。


 今、この世界に自分が生き、大好きな本を読んでいるのも、大好きな翔の事を考え心ときめかせているのも、愛する者を命がけで守ろうとした人間がいたからだ。

 星名せな茉莉まつりに言った言葉。その意味が、初めて理解できた。


 遙か遠き日、ヤマザクラに込められた一組の夫婦の願い。

 それが曾孫である自分に時を経て伝えられたのだと茉莉まつりは思った。

 戦時下という今では全く考えられない異常な常識や観念や道徳が蔓延する中で、一人の人間として、必死に生きた自分の曾祖父と曾祖母。


 その姿は美しく、そして悲しく……儚いものだった。

 だからこそ、茉莉まつりは泣いた。誰のためでもなく、二人のために涙を流した。





「曾お祖母ちゃん……わたしにこの手紙くださいね」





 どれくらい時間が経ったのだろう。ようやく体を起こした茉莉まつりは、泣き腫らした目をハンカチで拭って呟いた。

 彼女の部屋になっている仏間に戻り、掃除で埃がついた服から、浴衣に着替え、かつて志乃が和人に向かって言い放ったであろう縁側に腰掛けて、茉莉まつりは大空を見上げた。

 曾祖父の遺影の裏に密かに仕舞われ、数十年も隠されていた手紙。茉莉まつりはそれを大事そうに胸に抱えながら、仏間を後にした。

「あら、茉莉まつり? どこ行くの?」

 大きなスイカを切り分けて、広間に運んでいた母親の横をすり抜け、茉莉まつりは庭に出た。

 自分が見た和人と志乃の光景は、想像力豊かな自分の空想だったのかもしれない。


 それでも茉莉まつりは、あの声の主は和人と志乃だと確信している。

 二人が願いを込めたこのヤマザクラの木の下で読書をしていた自分に、二人が居るであろう青空からのちょっとした悪戯だったのかもしれない。

 それでも良いと茉莉まつりは思う。


 今みたいに好きであることを好きと言えない時代を曾祖父達は生きてきた。好きな人といつまでも添い遂げたい、生きていないと願いながら、それでもこの山河を守ろうとして散っていったのだ。


 その決意を知りながら、涙を堪えて送り出した曾祖母達の姿を茉莉まつりは忘れたくないと思った。家を出て階段を駆け上がり、この街が見渡せる高い場所に今、茜色の長い髪を靡かせた茉莉まつりが立っていた。

 そこは80年前、和人が夢を語り志乃が後押しをした場所であり、生前の志乃が何度も訪れていた場所でもあった。

 見上げた先に、8月の青い空が広がっており、その眩しさに茉莉まつりは思わず目を細めた。


「今、お二人は幸せですか? 曾お祖父ちゃん、曾お祖母ちゃん……」


 手にした和人の手紙を大空へ広げて見せた。


「あなた方の曾孫はこうして元気でいますよ!」


 その時、緩やかな風が一瞬強く吹き渡り、茉莉まつりの髪が風に揺らいで乱れ、手にした手紙が彼女の手から離れようとした。


「あっ!」


 慌てて手紙を持ち直し、茉莉まつりは空を見上げて微笑んだ。


「恥ずかしいからって、取り返さないで! 悪戯は『メッ』ですよ!」


 そして曾孫の声に、風は観念したかのように穏やかになった。

 それは和人と志乃の命日である8月11日のこと。茉莉まつりは天に向かって改めて声を掛けた。


「東京に戻ったら……わたし、彼ともっとお喋りします……勇気を出して!」


 その時、再び風が吹きよせ茉莉まつりの頬を優しく撫でるように吹き抜けていく。それは、かつて自分の進むべき道を選んだ和人を元気な笑顔で後押しするかのように優しく、そして力強く。

 和人の手紙を懐に仕舞い、茉莉まつりは静かにきびすを返すと静かにそれでもしっかりと歩みを進める。


 その上空を流れる風は、そんな少女の姿を何も言わずに見守り続けていた。

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