第2話

 南方からの原油還送が困難となって燃料事情が極度に逼迫していた日本は、ドイツから松の木より航空用ガソリンを製造しているという技術情報を元に、国内で同様の燃料を製造することが検討された。

 当初は松の枝や皮を材料にすることが考えられたが、日本には松根油しょうこんゆ製造という既存技術があることが林業試験場から軍に伝えられ、松根油しょうこんゆを原料に航空揮発油を製造する事となった。

 以来、日本中の松林が次々に伐採されていく。


「あんな物を掘ってまでなんて……いつまで保つのかな…………?」


 それは、誰もが思っていた事だった。

 しかしその事を口に出してしまえば『必勝の信念無き者』として、鉄拳制裁や罰直の対象となってしまう。そんな言葉を市郎が口にしたので、仲間の整備兵は驚いてシッ!と制した。


「ちょっと……滅多な事を口にするな……上官に聞かれでもしたら只じゃ済まないぞ!」


 押し殺すような声で市郎を窘めたが、少々遅かったようだ。


「おい貴様等! 今、何と言ったか!?」


 激しく詰問するような鋭い声が響き、市郎達の前に二等兵曹の階級章を付けた男がツカツカと歩み寄って来たので、彼等は慌てて作業を止め直立不動の姿勢を取る。するとすぐに市郎の頬に激しい衝撃が走った。


「ガソリンの一滴は血の一滴だ! それに今の話は何だ!? 必勝の信念無くして何とするか!!」


 その二等兵曹は、蹲った市郎の腹部を蹴り上げると、一緒にいた仲間2人を次々に『鉄拳制裁』した。それは『私的制裁』そのものであったが、海軍はそのような暴行が頻繁に行われていた。


「それ位にしておけ!」


 その時、整備兵達に制裁と言う名の暴行を続けている二等兵曹の肩を強く掴む者がいた。


「ああん!?」


 自らの行動を急に中断された怒りで血走ったまなこを向けた二等兵曹だったが、その表情が驚愕に変るのに時間は掛からなかった。彼自身が慌てて直立不動の姿勢を取り、素早い速さで敬礼を施した。


「失礼しましたっ! 大尉だいい殿!」


 特攻機の整備場に整備班以外の将校が顔を出す事など予想できなかったのであろうか、その二等兵曹は額に汗を浮かべていた。そして殴られて蹲っていた市郎等も、よろよろと起き上がり敬礼する。


「こいつは俺が乗る機体だ……その整備兵を負傷させられては困るのだ。言っている意味は判るな?」


 そう言って、二等兵曹の顔を覗き込んだのは和人だった。エンジンを覆うカウリングが外され、各種点検口が開いている愛機に手を添えて、和人は強く念を押す。


「判るよな? 判ったと言え!」

「はっ! 判りました! 大尉だいい殿!」

「ならば行け!」


 そう言って、和人は二等兵曹を格納庫から追い払った。

 尾翼に『03-103』と黄文字で描かれ、胴体の日の丸の近くには水色のストライプが施された『零戦52型乙』は、配備されてからずっと彼の愛機だった。

 市郎はこの『03-103号機』専属の整備兵であり、和人が転属になった時、機体と一緒に転属してきたのだ。

 もっとも第731海軍航空隊も、前に所属していた第203海軍航空隊も今は同じ鹿屋基地に展開しているので市郎の仕事に変化があった訳ではない。


「あの……中隊長殿!」


 市郎が、口から血を流しながらも和人に声を掛けるが、和人は構わずに手を振った。


「喋らなくていい。血が止まったら、またよろしく頼むぞ……貴様達にはいつも頼りにさせて貰っているからな」


 そう言って、和人は手に持っていた大根の包みを取り出し、市郎に手渡した。


「差し入れだ……近所の農家から無理を言って分けて貰った。食べるが良い」


 その時、少年である整備兵達の顔がパァッと明るくなった。

 民間に比べてまだ余裕がある筈の軍隊でさえ、もう日々の糧食さえ事欠く有様なのだ。


――判っている……この戦は俺達の負けなんだ……


 彼の愛機『03-103号機』にしても、他の機体の部品を使わなければ飛ぶ事すらできない。

 この731空に配備された『零戦』は初期型の『11型』から最新の『62型』までが混成している。表現を悪くすれば『各地から飛べる機体を寄せ集めた』編成になっている。

 同じ『零戦』でも、形式が異なれば性能は大きく異なる。これではまともな部隊編成など望むべくもない。

 司令官の小谷が麾下の『零戦隊』を戦力として見なしていない理由も此処にある。


「思えば『103お前』とも長い付き合いになった」


 大根を抱えて大喜びしている整備兵達の向こうにある愛機の胴体を撫でながら、和人は呟いた。

 正式名称『零式艦上戦闘機五二型乙(A6M5b)』……格闘戦での航空優勢を確保する為に開発された『零戦』としては、初めて速度強化と武装強化を図った機体であり、この形式から本格的な防弾装備が導入されている。

 和人がこの機体に乗ったのは前年の秋。すでに大尉だいいに昇進し、分隊長となっていた和人の専用機として配備されたのだ。そして和人は、敢えて自分に敵をひきつけるため、この『103号機』に水色のストライプ模様の塗装を施した。


 搭乗員の練度の低下が著しくなっていた状況下で、和人は、常に最前線で戦い、危うい所へ参入し列機を逃がす間、自身は最後までそこへ留まり、空戦では故障機に乗った部下を庇いながら戦う事もあった。

 所属する第203海軍航空隊が徐々に撤退を繰り返す中、常に殿しんがりを務める彼に付き従っていたのは、この『03-103号機』だった。


「こいつは他の『零戦ヤツ』より頑丈です。中隊長殿」


 気が付けば、和人の隣に市郎が立っていた。この機体の気付整備兵である市郎の言葉に、和人は「そうか」と答えた。

 この少年なりの気遣いなのだろう……和人の出撃する空は、いつも圧倒的不利な状況なのだ。この機体が無傷で戻ってきた事など一度もない。酷い時は機体が穴だらけになっていた事もある。

 墜落しなかったのは、彼が熱心に整備していてくれたからである。

 和人は一郎の肩にポンと手を置いた。


「いつもありがとうな、越智君!」

「中隊長殿……」


 ニカッと笑う和人に、市郎は目を見開いた。

 そして気が付いた……中隊長は死ぬ気だと……


「朝霧大尉だいい殿!」


 少年の汚れのない真っ直ぐな瞳が和人を捉える。


「小官は『103号機こいつ』の専属整兵として、大尉だいい殿には存分に戦って頂けるよう整備しております!ですから……」

――死なせるために整備する訳ではありません!

「どうか……ご武運を……」


 それは、市郎の心の叫びにも似た思いだった。

 見事な敬礼を施す年少兵に、和人も軍人として答礼して見せる。


「ああ、この機体は君の物でもあるからな……最善を尽くすよ」


 和人は表情を崩し、慶子に接するような優しい顔をした。


「酒保(作者注……売店)には、俺の名前で味噌と醤油を用意するよう言ってある……特整隊の皆でふろふき大根でも作って食ってくれ」


 和人なりの感謝の顕れであった。その言葉を聞いて大喜びする少年兵達の歓声は、重苦しい雰囲気包まれていた基地内に久々に響いた明るい声だった。

 その様子を見て、和人は穏やかに相好を崩す。

 しかし再び愛機を見つめる時には、その表情は一転して厳しいものへと変わっていた。

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