第6話

――だから何も言わず、いつものように振る舞って家を出よう

  今はみんなに、心配かけさせないでおこう


 そう固く心に誓っている。

 和人の表情がやけに硬くなっている事に志乃は気付いた。

 だから志乃は、小さな声で問いかけていた。何かを確かめるかのように。


「和人さん……何を考えているの?」

「もちろん、志乃のことだよ」


 それは嘘ではない。だが志乃は、その和人の言葉が嘘だと直感的に思った。


――和人さん……もしかしたら二度と戻って来ないかもしれない……!


 その不安で、和人に抱き締められている志乃の体が、がたがたと震える。


「ねえ……あなた……っ」


 しかし、志乃が和人の名を呼ぶよりも早く、和人は再び志乃の唇を奪っていた。


「志乃……愛している。だから何も心配しないで……」


 志乃の大好きな笑顔で和人は言って、そして三度みたび、志乃の唇を奪った。優しい和人の口づけを受けながらも、志乃は必死に考える。


――ねえ、和人。

  あたしはあなたがこれから何をしようとするのかは知らない

  だけど、あたしはそれを黙って見ていることしか出来ないの?

  あたしに何か、出来ることはないの?”


 程無くしてその『何か』を探し出した時、恥ずかしさで志乃の顔が真っ赤に染まる。女の自分から言うのは、はしたないかもしれない。

 しかし、夫である和人が求めているのなら、妻であるそれを与えてあげたかった。


「あなた……お願いがあるの……? 聞いてくれる?」


 和人は優しい笑顔で、黙って頷いて続きを促す。


「あたしに……あなたの赤ちゃんを頂戴……あなたとあたしの可愛い赤ちゃんを……」


 小さいその声に、思わず和人は目を見開いて志乃を見つめた。庭に立つヤマザクラのような色合いの浴衣を着た志乃は、そっと和人の腕に手を添えて、頬を染める。


 小さな時から、ずっと一緒に育ってきた。親同士が決めた許婚いいなずけであったが、和人の傍にはいつも志乃がいた。

 男勝りでお転婆な女の子……いつも生傷が絶えず、お医者さんからは、男の子に間違えられる事はざらにあった。ガキ大将に虐められた和人の報復で、木刀を振り回して、その子が泣きじゃくるまで追い回した事もあった。


“あんたは、あたしが居ないとダメなんだからね!”


 女学校へ進み、セーラー服を身に纏うようになっても、志乃のお転婆ぶりは健在だった。それでも志乃は、決して和人の夢を嗤わなかった。和人の夢を信じ、和人の背中を力強く推していた。


“あんたが風になるなら、あたしも連れて行きなさいよね!”


 そう言って、プイッと横向きながらも差し出された右手は小指だけが立てられていた。和人がおずおずとその指に自分の小指を絡めると、志乃はそれを盛大に振り始めた。


「ゆーびきりげんまん、嘘吐いたら針千本のーます!」


 三つ編みの髪を揺らして、青い空の下で笑う志乃に、和人はずっと心を奪われている。


 月日が流れ、志乃が和人の許婚いいなずけから妻になっても、その心は志乃に捧げたままなのだ。

 その志乃が今、和人に身を委ねている。心の底から愛しい存在が今、自分の腕の中に居る。


「志乃……」

「和人さん……」


 突然強く抱きしめられた。


「いつも君を想っていた……敵機に撃たれ、弾丸たまが操縦席の中を跳ね回った時でさえ、俺はいつも志乃を想った!!」

「かず……と……」


 志乃の瞳から涙が溢れ、和人はそれを優しく拭う。そんな自分の姿を和人に見られたのが恥ずかしいのか、志乃は照れたような素振りで顔を伏せた。


「志乃……俺の志乃……俺に顔を見せておくれよ……」

「うん…………」


 和人に促されて志乃は恥ずかしそうに彼に向って顔を向け、小さく笑って見せる。

 月明かりが志乃の白い顔を穏やかに照らし、端正な顔立ちに幻想的なまでの光彩を加えていく。


「綺麗だよ……志乃……」

「嬉しい……」


 月光が志乃のやかな唇を照らし、恥じらう表情は日頃の志乃を知っているからこそ婀娜あだっぽく見える。

 立ち上がり差し伸べられた手を握り返して、志乃は和人に寄り添いながら二人の寝室へと向かう。

 この晩、朝霧家には和人と志乃しか居なかった。メイの計らいで、夫婦二人だけにさせようと言う事になり、メイと慶子は、隣の春子の家に移動していたのだ。


「……義母様おかあさまに……気を遣わせてしまったわ……」

「うん……母さんと慶子には、感謝しておくよ」


 そう言って和人は、纏められた志乃の髪を解き、その長い髪を愛しそうに撫でた。

 大切な存在、自分の全てを投げ出しても護りたい存在……それは和人だけの女神。それは、触れる事さえ躊躇われる程の美しさと神々しさを放っていて、和人の手が震える。


「かず……と……」


 静かに志乃が和人を見つめる。


「あたしは此処にいるわ……今はあたしだけを見て……あたしだけを感じて……」


 躊躇いを見せる和人の背中を再び推していく。それに促されるように和人は志乃を抱き締めた。

 何もかもが愛しい。

 浴衣の裾からすらりと伸びた志乃の脚が、月の光を受けて青白く煌めき、その輝きを和人は特別な感慨を持って受け止めていく。思えば身内ばかりの質素な式を挙げてからというもの、志乃には夫婦らしい事は何一つしてあげられなかった。


 祝言しゅうげんを上げたかと思えば、取って返すように現地に赴いていた。

 志乃は口にこそ出さないが、きっと寂しい思いをしていた事は想像に難くない。

『贅沢は敵だ』とのスローガンの下、華美な婚姻など望むべくもなかった。


 こんな時代だからと人は言う。苦しさと厳しさに耐えながら、いつか必ず報われる日が来ると人は言う。

 それでも和人は思わずにいられない。


――愛する者一人護れなくて、何の為の力なのか!


 今、瞳を閉じ、すべてを曝け出して自分を受け容れている志乃は、和人にとって、この世で最も愛しい存在なのだ。

 満足に夫婦らしい生活を送る事さえできない自分を、志乃はずっと支えてくれた。それこそまさに銃後の支えだったのだ。


――志乃……俺は風になる……あの時君と交わした約束を俺は守る!


 志乃は何も応えなかったが、押し殺すように言葉にならぬ声を上げ続ける。和人の思い……そして想い……を全て受け容れる。

 それが和人の妻、志乃の答えだった。


 それぞれに相手を想う気持ちを紡ぐ二人を、月は静かに照らし続けていた。


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