第5話

 幼い頃から空に憧れた。

 鳥のようにどこまでも果てしない空を渡ってみたいと思った。


 そうやって空を眺める彼の傍らには志乃がいた。

 自らの背に翼は生えなかったが、志乃は和人に夢と言う翼を授けた。


“和人は言ってたよね……風になってみたいって……それって空を飛べば判るんじゃない?”


 海軍兵学校に入学するか迷っていた和人を、志乃は市街が見渡せる高台に連れて来て、その背中を押したのだ。

 風が濃紺のセーラー服で輝く白いスカーフとスカートの裾を僅かに揺らし、志乃は笑う。



“行ってらっしゃいな! あの蒼穹の世界に……そしてあたしに教えてよ! 風の果てを!”



 和人を見つめる志乃の瞳はキラキラと輝き、彼はその美しさに見惚れていた。

 許婚いいなずけでもあり、幼い頃から共に過ごした。いつかは夫婦になるんだろうなと漠然と思っていた心が激しく沸き立った瞬間でもあった。

 この女性を自分の手で護りたいと心の底から思った瞬間だった。


――風はいったい何処まで流れているのだろう?


 穏やかな風が和人の頬を優しく撫でるように吹き抜け、彼は再び夜空を見上げた。


「あなた……」


 その時、和人の横にそっと腰を下ろしている志乃の姿があった。


「何をしてるの、こんな所で?」


 縁側に座って和人が夜空を眺めていると、横から志乃の声がする。

 和人は振り向きもせずに言う。


「月を見てたんだ……志乃も一緒に見ないか?」

「いいわ」


 隣に腰掛ける志乃を、そっと見やった和人は、驚いたように目を見開いた。

 そこにはいたのは、美しい浴衣姿の志乃だった。

 戦時中であり、何時いつ空襲警報が出されるか判らないから、寝巻きを着て寝る者はおらず、いつでも逃げられるような普通の服装のままで寝る事のが当たり前だった。


 実際、志乃も先程迄作務衣さむえのような筒袖の標準服と、脇が開き紐で縛るもんぺを着用していたし、防空頭巾と水、乾パンや缶詰などの非常食と赤チンやガーゼなどの救急薬品などを詰めた非常袋を常に携行している。

 しかし、今彼女が身に着けているのは、庭に咲くヤマザクラのような淡い桃色の浴衣だった。


「志乃……それは……?」

「うん……やっぱり和人には、綺麗なあたしを見て欲しいから……」


 そう言って恥じらう志乃の白い顔が月の光に照らされて、美しく輝いている。そんな志乃を見た瞬間、和人は躊躇うことなく志乃を抱き寄せて唇を重ねていた。


義母様おかあさま達に……見られちゃうわよ……」

「構うものか」


 和人は言って、もう一度志乃の唇を求める。

 志乃は、そんな和人を拒もうとはしなかった。

 ただ黙って、和人の口づけを受け入れ、その身を和人に預けながら志乃は思った。


 今迄こんな外国人みたいな情熱的な行動を取る事は一度もなかった。

 照れ屋で恥ずかしがり屋で、涙脆くて男の癖にすぐ涙を浮かべる……だから、急に抱きしめたり口づけを求めるような事は決してしない……そんな人間だった。


 彼のいる『空の世界』とは、かくも過酷なものなのだろう。生き死にを掛けて一縷の望みを掛けて、天が垂らした『蜘蛛の糸』に縋りつくのだろう。このように行動すら変えてしまう程に……

 だから怖かった。不安で、志乃の全身が小刻みに震える。弱々しい表情で顔を一杯にして、志乃は和人を見上げた。


――ねぇ……あなたも特攻するの……?


 和人の唇、和人の温もり、両肩に添えられる和人の逞しい腕をその身に感じながら、声にならない声で訊ねてみる。

 本当は訊きたかった。だけど、怖くて訊けなかった。

 幼い時から一緒だった。許婚いいなずけとして、朝霧家に出入りし年齢の近い和人と志乃は、仲睦まじい様子を周囲に見せながら大人になって行った。


「大丈夫だよ、志乃」


 そんな志乃の心境を察したのか、和人は穏やかな声で呟いた。


「大丈夫だよ。志乃の為に俺は戦っているのだから……一回の体当たりで終わってしまう特攻より、何度も出撃して敵の飛行機を1機でも多く叩き落としたいから、そう簡単には死ぬつもりはない…………だから、安心して」


 もう一度、和人は志乃を抱き寄せる。和人の温もりを感じている内に、志乃の体から力が抜けていき、再び体を預けるようにその胸板に頬を添えて目を瞑った。

 そうされていると、不安でたまらない気持ちが次第に落ち着いていくのを志乃は感じる。

 だから、志乃には判らなかった。

 和人がその黒い瞳に決意の色を浮かべ、そして唇を噛みしめて悲しそうな表情で志乃を見つめている事に。


――何もかも喋ってしまったら……どれだけ心が楽になるだろう……?


 志乃を抱きしめながら、和人は考える。

 特攻隊配属前の、訣別の為の休暇だと言えたらどれだけ気が楽になるだろう。


 家族は……自分を幼い頃から可愛がってくれた妻の母親は……皆悲しんでしまうだろう。そして愛する妻は悲しむよりも先に怒ってしまうに違いないが、それでも気持ちは楽になるだろう、と和人は考える。少なくとも、大好きな人たちを騙しているという罪悪感に囚われることはなくなる。

 けれども、和人は口が裂けてもそれを言う訳にはいかなかった。


 言ったら最後、今以上の苦しみが和人に襲いかかってくることは間違いなかったからだ。

 そうなったら、決心がぐらついてしまう。日に日に悪化していく戦況……物資も燃料も不足し、故障や部品不足から満足に飛ぶことが出来ない機体が並び、飛ぶのがやっとな隊員達。ボルト一つ螺子ねじ一つが粗悪な物へと変わっていく現実がそこにある。

 無論、整備兵達も全力を挙げて、1機でも飛べる機体を増やそうと奮闘している。


 和人の機付きの整備兵は、まだ幼さの残る少年だったが、腕は良い……そして何より和人とは同郷であり、戦時徴用で鹿屋まで来ているのだ。そんな彼の頑張りがあってこそ、和人は思いっきり空戦に向かうことが出来るのだが、それでも押し寄せてくる大量の米軍機に圧倒されているのが現実だった。


――制空戦闘で出撃しても、数の暴力の前に消えゆくのかも知れない……


 あの海で見た光景は彼の未来だ。敵味方の区別なく撃墜された飛行機の油が円形になって、いくつも浮かんでいる様はこの世界の無常さを示しているようだ。


――それでも俺は……


 志乃の護る為なら、自分は命を落としても良いと思っている。志乃が戦争に怯える必要のない世界が作れるのなら、自分1人の命くらい捨てても悔いはない。だから和人は転属命令を受け容れた。

 もう、その決心を鈍らせる訳にはいかなかった。

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