第五章 訣別の時(1945年春)

第1話

 和人に与えられた3日間の休暇は、矢が流れて行くかの如く終わりを迎えた。それでも志乃は、その僅かな間片時も和人から離れようとはせず、嫉妬した慶子と奪い合いになる一幕もあった。

 夕方には、海軍航空隊の分隊長として活躍している海軍大尉だいいを一目見ようと、近隣から多くの人がやって来ていた。まるで厄災のようにやって来ては、虫けらでも踏み潰すかの如く機銃掃射を加える『グラマン』は、憎んでも憎み足りない相手だ。


 そんな敵機を鬼神のような戦いぶりで撃ち落としていく帝国海軍の『撃墜王エース』は、彼等の留飲を下げるのに十分な効果があったのかもしれない。

 そして、和人の存在は『変わり者』扱いされ、時には『非国民』と弾劾の声さえ上がってしまっていた志乃への風当たりを非常に弱める効果があった。


 是非にと促されてポツリポツリと話す空戦の話に彼等は耳を傾け、被弾した米軍機が墜落を始めるくだりには喝采すら起こった。そのような光景を見て、和人は志乃と顔を見合わせては苦笑してしまう。


 そして深夜になって二度目の甘い夜を共に過ごす。

 朝になり目覚めた時には、共に眠った筈の志乃の姿は其処にはなく、炊事場で鼻歌交じりに朝食の仕度をしていた。何より志乃の機嫌がすこぶる良いし、戦時中だと言うのに肌も艶々と輝いている。


 ずっと恋い慕っていた相手と結ばれ、正真正銘の夫婦になったのだ。浮かれるなと言う方が無理なのだ。

 とは言え、その幸せな時間は束の間だった。



 ポーン、ポーン、ポーン……



 壁に掛けられた時計が午前11時を知らせる時計を、和人は静かに見つめた。

 急行は午前11時半に駅を出る。その急行に乗らないと帰隊時間に間に合わなくなってしまう。

 だから和人は後ろ髪引かれる思いを断ち切るように立ち上がった。


「……じゃあ、そろそろ俺は行きます」


 紺色の将校の軍服に身を包んだ和人は、制帽を被り目の前の母と妹。そして妻とその母に向かって敬礼する。


「和人。体に気をつけて頑張るのよ」


 和人の手を固く握りしめ、優しい笑顔でメイは話しかけた。


「カズ兄さん、手紙書いてね!」


 本当は悲しいのに、慶子は無理に明るく振る舞う。


「……和人君。必ず帰って来て、志乃を幸せにしてあげてね」


 春子は和人に微笑みかけた。


「心配しないでください、母さん、慶子、お義母かあさん……」


 和人は微笑んだ。

 志乃は少し先まで送ってくれるから別れを告げるにはまだ早い。

 だが、母と妹、そして幼い頃から和人を本当の息子のように可愛がってくれた妻の母。これが見納めだと思うと、和人の胸が悲しみで支配される。

 彼女達との思い出が、和人の頭の中を駆け巡る。

 いつも優しく和人を育んでくれた母、小生意気だけど可愛い妹、妻に似て優しく美人だった妻の母。

 彼女達との思い出が、走馬灯のように駆け抜けてきて、和人の胸に込み上げてくるものがあった。

 だが、泣く訳にはいかない。


――ようやくここまで耐えたのだ、あと少しじゃないか。


 だから和人は痛い位に唇を噛みしめ、再度敬礼した。


「それでは行って参ります……さようなら」


 何もかも判っていながら気丈に笑顔を見せる母と目が合い、最後だけ、和人の声が震えた。


――母さん……ありがとう……


 踵を返して立ち去る和人と寄り添うように付き従う志乃の背がメイの視界の中に広がり、メイは刹那に手を伸ばした。

 しかしその母の腕は空しく空を彷徨い、去っていく我が子に届く事はなかった。

 メイの脳裏に、この世に生を受けたばかりの赤子の声が甦る。まだ何も知らない小さい手。腕に抱かれて乳を吸い、静かに眠る男の子……それが和人だった。

 泣き虫で怖がり……死について知った時の怯えで母に縋りつく甘えん坊……でもその中に宿っていたのは、父親譲りの海兵の血だった。


――和人……!!


 声にならない声で叫んだ。狂おしい程に大きな声で叫んだ。決して聞こえない母としての叫びだった。


 やがて、メイは息子の背中を見送ってから、慶子と共に家に戻った。


「慶子……母さんはお父さんに和人のこと、報告してくるわね」

「うん」


 何も知らない慶子は、明るく頷く。

 慶子を隣の部屋に残してメイは仏壇の間に足を踏み入れると、夫の遺影の前に座って話しかけた。


「弘道さん。和人……行ってしまいましたわ……」


 メイの瞳から、今までこらえていた涙が溢れ出した。そして、仏壇に昨日和人が捧げた白い封筒を両手で抱き締めた。それが何なのかは、中を見なくても判っている。しかし、声を出して泣く訳にはいかない。隣の部屋にいる慶子に気付かれてしまうから。


「あの時も……弘道さんは仰いましたわね。『何も言うな』って……だから私は『あの時も』……『今日も』和人に何も言いませんでした」


 ポタリ、ポタリと畳がメイの涙を吸い込んで行く。


「私は女であることが辛くてたまりません。無力な自分が嫌でたまりません。私達には、黙って男達を見送ってやることしか出来ないと言うんでしょうか……!?」


 少しだけメイの独白が鋭くなった。


「もうすぐあなたの元へ和人は行きます。その時は和人のこと、褒めてあげて下さいね?」


 泣き笑いのような顔になって、メイは仏壇の前に突っ伏す。

 それでも口元を手で押さえ、必死に声を殺して泣き続けるのだった。


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