第3話

 その日の夕食は、思いのほか豪華だった。

 米、酒、醤油、塩……そうした食料品は配給制になって久しい。けれどもどこに隠してあったんだ、と和人が思うほど食卓にはメイと志乃の母である春子の心がこもった料理が並べられていた。


「和人が帰って来る日まで、春子さんと二人で、ずっと、とっておいたものなのよ」


 にこやかに笑って、メイは言った。


「……ありがとう、母さん。それからお義母さんも……」

「気にしないで、カズ君。せっかくカズ君が帰ってきたんだもの。これ位の事は当然よ」

「さあさあ、和人。お上がりなさい」

「はい……いただきます」

「いただきます!」


 ひと際大きな慶子の声が部屋一杯に響き、幸せなひと時が始まった。


「ほら和人。これ、あたしが作ったの! 食べてみて?」


 和人の隣に座った志乃が、料理の一つを指差して言う。


「うん、美味しいよ!」


 和人がそれを一口食べて言うと、志乃は嬉しそうに微笑んだ。


「良かったわね、志乃。愛しのカズ君に褒めて貰えて?」

「お母さん!」


 春子が茶化すと、志乃は顔を赤くして叫ぶ。


「あらあら、大変。お顔が真っ赤よ。志乃ちゃん、熱出てきたんじゃない?」

「もう! 義母様おかあさままで!」


 メイも言うと、志乃はますます顔を赤らめて俯いた。


「じゃあ私も、『シノちゃん』じゃなくて、これからちゃんと『お姉ちゃん』って呼ぶことにするわ」

 久し振りのご馳走に舌鼓を打っていた慶子が追い打ちを掛ける。幼い頃からの知り合いだから無理もない。


「慶子! あんたまで何を言うのよ!」


 食卓を囲んで起こる大きな笑い声。和人も一緒になって笑いながら、優しげな視線を母や恋人たちに向ける。

 そしてふと、一時的に故郷に帰る和人達731空の隊員を前に、司令官の小谷が言った言葉を和人は思い返していた。


”思い残すことの無いよう、家族に別れを告げてきて欲しい……”


 和人は、目の前で明るく振る舞う母や妹、そして恋人の表情を見つめる。

 そしてそれは、巧く行っているように和人には思えた。

 妻は和人に幸せそうに寄りかかり、妻の母は和人の母親と楽しそうに語らう。妹は久し振りに帰ってきた兄にあれこれと話しかけ、誰もが心から和人の帰郷を喜んでいるようだった。


 そして誰も、和人がこの日どうして故郷に帰って来たのか、その真意には気付いていないようだった。

 いや、母はもう感付いているに違いない。けれども、何も言おうとしないから、和人も敢えて語ろうとしなかった。

 そんな母の心配りが、今の和人には有り難かった。


――これでいいんだ、これで……


 心の中で和人は繰り返す。

 けれども、和人の心は晴れない。


「何時迄いられるの、和人さん?」


 箸を止めて志乃は訊ねる。


「うん、実は明後日あさってのお昼の急行に乗らなきゃならないんだ……ごめんね」

「何よそれ……それじゃあ何の為に帰って来たのか判らないじゃない!?」


 残念そうな表情を浮かべる和人に少しだけ、志乃は頬を膨らませる。だが、すぐにその表情に笑みを浮かべて言った。


「まぁ、こんなご時世だから仕方ないけどさ……」

――変わってないな、志乃も……


 くるくる変わる志乃の表情を目にし、和人は思わず微笑んだ。


「ごめんな……今度はもっと沢山休暇を貰って来るから」

「絶対よ、約束だからね!」


 その笑顔を和人は愛しく思う。メイも慶子も春子も、和人が護るべき大切な人達なのだ。


 東京を始め、日本各地でB-29による大規模な爆撃が行われ、毎日多くの人々が命を落としている。戦闘員・非戦闘員・老若男女関わりなく焼夷弾をばら撒き、一方的に虐殺をしている。

 もし自分にもっと力があれば、敵地に単身乗り込み、この残忍な虐殺を企てる司令官カーチス・ルメイを八つ裂きにして地獄の坩堝るつぼに叩き込んでやりたい。


 空襲を受けて業火に包まれる市街地……その上空を悠然と飛び行く銀色の機体。和人も迎撃命令を受け、愛機『零戦』で飛び上がってみるも、空気の薄い高空では、搭載するレシプロエンジンは性能が落ちてしまう。


 そんな高空でも十分な酸素を供給できる排気ガス・タービン過給機……所謂いわゆるターボ・チャージャー……を装備したエンジンを持つB-29は、飛んでいるのがやっとの状態の和人機の更に上空、高度10,000メートルの空を悠然と飛び去って行く。


 そう『零戦』では、超高空を密集して編隊を組むB-29には太刀打ちできないのだ。

 仮に達しえたとしても、排気タービン過給機のない飛行機では、飛ぶのがやっとの状態であり、B-29の上空から逆落としに一撃をかけると、高度は一気に2,000メートルも3,000メートルも下がり、再び高度をとって次の攻撃をかけることなど不可能だった。

 鈍重な爆撃機相手に、まさに手も足も出ない……戦闘機乗りにとって、これ程屈辱的な事はない。

 そして焼夷弾による業火に晒される街の上空に立ち昇ってくるのは、建物や人の焼ける臭いだ。

 和人は飛び去って行くB-29の大編隊と燃える街のはざまで、悔しさと自分の非力さを噛みしめ、コックピットの中で一人慟哭していた。


――それでも……俺は志乃達を護るんだ……何が何でも!


 もうあんな思いはしたくない……それだけが、今の和人にとって心の糧なのだ。

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