第2話

「でも、今はそんなにゆっくりしていられないんだ……明後日あさっての昼の急行に乗らなきゃならない……」

「…………!?…………」


 その言葉を聞いた瞬間、メイの目の前が真っ暗になる。

 どうしてこの時期になって和人が帰郷したのかを、そしてどうしてそんなに早く帰らなければならないかを、メイは瞬時に理解していた。


 和人には、生還を期することが出来ない出撃がこの先待ち構えているのだと。

 だからこれは、家族に別れを告げるための休暇なのだと。それは、母としての直感だった。

 絶望感で思わずその場に倒れ込んでしまいそうになるのを、メイは必死の思いで押し止める。


――和人はもう、すっかり大人の男になってしまった。


 そんな男が決意したこと。私達には、黙って見送ってやるしか出来ない……

 だからメイの口をついて出たのは、努めて温かい言葉だった。


「とにかく立ち話もなんだから、二人とも、お上がりなさい」

「ありがとうございます、義母様おかあさま……でもあたし、先に家に帰って母に知らせてきます。和人さんが帰って来たって」

「そうね、春子さんも和人のこと、本当の息子のように可愛がってくれていたから……うん、知らせてあげるといいわ。でもまたすぐに戻って来てね。今夜はご馳走を作るから。良かったら春子さんも来てちょうだい」

「はい、じゃ、行って来ます! また後でね、和人さん!」


 和人に向かって手をひらひらと振ると、志乃は朝霧家の隣にある自分の家に向かって駆け出した。


「何だ、カズ兄さん。もう志乃さんと会っていたのね!? やっぱり先に恋女房に会いたいよね、うんうん」

「な、何言ってるんだ、慶子。志乃と会ったのはたまたまだよ、たまたま!」


 慶子は和人に、悪戯っぽく笑いかけると、和人の顔が赤く染まった。


「そっかな? まぁ、そういう事にしておこうっと! 私はどっちでもいいんだけどさ」

「ほらほら、和人も慶子も早く家にお上がりなさい……それから和人。お父さんにもちゃんと挨拶しておくのよ?」

「判っているよ、母さん」


 和人は言って、縁側から家に上がった。

 懐かしい畳の匂いが和人の鼻をくすぐり、和人は思わず表情を綻ばせた。


――帰ってきたのだな……我が家に……


 軍服を着たまま畳の上に大の字になって体を伸ばす。

『零戦』の狭いコックピットの中で、天地がひっくり返るような機動をして、敵機と命のやり取りをする世界に身を置く者として、この静寂な世界は束の間の休息とも言える。


「カズ兄さん。お茶が入ったけどどうする?」


 広間から慶子がひょいと顔を出して訊ねると、和人は体を起こして彼女に応えた。


「うん、ありがとう」


 そう返事をすると、視線を仏壇の間に移して妹に声を掛けた。


「先に父さんに挨拶しておくよ……」

「……うん」


 慶子が別の部屋に行ってしまったのを確認してから、和人は仏壇の間に足を踏み入れ、父親の遺影を前にきちんと正座し帽子をその脇に置いた。


「父さん。ただいま帰りました」


 和人は呟く。

 そしてもう一度周りを見回して誰もいないのを確認してから、思い切ったように言った。


「父さん……今度第731海軍航空隊に転属が決まりました。『天雷部隊』で、主目的は特別攻撃を行う事です……それで今日は家族と訣別する為の休暇です……」


 和人の父、弘道は和人と同じ海軍士官だった。海軍兵学校を卒業した職業軍人で、一年の殆どは船の上という根っからの船乗りだった。


 だから殆どメイが女手一つで、和人と慶子を育てて来た。それだけに和人には、父親の記憶はそれほど多くはないし、寡黙な弘道は、家にいた時でさえも、それほど会話を交わしたことはなかった。

 和人が彼と同じ道に進みたいと言った時も、『そうか、しっかりやれ』と頷いただけだった。


 そして3年前の昭和17(1942)年6月。

 和人が少尉に任官され第38期飛行学生を拝命した直後、父は戦死した。

 乗っていた重巡洋艦『三隈みくま』が、『ミッドウェー海戦』で米軍の攻撃機の空襲によって撃沈され、弘道は他の乗組員達と一緒に艦と運命を共にしたのだ。


「父さん。父さんの好きだったウヰスキーを持って来ました」


 和人は制服のポケットから、小さなウヰスキーの小瓶を取り出した。


「父さんはよく、これを飲んでいたそうですね?」


 小瓶を開き、仏壇の前に置いてあった湯飲み茶碗にその琥珀色の液体を注ぐ。


「こうして、父さんと2人で酒を酌み交わしたかったです」


 和人はコップを父の遺影に掲げて見せると、ウヰスキーを一口飲み、ふうっと息を吐き出してから、父の遺影に向き直る。


「父さんは俺が特別攻撃に加わる事を怒りますか? それとも褒めてくれますか?」


 再びウヰスキーを口に含み、和人は小さく笑った。


「正直迷いました。いや、本当は今も迷っています。母さん、慶子……みんなを悲しませたくなかったから。でも、もしかしたら母さんは何か勘づいているかもしれません」


 一瞬だけ、和人の表情が苦しげに歪む。


「だからといって、この事は誰にも……母さんにも言いません。普段と変わらない笑顔で、俺はここを出て行くつもりです……だけど、父さんなら判ってくれますよね? 自分の命より尊いもの、命を賭けて護るべきものは必ずあるって事を……」


 訊ねる和人の声は、穏やかなものだった。


「俺にも命を賭けて護りたい人がいます。それは志乃です。志乃を護るためだったら、この命を差し出しても構わない。そう思っています」


 しかし、その穏やかさの中に真摯な感情がこもっていた。やがて和人は軽く笑い、そして用意しておいた白い封筒を父の遺影の後ろに置く。

「俺の髪と爪……入れておきます。では俺は征きます。母さんと慶子のこと、ずっとずっと見守ってあげて下さいね」

 和人は立ち上がり、海軍の将校らしく父の遺影に別れの敬礼を施した。



――――――――――――――――――――――――


筆者解説

当時の日本軍は陸軍が『大尉(たいい)』と呼び、海軍は『大尉(だいい)』と呼んでいました。


以下駄文……執筆中の脱線……

因みに『キャプテン』は米軍だと陸軍は『大尉』ですが、海軍は3階級上の『大佐』になります。TOPGUN-maverick-でトム・クルーズ演じる『マーベリック』は大佐になっており、劇中でも『キャプテン』と呼ばれてました。

それに船の船長を『キャプテン』と呼びますし……では、陸軍の『大佐』は『カーネル』です。


それでフライドチキンの人形、カーネル・サンダースって、サンダース大佐なんでしょうかね?と思ってググッたら「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)だそうです。奥が深い……ていうか、フライドチキン食べたい(;'∀')



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