第四章 帰郷(1945年春)

第1話

「変わってないな」


 昭和20年4月、故郷の駅舎に降り立った和人の、それが第一声だった。


 伊予の片田舎。

 町の名物でもある桜の花が見事に咲き渡り、駅舎を桜色に染めており、その柔らかな春の風に混じって、花弁が和人に降り注いでくる。


 思えば2年と数カ月前に、この駅から旅立ったのだ。駅舎を見つめてそんな感慨に耽る和人だった。

 和人がその身に纏っているのは海軍の制服、制帽。南洋のテニアンやパラオと各地を転戦し、階級も大尉だいいになっており、第319戦闘航空隊の分隊長になっていた。


「……行くか」


 和人は駅舎を後にして、ゆっくりと歩き出した。

 桜は、どこまでも咲いている。

 まるで隧道トンネルを思わせる桜並木の中、花弁で覆われた地面を一歩一歩、その感触を確かめるかのように踏みしめながら、和人は歩いた。


 突然決まった帰郷だから、家には連絡していない。

 母も妹も、そして妻である志乃も、突然和人が帰ったら心底驚くことだろう。和人は皆が驚く様を想像して微笑んだ。


「志乃……」


 門を潜り我が家に辿り着いた和人は想い人の名前を呟く。和人の幼馴染みである最愛の妻の名前を。


 まさにその時、和人の足は急に止まった。

 これは偶然なのか、それとも運命なのか。彼は目を疑った。

 見慣れた場所までやって来た時、和人は最も会いたかった恋女房が、この辺りで一番大きなヤマザクラの木の下にいるのを見た。

 それは、桜の妖精のように可憐で、色白の顔と夕陽のような赤味がかった黒髪との、色の対比が鮮やかだった。

 髪を春の風になびかせながら志乃は桜の木に額をつけるようにして、視線を木の根元に落としていた。

 まさかこんなにも早く再会できるとは思ってもいなかった。会いたくて、抱きしめたくてたまらなかった妻が今、目の前にいる。


 彼は志乃に向けて、一歩足を踏み出した。もはや何も聞こえない、志乃以外に何も見えていない。

 それなのに、彼は言葉を発することが出来なかった。


――言葉を出したら志乃は消えてしまうのではないか?


 そんな恐怖に囚われて、和人は志乃に呼びかけることが出来なかった。

 もどかしそうに心の中で、和人は何度も愛する妻の名前を呼ぶ。


――志乃、志乃、志乃、志乃、志乃……


「志乃っ!!」と、ようやく声が出た。

 和人のその心からの叫びに、彼女は振り返る。そして、その目が驚きで大きく見開かれた。和人の大好きな志乃の瞳。和人はもう一度呼びかけた。


「志乃!」

「かずと……さん……?」


 震える声で彼女は呟く。信じられない、そんな想いが志乃の顔一杯に表れていた。


「ただいま、志乃!」


 和人は志乃に微笑みかける。だが、志乃は呆然とした表情のまま、その場に立ち尽くすだけだった。


「え……だって和人さん、帰るなんて一言も……どうして? 嘘……」

「ごめん、連絡が遅れて」


 和人は歩み寄って志乃の前に立ち、そっと右手でその白い頬に触れる。

「和人……? 本当に和人さんなの……?」


 小さな志乃の声だった。


「ああ、俺だよ……志乃」

「あたし、いつもこの木にお願いしてたのよ……和人さんが無事に帰って来られますようにって……」


 和人は口元に優しげな笑みを浮かべ、独り言のように呟く志乃を見つめる。


「そのお願いが……叶ったんだ……」


 つうっと、志乃の瞳から涙が零れ落ちるのを見た瞬間、和人は志乃の身体を固く抱きしめていた。


「ずっと志乃に会いたかった。何度も志乃の夢を見た……!」


 志乃の耳元で、和人は熱っぽく囁く。


「俺は志乃を抱きしめてる……志乃を感じている。これは夢じゃないんだな?」

「和人……さん……和人さん……和人っ……!」


 譫言うわごとのように繰り返し、志乃は和人の胸の中で激しく嗚咽した。

 懐かしい志乃の匂いを感じ、和人は志乃の華奢な身体をより一層の力を入れて抱きしめ続けた。

 ここは我が家の庭だ。誰はばかる事も無いのだ。もう二度と離さない、離したくない、と……


「馬鹿……馬鹿、馬鹿……! 全然手紙くれなくて、いつもいつもあたしを心配させて……!あたしも……和人さんに会いたかった。会いたかったんだからぁ……!」

「ごめん、ごめんね、志乃」


 和人は呟く。そして、こんな言葉が和人の口をついて飛び出していた。


「志乃、俺は君のこと愛しているよ」

「えっ……?」


 少しだけ驚いて、志乃は涙に濡れた顔を上げる。


『愛している』


 海軍に入る前は、恥ずかしくてなかなか言えなかったその言葉を、和人は自然に、そして何の気負いもなく口にしていた。


「……愛してる」


 もう一度和人が言うと、志乃は再び和人の胸に顔を埋めた。


「和人さん……あたしも、愛してるわ……!」


 2人の間にそれ以上言葉はいらなかった。

 和人はゆっくりと志乃の身体を離すと、志乃の唇に、自らのそれを優しく重ね合わせる。口づけを交わす2人に、桜の花弁がひらひらと優しく降り注ぐ。

 和人の優しい口付けを受けたあと、志乃は呟いた。


「……お帰りなさい。あなた……」

「ただいま、志乃」


 和人は優しく、志乃に微笑みかけた。その眼差しに志乃は頬を赤く染めたが、ハッと思い出したように和人から離れた。


「こうしちゃいられないわ! 義母様おかあさまとケイちゃんに知らせなきゃ!」


 パタパタと慌てるように駆けていく後姿を、和人は穏やかな眼差しで見つめていた。


――君はいつまでもそのままでいて欲しい……


 和人の母メイは洗濯物を干している最中だったが、和人の姿を認めた途端、せっかく洗ったばかりの洗濯物も放り出して駆け寄り、和人を抱きしめていた。


「和人……本当に和人なのね!?」


 涙ながらにメイは問いつめる。


「ただいま、母さん」


 和人は母に抱きしめられるままになっていた。


「兄さん!?」


 母が泣く声を聞いて、家の中から妹も飛び出してくる。


 和人の姿を見たとたん、慶子もまた母と同じように和人に抱きついていた。


「カズ兄さん!!」

「俺だよ、慶子……ただいま」


 母と妹の熱烈な出迎えに照れたのか、和人は顔をやや赤くして、それでも笑顔で妹に言う。慶子は和人の手を取って、ぶんぶんと振り回した。


「兄さんだ……! 本当にカズ兄さんだ!!」

「和人……立派になったわね」


 メイは溢れ出る涙を上衣の袖で拭いながら言った。


「えっ!? カズ兄さん、大尉だいいさんになったんだ!」


 慶子は目ざとく和人の襟章を指摘する。紺色の士官服の襟に輝く階級章は金線1本に桜が3つ。それは紛れもない海軍大尉だいいの証だった。


「うん、いっぱい敵をやっつけて昇進したんだ」

「すごぉい!ねえねえ、今度友だちに自慢してもいい? カズ兄さんが海軍大尉だいいになったって!」

「はは、好きにしたらいい」


 はしゃぐ妹とは対照的に、メイはやや厳しげな表情になる。


 軍人の妻であるメイは知っている。

 戦争で最も戦死する確率が高いのは、尉官や曹官といった中下級指揮官であることを。

 陸軍の幹部候補生制度、海軍の予備学生制度のどちらも、減り続ける下級指揮官の補充の為に設けられていることを。


 海軍兵学校を出ているからと言って、特権的に後方に回される訳ではないし戦死する確率は一般兵と変わらない。

 そして和人は海軍航空隊の操縦士だ。

 今年に入ってからは、頻繁にやって来て機銃を撃ちまくる『グラマン』や『P-51』と戦うのが任務だ。

 危険度は更に跳ね上がる。


 そして、和人の口から出てきたのは、メイにとっては決定的な言葉だった。

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