第十六章 窮地
影山沙希が自らの制服を破り捨て、威風堂々、こちらに向かって歩み寄ってくる姿を見て、祐真は目を丸くする。
制服の下から現れた、沙希が着用している変わった服のせいではない。確かに、スイムスーツというか、全身タイツというか、おかしな格好ではある。肌に張り付くようにぴっちりとしているため、くびれや豊満な胸が強調され、とてもエロティシズムを感じる。
これまで気づかなかったのは、長袖のブレザーや、黒タイツに隠れていたためだ。だが、あくまで注目点はそこではなかった。
祐真の目を引いたのは、沙希が通学鞄から取り出したある『物体』だった。どうやって収まっていたのだろうか、人の背丈ほどもある『鎌』。死神が持ってるようなイメージの武器である。それを沙希は鞄から取り出すなり、引き伸ばしたのだ。
薄闇に鈍く光る鎌を携え、沙希はそれこそ死神のようにゆっくりと近づいてくる。魔術師や退魔士でなくても、彼女が殺意に満ち満ちているのは、明確にわかった。
祐真は、横目でリコの様子を伺う。リコは落ち着いた風情で、沙希を見つめていた。
「祐真、離れていてね」
リコがそう警告し、祐真はリコの元から離れる。
それを合図かのように、沙希は手に持った鎌を振り上げた。
戦闘が開始されるのだ。これから。
祐真は不安に包まれながらも、少し前に行ったリコとの会話を思い出していた。
「罠にかける?」
リコが発した言葉を、祐真は鸚鵡返しする。
リコは頷くと、自身の細い顎に手を当てた。
「その退魔士は間違いなく、いずれ君に接触してくる。なら先にこちらから仕掛けて、罠にハメたほうが手っ取り早い」
「でもどうやって?」
「相手は僕らの情報がほとんどない状態だ。花蓮を『始末』したであろう淫魔と召喚主のね。だから、少しでも怪しい人物からのアプローチに対しては、容易く乗ってくるはず」
祐真ははっとする。テレパシーのように、リコの考えが見当ついたからだ。
「つまり、俺が影山さんにアプローチすればいいわけか」
祐真の出した答えに、リコは口角を上げた。白い歯がちらりと覗く。真珠のように綺麗だ。
「さすが祐真。察しがいいね。その通りさ。つまり、君のほうから彼女を誘い出すんだ」
祐真はふと不安に包まれる。
「でも攻撃を受けないかな? 向こうは始めから俺らと敵対してるんだろ?」
「こちらがクロだと判明するまでは、下手に手を出さないはずだよ。おそらく、まずは術にハメめようとしてくる。情報集のためにね。そこを叩くのさ」
リコは、ハエを潰すように、上下に手の平を打ち合わせた。小気味の良い音が、狭いアパートの部屋に響き渡る。
「それならいいけど……」
祐真は頭を掻く。それだけではない。懸念事項は他にもあった。剥き出しの火薬のような懸念が。
「えっとさ、リコは大丈夫なの? 演技とはいえ、俺が女の子にアプローチしてさ。あれだけ女子と俺がくっ付くのを嫌がっていたじゃん」
江実からのアプローチを無碍にしたのは、リコの嫉妬に対する憂慮があったためだ。惚れてしまった沙希に、一切アクションをかけなかったのも、同様である。
結果的には、そのお陰で事なきを得たが、ここにきて、リコが積極的にこちらを女子の元へけしかけるなど、本人は問題ないのだろうか。
祐真の疑問を聞いたリコは、目を見開き、驚いた顔をみせる。
「祐真、もしかして君は、僕に嫉妬して欲しいのかい? それはつまり、僕にそれだけ関心があるってことじゃないか」
リコは、純愛映画でも観た時のように、感動で目を潤ませた。泣き出さんばかりに、鼻をすする。
「嬉しいよ祐真。僕を受け入れてくれる気になったんだね。じゃあ、これから一緒に……」
いつもの『暴走』が始まり、祐真は深くため息をつく。近頃体調が悪そうだったが、ここの部分は普段通りらしい。
祐真は呆れ返り、腕を組んで言った。
「お前がその調子なら、沙希にアプローチしても問題なさそうだな」
リコは滲んだ涙を拭うと、頷いた。
「うん。僕の指示通りに動いてくれるならね。それなら、僕と祐真の仲に支障は出ないから。むしろ下手に放っておくよりも安心さ」
冗談か本気かわからない主張だが、嫉妬に対する懸念がないことは確かのようだ。
「ペナルティの心配はないんだよね? 彼女が退魔士なら」
リコは首肯する。
「うん。だから思いっきり戦えるのさ」
祐真は質問した。
「それで、俺は何をしたらいい?」
「彼女を誘い出すんだ。僕が指定する場所に。そうすれば、あとは僕が彼女と対峙して、『解決』してあげる」
リコの口ぶりから、戦闘にもつれ込むことは必至だろうと予測された。というより、それしか選択肢はないように思える。
相手は退魔士の『推進派』メンバー。花蓮と同様の思考を持つ連中ならば、こちらを狩りの対象と見做すのは間違いがないからだ。
「わかった。どこに誘えばいい?」
「人気のない場所かつ、怪しまれない程度に、学校から遠くない場所」
リコはその場所の説明を行った。高校の校区内にある神社である。
「そこまで沙希を誘導すればいいんだな」
「そうさ。詳しい方法はあとで教えてあげる」
リコの戦闘能力は、絶大である。これまで幾人もの淫魔や退魔士を退けてきた。しかも、相当余力を残して。
すでに祐真は勝利を確信していた。リコの作戦に従い、沙希をポイントまで誘導した暁には、再びリコの勇士が見られるのだと。
今回も確実な勝利が訪れるであろうと、祐真は楽観視していた。
だが――。
目の前で繰り広げられている光景に、祐真は目を見開いていた。
ちょっとした空き地のようになっている神社の境内。現在そこは、トマトを投げ合う祭りの時のような、真っ赤な鮮血に彩られていた。
原因は獣のように斬り合っている二人。いや、正確には一方が無残にも切り刻まれている状況だ。
戦闘が開始された直後、沙希は手に持った大きな鎌を振った。すると突風のような風圧が生じ、血飛沫が舞った。
祐真ははっとする。リコの右肩から、鮮血が噴き出していたのだ。刀にでも切られたかのように。
沙希は再度、鎌を振るう。巻き起こるつむじ風。リコは腕で顔をガードする。今度は、リコの両腕から、血が飛び散った。
「リコ!」
祐真は叫ぶ。しかし、リコは平然とした様子で、手を振り、応じた。
「大丈夫。平気さ」
リコは微笑んで答える。
「でも……」
祐真は続く言葉が発せられないでいた。今まで、余裕綽々、敵を一蹴してきた男なのに、ここにきて追い詰められているのだ。不安に包まれてしまう。
いや、その傾向は、シシーとの戦いの時も予兆があった。ようするに、少しずつ危険に陥るようになっているのだ。
原因はなんだろうか。リコの体調が優れないことと関係があるかもしれない。しかし、それも『なぜ』なのか。
祐真が憂慮している間も、戦闘は続いていた。やはりリコが一方的に押される形である。辺りは次第に、血に染まっていく。
祐真は、声が漏れないよう、自身の口を押さえていた。
準一級の魔具である『鶴首の鎌』を振りながら、影山沙希は強い違和感を覚えていた。
今のところ、リコと呼ばれたこの淫魔との戦いは有利に進んでいる。充分な手応えがあった。むしろ、ほぼ一方的と言っても過言ではない。
しかし、妙だった。この程度の淫魔に花蓮が遅れを取るとは思えなかった。彼女も一線級の退魔士なのだ。もしかすると、相手は何かしら汚い手を使ったのかもしれない、と邪推さえしてしまう。
そう思う反面、この淫魔との戦闘に対し、沙希はどこか空虚な感覚を覚えていた。幻影と戦っているような、薄っぺらさ。虚偽の強さ。
リコと対峙した際、確かに強い魔力と戦闘能力を感じ取った。戦いになったら、苦戦は必至だろうと。先ほどのボディブローも効いていた。勝負服がなかったら危なかっただろう。
だが、その強さがあるにもかかわらず、実戦での実力に差異があるのだ。
沙希は、リコへ攻撃を仕掛けながら、もう一つ、疑問を抱いていた。
この神社に着いた時、抱き付いた祐真から『肌』を通して得た情報。
召喚主の祐真は、淫魔から一切、精を吸われていないのだ。
喜屋高校に潜入した当初、召喚主の存在はすぐに突き止められると考えていた。通常、召喚主は淫魔に精を吸われる。退魔士である自分なら、その痕跡から対象を見極めることは充分可能であった。
しかし、楽観視から一転、困難を極めてしまう。なぜなら、精を吸われた痕跡がある者が、一人も発見できなかったためだ。
かといって、美帆の情報により、喜屋高校に、召喚主がいることは疑いようがない事実だ。彼女の情報は正確無比。魔術師の特殊捜査部門よりも上を行くのだから。
それにより、淫魔探索が後手後手に回ることになった。
もしも、祐真が淫魔と召喚主との本来の関係どおり、精を吸われていたら、すぐにでも淫魔討伐への道を歩み始めていたことだろうが……。
結局、策を弄してようやく羽月祐真が召喚主と突き止めたものの、遅れを取ったせいで、罠にはめられる結果となってしまった。
しかし、ここまではいい。標的の淫魔と対峙する結末は変わらないからだ。
大きな疑問がある。羽月祐真の特異性――。
淫魔から精を吸われていない召喚主。通常の、召喚主と淫魔の関係において、そんな事実があり得るのだろうか。
淫魔は性欲にまみれた汚らわしい存在だ。召喚主との性交は、当然のごとく行われる。なのに、性交をしない召喚主と淫魔が存在するなど、前代未聞である。
それに、羽月祐真がインキュバスを召喚している点も妙だった。性的対象が同性の場合、同じく同性の淫魔が召喚されることは知っている。
だが、教室で共に過ごし、また先ほどの接触により、得た情報から羽月祐真が同性愛者でないことは否定できた。
それなのに、なぜインキュバスが召喚されてしまっているのだろう。
沙希は混乱を極めた。理解が及ばない事象とは、このことかと思う。
色々な物を鍋にぶち込み、煮えたぎらせたような、混沌とした状況。何が何やら、わけがわからない。私は一体、何と戦っているのか。
ならば、私ができることは一つだ。この眼前の薄汚い存在を駆除すること。その一点のみ。そうすれば、色々と面倒な事象など無視できる。
淫魔の排除こそが、我々の本願なのだから。
沙希は、大鎌を振り上げた。
二人の戦いの行く末を見守っていた祐真は、その時、あっと声を出しそうになった。
ひたすら一方的にリコを攻撃し、周囲を血の海にしていた沙希。その沙希が、渾身の一撃とばかりに大鎌を振りかぶった時である。
防戦一方だったリコは、はじめて大きな動きをみせた。
リコは腕を振るったのだ。その直後、巻き起こる突風。鎌を振り上げていた沙希は、木の葉のように吹き飛ばされた。それから後方にあった大木に、背中から衝突する。
沙希は鎌を持ったまま、その場にゆっくりと崩れ落ちた。
これにて沙希は昏倒。一件落着――とは当然ならず、沙希はジャブを食らった程度のボクサーのごとく、悠然と立ち上がった。
それを見ていたリコは、指揮者のように指を振る。リコの周囲に人の背丈ほどもある巨大な剣が出現した。どこかで見覚えがあると思ったら、シシーが作り出した『虚構武器』に酷似していた。
おそらく魔力で作り上げた武器なのだろう。大剣は、意思を持ったように、沙希へと襲い掛かった。シシーとの戦いでみせた時のように、勇猛に相手へ損傷を与えると思われた。
しかし、沙希を切り裂く寸前だった大検は、沙希の厳然にて、彼女が振った鎌によって、あっさりと消し飛んだ。
同時に、突風のようなものが生じ、リコの右腕を切り飛ばした。おもちゃのように、血飛沫と共に宙を舞う腕。
「リコ!」
祐真は愕然とする。なんてことだ。リコが殺されてしまう
。
沙希がこれほど強いとは思わなかった。信じられない。リコは、これまでずっと敵を余裕で倒してきたじゃないか。
祐真は、胸が張り裂けそうな思いにとらわれていた。
右腕を切り飛ばされ、方膝を突いているインキュバスを見下ろしながら、沙希は一つの確信を得ていた。
インキュバスの攻撃をいくつか食らってわかった事実。『肌』が察知した情報。自分だからこそ把握できたインキュバスと奇妙な少年の背景。
間違いなかった。このインキュバスは『絶食』状態なのだ。
召喚主である祐真に、吸精された痕跡がないことに疑問を覚えていたが、そのものズバリ、単純に『食べていない』状態なのである。召喚主以外の人間の精を吸うこともなく、ただただ無補給なだけ。
理由はわからない。だが、精を得ていないということは、人間で言うと全く食料を摂取していないも同然の状態である。
本来ならとうに死んでいるはずだが、魔力をエネルギーに変換することで、生き永らえているのだ。その消費量は加速度的に増えていると思われた。
不可思議だが、それが結論となる。つまり、弱体化し続けている状態であり、このインキュバスは、以前はもっと膨大な魔力を保持していたことになる。花蓮と戦った時は、今よりも遥かに強かったに違いない。
精を吸われた痕跡のない召喚主。膨大な魔力を誇っていたインキュバス。減り続ける魔力。違和感の正体が判明された。底にあったカラクリが、溶けた氷壁のように露出された瞬間である。
沙希はインキュバスを見下ろしたまま、ほくそ笑む。
カラクリを知った今、もはやこいつを殺すことは容易ではないか。いわば、このインキュバスは飢え死に寸前の遭難者。すでに戦う前から瀕死なのだ。
沙希は、インキュバスの元まで近づくと『鶴首の鎌』を振り上げた。腕の傷も痛むだろう。ここで止めを刺してやる。
沙希は鎌を振り下ろした。狙いは首。一撃で跳ね飛ばしてやる。花蓮の仇と、『推進派』への手土産として、スイカのようにして持ち帰るのだ。
触れれば対象を確実に両断する『鶴首の鎌』が、インキュバスの首を捉えたかに思えた。
その時である。背中に強い衝撃が走った。『勝負服』を着ているにもかかわらず、背骨に硬い物体が食い込む感覚が沙希を襲った。
沙希は思わずうめき声を上げた。痛い。とてつもない激痛だ。
沙希はとっさに背後に向けて鎌を振り、前方に転がるようにして距離を取った。
それまで自身がいた場所を確認する。そこにあったのは、自身がたった今、切り落としたばかりのインキュバスの『右腕』だった。
沙希は悟った。インキュバスの『右腕』が、まるで意思を持った生き物のように動き、こちらの背中に襲い掛かったのだ。正拳突きをするように、固く拳を握り締めて。
どうやら、最後の悪あがきとして、己の右腕を操作してカウンターを狙ったらしい。
沙希は自分の体の具合を確かめた。ダメージはあるが、致命傷ではない。立てるし、動ける。まだ充分戦える状態だ。つまり、インキュバスのカウンターは失敗したのだ。
そして、相手は――。
沙希ははっとする。先ほどまで、肩膝を突き、止めを刺される寸前だったインキュバスが立ち上がっていた。表情は余裕そのもの。片腕が失われているにもかかわらず、瀕死のはずのインキュバスは、平然としていたのだ。
「な……」
それから起こる、驚愕の事実。インキュバスは目の前に落ちている自分の腕を拾い上げると、先が消失している右肩に押し当てたのだ。
プラモデルのように、ぴたりとくっ付く右腕。
何事もなかったかのように、インキュバスは右腕を動かした。沙希は唖然としたまま、インキュバスの行動を眺めていた。
インキュバスは口を開く。
「君の出方をうかがっていたけど、なるほど。強いね。後手に回ると厄介だから、もう決着着けようか。他の『推進派』のメンバーもいるだろうし」
傷だらけのインキュバスは、意味深なことを呟く。沙希は眉根を寄せた。
何を言っているのだろう。ただの妄言か。しかし、いずれにしろ、不可解だ。
瀕死だったはずの敵が、切断された腕をくっ付け、平然と立っている。この事実に沙希は疑問を覚えていた。
眼前のインキュバスは、弱っているのは確かだ。性を吸えていない以上、起死回生は有り得ないはず。なのに、どうして立ち上がることができる?
沙希は離れた所で、茫然と立ち尽くしている祐真に目を移した。彼は心底不安を感じているらしく、動揺を示すオーラを放っていることが『肌』を通して感じられた。そんな有様なので、祐真が何かをしたとは思えないが……。
沙希は『鶴首の鎌』を構え、振り下ろす。斬撃が生じ、インキュバスに襲い掛かる。今の状態なら、あいつは斬撃に対処できないか、せいぜい、小動物のように死に物狂いで避けるのが関の山だろう。
沙希は自信を持って、そう予想する。すでにこちらの勝ちは揺るぎない。確信があった。
しかし、次の瞬間、沙希は目を大きく見開いた。
襲い掛かった斬撃は、インキュバスの体に当たるなり、まるで塵のように霧散した。体には傷一つついていない。
怪訝に思った沙希は、幾度も鎌を振り下ろし、斬撃を発生させる。全てがインキュバスに襲い掛かる。
だが、それらもあっけなくインキュバスの体に弾かれた。強力なはずの『鶴首の鎌』の斬撃は、どういうわけかインキュバスの体に届くことはなかったのだ。
沙希は訝しむ。
何が起きている? 幻覚でも見せられているのか?
催眠をかけられた記憶はない。だが、目の目で起きている事実は、にわかに信じ難がった。
沙希は『鶴首の鎌』を構え、一気にインキュバスに肉薄した。背後に回り込み、『鶴首の鎌』でインキュバスの胴体を狙う。
何者であろうと胴体と体を分離してしまえば、生きていられる生物など存在しない。もう充分だ。さっさとインキュバスを殺して家に帰ろう。
『鶴首の鎌』の歪曲した刃は、確実にインキュバスの胴体に食い込んだ。インキュバスは動かない。もうそれだけの気力がないのか。
『鶴首の鎌』がインキュバスの胴体を両断すると思った次の瞬間、驚愕するべきことが起こった。
硬質な音を立てて『鶴首の鎌』の刃が、真っ二つに割れたのだ。割れた先端部分が、雑木林の間から差し込む木漏れ日を反射しながら飛んでいく様が、スローモーションのようにして目に映る。
やがて境内の石畳に、固い音を響かせて転がった。
信じられなかった。何もかもを両断する『鶴首の鎌』が割れるとは。こいつは一体……。
インキュバスはこちらに腕を伸ばした。沙希はかっと目を見開く。インキュバスの腕には強力な魔力が込められていることがわかった。
この汚らわしい淫魔め。
沙希は刃が半分になっている『鶴首の鎌』を再度振り、インキュバスの腕を切り落とそうとした。
しかし、遅かった。刃がインキュバスの腕に届くよりも前に、沙希の体中の感覚が消え失せた。
ぼんやりとした意識が覚醒し、次第に明瞭となっていく。体は麻痺したように鈍く、思ったように動かせない。しかし、そのことから沙希は自身が気絶していたのだと気がついた。
地面の冷たい感触が伝わってくる。どうやら倒れ込んでいるようだ。おそらく野外の土の上。
頭が霞がかっているせいで、どうして自分が気絶しているのかも、地面に倒れているのかも思い出せなかった。
聴覚も回復しつつあるようだ。かすかに、何かが聞こえた。人の声のようだ。
「……まさか演技だったなんて」
「心配かけたね……もう大丈夫……」
男二人の話し声。聞き覚えがあった。同時に、なぜか嫌悪感が湧いてくる。こいつらは『敵』だ。その上、一方は必ず排除しなければならない害獣。
意識が一気に覚醒し、全身の感覚が戻ってくる。『肌』も復活し、周囲の状況が瞬時に理解できた。
自分が神社内の地面の上に倒れていることや、離れた位置に刃が割れた『鶴首の鎌』が落ちていることを確認する。
沙希ははっと顔を上げた。二人の男がこちらを見下ろしている。羽月祐真と彼に召喚された淫魔。
「おはよう。沙希さん」
淫魔が爽やかな笑みを浮かべて、挨拶をする。まるで寝坊した友達にでも接するような風情だ。
インキュバスの腕は完全に再生しており、全身にできていた傷も、完全に消失していた。
全てを悟った沙希は、愕然とする。私は負けたんだ。おそらく、『鶴首の鎌』で切りつけようとした瞬間、重い一撃を受けたのだ。魔力を込めた腕によって。
着用している勝負服のお陰で、一命は取り留めたようだが、今の状態では、這い回るのがやっとだ。戦闘は継続不可能だろう。
しかし、なぜ淫魔はそれほどの力を出せたのか。瀕死であったはずだし、弱体化しているのも事実であったはずだ。
「どうして……」
沙希がインキュバスの顔を見上げながら、疑問をぶつけた。お前は、一体なんなんだ。
インキュバスは答える。
「君が気絶している間に祐真にも説明したけど、君の出方をうかがっていたんだよ。つまり、本気じゃなかったのさ。退魔士の連中は何をしてくるかわからないからね」
インキュバスは飄々と答えるが、沙希は信じなかった。
嘘だ、と沙希は思う。『肌』が真実を捉えていた。このインキュバスは嘘をついていると。
精を吸えていない以上、弱体化しているのは間違いない。それに戦闘中に感じた『違和感』。
つまり、この淫魔は……。
「びっくりしたよ。リコが負けていたからさ。演技だと知って安心したよ」
羽月祐真が、ほっとした顔で呟く。祐真はインキュバスの主張を鵜呑みにしているようだ。何も知らない、能天気な召喚主。淫魔を召喚しておきながら、精を吸われていない奇想天外な存在。
沙希は地面に倒れたまま、ふっと笑みを浮かべた。もうすでに決着は着いている。こちらの負けは確かだろう。まだ『切り札』はあるとはいえ、このままでは終われない。
この汚らわしい連中に、少しでも痛手を負わせたかった。
沙希は口を開く。
「ねえ、祐真君。良いこと教えてあげる」
「良いこと?」
祐真は怪訝な表情をみせた。
「ええ。あなたの淫魔について」
沙希がそこまで発した時、祐真の隣にいたインキュバスが、声を上げた。
「影山沙希。そこまでだよ。発言は認めない」
インキュバスは、威圧するように、魔力を全身に漲らせた。
刺すようなオーラに、沙希は心底震え上がるが、構うことはない。殺されようとも、薄汚い淫魔に一矢報いてやる。
沙希はインキュバスを無視し、続けた。
「祐真君、あなた召喚した自分の淫魔に、精を与えていないでしょ? セックスはおろか、キスもしていないはず」
沙希の指摘に、祐真は困惑した顔になる。反応から、事実であることを告白したも同然であった。
「淫魔はね、人間の精を吸わないと生きていけないの。あなたの淫魔は誰からも精を吸っていない。だから、弱っていく一方なの。今では万全状態と比較して、瀕死も同然」
「それ以上の発言は許さないよ」
インキュバスが、鋭く言い、こちらに手を伸ばしてくる。おそらく黙らせるために、再度意識を失わせる一撃をを与えようという魂胆なのだろう。
沙希はこの隙を逃さなかった。最後の切り札。
沙希はインキュバスの攻撃を受ける前に、倒れた状態で手を掲げた。目指す先は石畳に落ちている『鶴首の鎌』。
『鶴首の鎌』は、まるで意思を持ったように独りでに浮かび上がった。それから、こちらに向かって勢いよく飛んでくる。
すなわち、インキュバスに向かって――。
飛来物の接近に気がついたインキュバスだったが、すでに遅かった。振り返ると同時に、『鶴首の鎌』はインキュバスに直撃する。衝撃により、土埃がひどく舞い上がった。
周囲が土埃により、覆い隠される。双方、姿が見えなくなった。
沙希は祐真がいた方向に対し、声をかける。
「そのインキュバスはあなたに嘘をついている。そのインキュバスは決して、手加減をしていたわけじゃない。逆転できたのは、命を削って、魔力に変換しただけ。つまり、死にかけなのに変わりはないわ」
そう。最後に遅れを取ったが、何のことはない。飄々としているが、このインキュバスは力を振り絞り、『奥の手』を使ったに過ぎないのだ。死に体そのもの。
インキュバスにとっては幸いにも、功を奏し、沙希を昏倒たらしめたが、充分勝てる存在なのだ。万全の『退魔士』さえいれば。
他の『推進派』のメンバーが加われば、あとは労せずに仕留めることが可能だろう。
「祐真君。最後に教えてあげる。あなたが召喚した淫魔は、他にもあなたに色々と隠し事をしているわ。充分、気をつけてね」
沙希は明るくそう言い、足を動かした。
影山沙希の言葉を聞き、祐真は唖然としていた。
彼女が言っていたことは事実なのだろうか。リコが死にかけ? 負けていたのは出方をうかがう演技ではなく、本当に弱っていたから?
しかも、リコは俺に色々と隠していることがあるとも言っていた。敵の言い分を鵜呑みにするのは間違っているが、それでも嘘や陽動などの意図があるようには感じられなかった。
一度は惚れた相手だ。彼女は事実を語っているように見えた。
土埃が晴れ、視界が元に戻る。先ほどまで目の前に倒れていた沙希の姿は、綺麗に消え失せていた。沙希も重傷を負っていたはずだが、最後の力を出し尽し、何と逃げたのだろう。
リコの姿を確認する。リコは、沙希が戦闘で使っていた黒い鎌を手で掴んでいた。飛来した際、胴体に突き刺さる寸前で受け止めたのだろう。手から血が滴り落ちている。
「リコ、大丈夫?」
祐真は心配になって声をかける。リコがひどく苦しそうに見えたからだ。
リコは、明るく笑顔を浮かべ、掴んでいた鎌を地面へ捨てた。
「大丈夫さ。言っただろ? このくらい屁でもないって」
祐真は、リコの様子をうかがう。普段通り、飄々としている。弱っているようには見えない。
だが、リコの直近の行動を考えると、沙希の言葉も信憑性を帯びる気がした。
リコは、シシーなどの強敵と戦ったあと、疲弊した様子をみせていたのだ。体調が悪そうな時もあった。完全無欠のはずのインキュバスにとって、それらは有り得ない現象だったが、沙希が示したように『弱体化』しつつあるのならば、当然の成り行きと言えた。
祐真は、単刀直入に訊く。
「リコ。影山さんが言っていたこと、本当なの? 正直に答えて」
祐真は、真剣な眼差しをリコに向けた。嘘や誤魔化しが行われないよう、言葉に力を込めた。リコなら、ちゃんと受け取ってくれるはず。
リコは、一瞬だけ、俯いたが、やがて口を開いた。
影山沙希は、林の中を息を荒げながら這いずっていた。
インキュバスの隙を突き、何とか逃げおおせたものの、立ち上がることすら不可能な状態だ。せいぜい、芋虫のように這い回るのがやっとである。
ちくしょう。あの淫魔め。必ず殺してやる。
沙希は、地面を這いながら、心の中で誓う。あの薄汚い淫魔を、自身を追い詰めた召喚主を、地獄に叩き落してやると。
汚物よりも劣る淫魔を前に、痛手を負わされた挙句、無様に逃げ出す事態など本来あってはならないのだ。
淫魔に負けたという事実が、沙希に身を悶えさせるような屈辱と、羞恥を与えていた。この感情は、淫魔を殺すまで続くだろう。
あいつは弱体化しつつある。万全に状態を整えれば、今度こそ刺せるはずだ。
沙希は、自分が淫魔の首を刎ねている光景を想像し、ほくそ笑んだ。さぞかし爽快だろう。下劣な悪魔を駆除する瞬間を迎えるのは。
沙希が跳ねた淫魔の首に、唾を吐いた夢想をした時だった。目の前に影が差した。
ふと顔を上げると、眼前に人が立っていた。知っている顔だ。
「美帆ちゃん」
眼前の人物は、沙希と志を同じとする『推進派』メンバーの一人である磯部美帆だった。沙希同様、退魔士でもある。
「情けない姿ね。影山沙希」
美帆はせせら笑う。生意気そうな切れ長の目が、沙希を見下ろしていた。
「……美帆ちゃん、次は一緒に淫魔を倒しましょう」
二人がかりならば、今度こそ確実にあの淫魔を仕留めることができるだろう。首を刎ね、顔にクソを塗りつけてやる。屈辱を晴らすのだ。
沙希は続けた。自分が戦闘で得た情報を、美帆に伝えようとする。
「あの淫魔はね、美帆ちゃん――」
「知っているわ。離れた場所から『聞いていた』から」
美帆はさらりと答えた。なぜか、美帆から氷のような冷たい感覚が伝わってくる。沙希の『肌』が、不穏な気配を察知していた。
「美帆ちゃん、どうしたの?」
なぜ美帆は、これほどまで冷淡なのか。何か目論見でも……。
「ねえ、沙希」
美帆の質問を無視し、美帆は語りかける。仲間なのに、他人へ話すような無機質な響きがあった。
沙希は言葉を続ける。
「前からあなたには心底うんざりしていたわ。おどおどしている性格や、そのくせ派手な体型が気に食わなかったのよ」
美帆は、まるで親に不満をぶつける反抗期の娘のごとく、沙希へ非難を行った。
「ど、どうしたの? 美帆ちゃん」
沙希が困惑していると、美帆は核心へ触れた。
「だからね、沙希。私はあなたを殺すことに決めたわ」
「え……?」
沙希は耳を疑う。美帆は本気で言っているのだろうか。
「美帆ちゃん、どうして?」
沙希が訊いた時だった。美帆は背後から何かを取り出した。背中に背負っていたらしい。
それは槍だった。先端の刃が結晶のように半透明になった細めの素槍。
沙希には、見覚えがあった。その槍は、美帆の魔具だ。『鶴首の鎌』と同水準の、準一級の強力な武器。
美帆は槍の穂先を、こちらに突き付けた。沙希は美帆を見上げたまま、唖然とする。全身に鳥肌が立った。
まさか、本当に……。
沙希は逃げようとするが、全身を苛む負傷のせいで、満足に動けなかった。ここまで這ってくるので精一杯だったのだ。
「美帆ちゃん、待っ……」
そこまで言った時だった。沙希の意識は、ぷっつりと途切れた。
事切れた仲間の死体を見下ろしながら、磯部美帆はにんまりと笑った。
脳内では、インキュバスとの戦闘中、自身の耳で『聞いた』沙希の言葉が駆け巡っていた。
標的であるインキュバスは、弱体化しつつある――。今では、万全状態と比べて、相当弱っているらしい。
戦闘では、強引に命を消費することで、力を増幅し、沙希を倒したが、それすらも限度があるとのこと。つまり、あいつはもう奥の手も切り札も使えない状態なのだ。
強大な力を持つインキュバスらしいが、今では充分、人間の退魔士でも仕留めることが可能な相手である。
しかし、それでも慎重を期すべきだろう。方法は単純だ。さらに弱らせていけばいい。弱ってさらに弱って、虫けらのように脆弱になったところで、踏み潰せば万事解決だ。
私にはそれが可能とさせる『能力』がある。お膳立ても容易だろう。
インキュバスを討伐した暁には、報酬は丸々こちらのものだ。その上、あれほどの淫魔を殺したのであれば、名も上がるだろう。さらに私は上流の人間になる。私の人生に相応しい、庶民とは段違いの、高貴な立場に。
美帆は、沙希の死体を前に、魔具を持ったまま、大きく手を広げ、深呼吸を行った。
確実に達成させてみせる。いや、しなければならない。私は絶対に――絶対に、成功するべき人間なのだから。
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