第十七章 強襲
影山沙希との戦闘に勝利した翌日の朝。祐真は、普段と同じように登校を行った。
だが、心の中はさざ波立っている。まるで嵐の前の夜の海のように。
通学路を歩きながら、祐真は、昨日のリコとのやり取りのシーンを頭の中で反芻していた。
沙希から聞いた証言。それについて、祐真はリコに質問をぶつけたのだ。その際、彼は一瞬、俯いたのちに、こう答えた。
「彼女の言ったことは事実」であると。
「一体、何が起こっているの?」
さらに疑問を重ねる祐真に、リコは説明を始めた。
赤い夕日が木々の間から差し込む神社の境内で、祐真とリコは並んで立っていた。周囲は、爆撃でも起こったように、血と荒れた地面が広がっている。土煙の乾いた匂いが、鼻をついた。
そのような奇妙な空間で、さらに奇妙な二人組みは、神妙な雰囲気の元、向かい合った。
「一体、何が起こっているの?」
祐真は、リコに尋ねる。疑問に思っていた。とても強いはずのインキュバスが、時折、弱ったような様子を見せる点について。
沙希の証言が事実であるならば、リコはとんでもない状態に陥っていることになる。
「影山沙希が言ってただろ? 『精が吸えていない』って。あれは本当だよ。僕はこの世界に召喚されて以降、一度も精を吸っていないんだ」
「……」
その点は、祐真自身もある程度察知していたが……。
以前にも、横井彩香&ユーリーペアとの戦いの際、そんな話になったことがある。その時リコは言っていた。「これまで誰の精も吸っておらず、祐真以外の人間から精を吸うつもりはない」と。
そのお陰で、ユーリーたちの目を欺くことができたが、背後では深刻な事態に見舞われていたのだ。
「リコが弱っているって、本当?」
精を吸っていないことは事実として、その影響が問題だった。祐真はリコの強大な力を目の当たりにしているため、リコならば自力で解決しているのだろうと曖昧に解釈していたが、実際はどうなのか。
「ああ。本当だよ。僕は弱っている。しかも相当なレベルでね」
リコはあっさりと認めた。祐真は愕然とする。目の前の飄々としていた最強の力を持つインキュバスは、実のところ、風化して崩れ落ちる岩石のように脆弱化していたたということなのか。
これまで祐真にはっきりと気づかれなかったのは、心配かけまいとする演技を行っていたためだろう。そう思うと、いくつも心当たりが生まれる。
「……どうすれば解決できるの?」
祐真は尋ねる。しかし、頭の中ではすでに理解していた。単純な話だ。もう答えは出ているのだから。
「僕の力が元に戻るには、もちろん、男の精が必要だよ。だけど、以前言ったように、僕は祐真、君以外の精を吸うつもりはない」
やはりと思う。祐真は身構えた。リコはこちらの精を狙っているのだ。警戒心が膨れ上がる。
しかし同時に、リコのために協力したいという感情も芽生えていた。
祐真は唾を飲み込み、口を開く。
「……このままだとリコは死ぬんだよね? だったら、少しくらいは――」
そこまで言った時だった。リコは優しげに微笑むと、幼い子供を諭すように、祐真の頭をそっと撫でる。
「これも言ったよね? 君が心から僕に抱かれることを望まない限り、僕は君の精を吸うつもりはないって」
祐真は意外に思う。ここぞとばかりに祐真の精を求めてくると予想していたが、どうも違うらしい。リコは本当に、こちらの貞操を慮っているようだ。
とはいえ、それでは何も解決しないのではないか。
「でも……」
祐真が不安に思って、食い下がる。リコは胸を張る動作をした。
「大丈夫。弱っているとはいえ、まだ僕は持つよ。それに、僕の限界が訪れるよりも前に、君は僕を受け入れるようになる。それまで辛抱するさ」
以前、どこかで聞いたような言葉だが、リコは自信満々に断言した。
どうしてそこまで確信を持っているのかは謎なものの、リコの言葉を鵜呑みにするなら、今すぐ命がどうこうというわけでもなさそうだ。少しは安心していいかもしれない。
祐真は安堵から、大げさにため息をついた。
「人がせっかく心配したのに……。まあいいや。リコがそう言うなら、信じるよ」
祐真が納得した様子を見せると、リコは満足気に首肯した。木漏れ日を受けて、リコの白い肌が絹のようにきらめく。
だがしかし、まだ終わりではない。もう一つ、質問があった。気になっていたこと。
祐真は訊く。
「リコ。まだあるんだ。影山さんが言ってた『リコがいくつか嘘をついている』って話。あれも本当なの?」
祐真の質問を聞いたリコは、少しだけ悲しそうな顔をみせた――ように祐真には見えた。
どうしたのかと思って、改めて確認しようとしたが、すでにリコは呆れたように口をへの字に曲げていた。
「それこそ相手の嘘さ。かく乱させるための罠だよ」
「でも……」
「僕が君に嘘をつくわけがないだろ? 祐真が疑心暗鬼になれば相手の思う壺だ」
リコは真剣な面持ちで嗜めてくる。嘘を言っているようには見えないが……。
とはいえ、リコの意見はもっともだと思った。沙希は敵なのだ。いくら花蓮と同様、情報を得る固有能力があっても、鵜呑みにするのは危険だろう。
それに、今はそれどころではない。色々と面倒事が山積しているのだ。気にかけるべき問題点ではないだろう。
「そうだね。リコを信じるよ」
祐真は頷いた。
日も落ちかけ、薄暗くなった木々の間を、風が冷たく流れてくる。空は雲一つないので、明日は快晴だろう。
「ありがとう」
リコはそう言うと、再び祐真の肩を撫でた。リコの手からは、温もりが感じられた。
あの時リコに触れられた肩を撫でながら、祐真は通学路を歩いていく。
リコは沙希の証言こそが嘘だと断言したが、実際のところはわからない。だが、もしも沙希の言い分が事実だとしたら、リコが祐真につく嘘とは何だろうと思う。
リコは常に祐真の味方だった。彩香も言っていたように、リコにとって、祐真は大切な存在なのだろう。これまでも、命がけで守ってくれていた。
そんな彼が、祐真に嘘をつくとは信じがたかった。リコが否定したように、沙希の陽動である可能性が高いと思っていいだろう。
祐真は巡らせていた思考を停止させ、周囲を見回した。
柔らかい朝日が降り注ぎ、住宅街を穏やかな雰囲気に色付けしている。祐真の他にも、登校中の生徒たちがいるが、皆静かに通学路を歩いていた。
平和な日常がそこにあった。昨日のような、常人を越えた力を持つ者同士の殺し合いや、超常現象の類の存在がまるで夢のように感じられた。
やがて瑠央は、落ち着いた景色の中、喜屋高校へと到着する。
高校の敷地内に入り、まず最初に理解したのは、昨日までとは打って変わって、異常な現象が起きていないことだ。
昨日までは、影山沙希の謀略により、学校中にカップルが溢れるというピンク一色の事態に陥っていたが、今は何の変哲もない朝の登校風景が広がっていた。
実はこれについて、祐真は事前にリコから説明を受けていた。影山沙希を撃退した結果、喜屋高校の生徒たちにかかっている魔術が解除されるのだと。
そして、おまけに魔術にかけられていた生徒たちの記憶から、今回の現象に対する内容も綺麗さっぱり消去されるらしい。魔術や退魔士の存在が発覚しないための措置であり、いくら敵でも、影山沙希のような退魔士は必ず施しているシステムだというのだ。
術は主に女性生徒に対して施されていたが、男子生徒たちも影響を受けており、その余波を受けて記憶が消失するらしい。
つまり、今日の朝から、喜屋高校には何事もなかったように、平穏な日常が戻ってくるということである。
玄関を通り、自分の教室に入ると、そのことが如実に表れていた。昨日は合コン会場のように、成立したカップルの生徒ばかりがいたが、今はそれぞれが、朝の時間を思い思いに過ぎしている景色があるのみだった。
祐真にアプローチし、別の男になびいていった川崎江実も、仲良しの女子生徒と楽しそうに会話をしていた。
祐真が席に着き、通学鞄をフックに掛けた時、綾部星斗が話しかけてくる。
「おはよう祐真。昨日の新キャラ発表観た?」
星斗は普段と変わらない口調で言う。内容はおそらく、共通してやっているソーシャルゲームについてだろう。ゲーム会社の公式動画で新キャラクターの発表があったのだ。
ちなみに祐真は観ていない。
「いや、昨日時間がなくて……」
答えながら、星斗の隣を見る。そこには誰もいなかった。昨日まで付き合っていたはずの女子生徒は、もう星斗のことなど忘れてしまったらしい。
「なんだよ。観てねーのか。だったら教えてやるよ」
隣の席に星斗は座り、昨日の夜にあったゲームの新キャラクター発表の話を始めた。星斗のほうも自分に彼女ができたことなどすでに忘却の彼方のようだ。少しだけ、可哀想に思える。
しばらく、星斗の話に付き合っていると、橋口直也も登校してくる。直也にも彼女ができていたはずだが、完全に記憶から抹消されているらしく、沙希が転校してくる前の調子のまま、会話に加わってきた。
しばらく三人で話をしているうちに、教師が教室に入ってきて、授業がSHRが始まった。
自分の席に戻っていく二人を見送りつつ、教室内を確認した。ほとんどのクラスメイトが揃う中、影山沙希の姿だけは見えなかった。
「影山さんの仕業だった?」
昼休み、祐真は彩香を屋上に呼び出し、今回の騒動の顛末を話した。
彩香は相次ぐカップル成立の事態を危惧し、昨日まで休学していたが、昨夜簡単な説明をして、復学を促したのだ。学校は安全だと教え、詳細は明日説明すると伝えて、今こうして会っている。
「うん。何でも『擬似淫魔術』とも言うべき魔術が使われていたんだって」
「擬似……? なにそれ?」
聞きなれない単語に、彩香は首を傾げる。艶やかなショートカットが、日の光を反射していた。
現在、屋上には祐真と彩香だけしかおらず、二人は、出入り口近くのフェンスのそばで話をしていた。フェンス越しに校舎が見え、一年生の教室が確認できる。
祐真たちよりもやや幼げな生徒たちが、青春を噛み締めるように、昼休みを満喫している様子が垣間見えた。
祐真は下級生たちを見下ろしながら、口を開く。
「『擬似淫魔術』。淫魔術に似た性質らしい」
祐真はリコから聞いた『擬似淫魔術』の概要を彩香に説明する。祐真自身も完全に理解したわけではないため、受け売りで話す。
一通り説明が終わったところで、彩香は納得したようにしみじみと呟く。
「なるほどねー。転校生の影山さんが退魔士だったとは。でも、その影山さんはどうしたの? 教室にいなかったけど」
今朝、沙希の姿が見えなかった点について、彩香は言及した。当たり前だが、殺し合いをした相手がいる教室に、のうのうと登校してくる人物は存在しないだろう。
しかも、沙希が欠席している事実をクラスメイトは誰一人、触れていなかった。担任教師ですら、出席確認の際、沙希への言及を失していたのだ。
つまるところ、沙希がこの学校に在籍ないしは、転校してきた事実や記録の一切が消されてしまったということである。
沙希の仕業か、別の退魔士の仕業らしい。正体を隠匿するために工作が図られたのだ。驚くべきことに、一夜にして影山沙希は喜屋高校の生徒ではなくなったのである。
あまりにも自然だったので、当初から沙希の転校が夢か幻だったのではと錯覚するほどだ。
そして肝心の、沙希の行方についてである。神社でリコから重傷を負わされたあと、沙希は隙を突いて逃げ出した。それ以降、彼女の消息は判明していない。
リコ曰く、沙希の仲間が助けたか、どこかに潜伏している可能性が高いとのこと。
「大丈夫なの? また命を狙われない?」
彩香は不安げに眉根を歪ませる、また高校で騒動が起きることを危惧しているようだ。
「リコは、大丈夫、だと言っているけど……。退魔士なんかいつでも追い返せるみたいだ」
「ふーん。さすがリコさん」
彩香は感心したように言う。
リコが弱体化している件については、まだ彩香に話すつもりはなかった。リコはいくらでも対処できると言っているし、祐真としても、完全に状況を理解できているわけではないためだ。
彩香は、フェンスにそっと指を触れ、金網をなぞりながら言葉を続けた。
「やっぱり祐真君には、リコさんが必要だよ」
「またそれか」
祐真はうんざりする。
「だってそうでしょ? 今回も助けてもらってたし……。だから、そろそろリコさんとエッチしてあげなきゃ」
唐突に発せられた下ネタに、祐真は面食らう。
腐女子である彩香は、目を爛々と輝かせていた。BL的展開を心待ちにしているのだろう。彩香にとっては、格好の『ネタ』だからだ。
祐真は、大きくため息をつく。同時に、リコの言葉が脳裏に蘇った。
リコはあの時、祐真の精を吸うつもりはないと言っていた。祐真が望まない限り、一切手は出さないと。そして、いずれ必ず、祐真はリコを受け入れる時がくると預言者のように断言していた。
本当だろうかと疑問を持つ。男を――ましてや人ならざる存在を――受け入れることが自分の身に起こり得るのか。
何はともあれ、喜屋高校の騒動は一段落した。これで安穏無事の日々が訪れるはずだ。普通の男子高校生のあるべき生活に戻れるということである。
祐真は、空を見上げた。雲一つない真っ青の空間が広がっていた。明るい太陽光が目に差し込み、祐真は何度か瞬きを行う。
一陣の風が肌を撫でる。心地よく、気分が良くなった。順風満帆の船出の時のように、勇気が溢れてくる。
何だか、このまま平和な日常が訪れそうな気がした。
放課後になり、祐真は学校を後にする。そして、いつものようにアパートへ直帰しようと考えた時だ。
ふと思い立って、祐真はルートを変更した。目指すは図書館。例の『魔導書』があった建物だ。
そもそも、あの本を発見したことが全ての始まりである。だからこそ、リコを『召喚還し』するのが祐真の本懐だったが、トラブル続きで、『魔導書』捜索が滞っていたのだ。
祐真は帰路を外れ、町立図書館へ向かった。以前、一度調べた場所だが、もしかしたら何か見つかるかもしれない。
空が橙色に染まり出す中、祐真は図書館へ通じる歩道を歩く。通行人は、帰宅途中の小学生や、幼い子供を連れた母親の姿が散見された。なんて事はない。平穏な日常を切り取った風景である。
図書館が見えてきた頃だった。ちょっとしたトラブルに遭遇した。
「どこ見て歩いてんだお前!」
男の怒鳴り声が、耳を貫く。はっとして声のほうを見てみると、歩道の片隅で、一人の大柄な男が威圧するように肩をいからせていた。
その男は、学生服を着ていることから、高校生くらいの年齢だと思われた。茶髪に髪を染め、身なりは崩れている。
男の目の前には、会社員らしきスーツ姿の女性が尻餅をついていた。タイトスカートから伸びる足が艶かしい。
どうやら学生服姿の男と、スーツ姿の女性がぶつかったらしく、その影響でトラブルに発展したようだ。
「ふざけやがって、いてーじゃねーか」
茶髪の学生は、尻餅をついている女性の腕を掴み、立ち上がらせようと引っ張る。ひどく憤慨しており、野生動物を思わせる凶暴な雰囲気が全身から湯気のように立ち昇っていた。
女性のほうは、怯えきっているようで、抵抗一つしない。されるがままだ。
近くには祐真の他は誰もおらず、車道を走る車はこの事態に気づいていないのか、素通りしていた。
「こっちへ来い!」
男は、近くにある建物の影に女性を連れて行こうとする。
いけない、と思い、祐真は二人の元へ駆け寄った。
「止めろ! 警察を呼ぶぞ!」
祐真がそう叫んだ時だった。男は女性の腕を離し、こちらを睨みつけてくる。
「ああ? 何だお前」
男は額に欠陥を浮き上がらせて怒鳴る。憤怒のボルテージがさらに上がったようだ。
「その女の人を解放しろ」
祐真は引き下がらず、静かな口調で言う。
男は祐真の言葉を聞くなり、顔を真っ赤にさせた。今にも破裂しそうなほど激情の念に捉われているらしい。たった少しのやり取りで、これほど怒りを覚えるのは、よほど品位がない証左であろう。
古里や鴨志田と同類の、駆除するべき害悪だ。
「てめえ。何様のつもりだ?」
男はこちらに歩み寄ってくる。そして、目の前までくると祐真の胸倉を掴んだ。このヤンキーは、結構身長があるため、自ずと上方に引き上げられる形となる。
「なめた口ききやがって。覚悟できてんだろうな?」
男がそこまで言った時だ。祐真は胸倉を掴んでいる男の手首を握った。そして、力を込める。
みしりと、骨が軋む感触が手の平に伝わってきた。古くなった木材のように、この手首は脆いのだ。
男は女のような悲鳴を上げて、仰け反った。祐真はさらに力を込める。男は目に涙を浮かべて、絶叫した。
「お、お前……。離しやがれ」
ヤンキーはこちらに殴りかかった。逞しい腕から繰り出された拳は見事、祐真の顔面にヒットするが、少しも痛みを感じなかった。そればかりか、息を吹きかけられたほどの衝撃しかない。
最近多発する襲撃者の対策にと、リコが施してくれた魔術の為せる技だった。『コルプス・フォート』。銃弾すら防ぐ強力な防御魔術である。
殴りかかってきた男は、逆にダメージがあったようだ。
ヤンキー男は、うめき声を上げ、祐真の胸倉から手を離すと、殴った手を押さえた。コンクリートでも殴ったような有様だ。
祐真も男の手をはなしてやる。すぐに男はへなへなと気が抜けたように、うずくまった。
戦意を完全に消失した男を見下ろし、祐真は言う。
「さっさと消えろ。見逃してやる」
声高らかに、そう宣告する。
「ありがとうございました」
男の姿が消えたところで、スーツ姿の女性は頭を下げた。
「い、いえ、当然のことです」
祐真はどぎまぎしながら、返答をする。
ヤンキーに絡まれていた女性は、とても綺麗な容貌をしていた。二十歳ちょっとくらいだろうか、パリコレにでも出れそうなほどすらりとした体型に、凛々しい顔は、大人びた色香を放出していた。
やや気が強そうで、エリート男しか相手にしないような高飛車な感じはするが、それでも充分魅力的な女性であった。
「とても喧嘩が強いんですね。格闘技でもなさってるんですか?」
女性は目を輝かせながら訊いてくる。どうやら、心から感心しているらしい。
「いえ、そういうわけでは……」
リコから貰った肉体強化魔術のお陰だとは言えるわけもなく、祐真は曖昧に濁す。
祐真の妙な反応に女性は首を傾げたが、すぐに笑顔になった。端正な顔が、可愛らしく花を咲かせる。
「とにかくありがとうございました」
女性は再度頭を下げる。ロングの髪が静かにたなびいた。
同時に、女性はこちらに手を伸ばすと、祐真の手を取った。それから優しく握り込んでくる。
感謝の念を示すための握手だと気がついた祐真は、どきりとする。女性に慣れていないため、強く動揺が走った。
しかし、それでも祐真は胸を高鳴らせながら、そっと、女性の手を握り返した。
女性と別れたあと、女性の柔らかな手の感触の余韻に浸りつつ、図書館を目指した。
変なトラブルに巻き込まれたが、ちょっとした『ご褒美』は貰えたため、僥倖だったと解釈しよう。もっとも、祐真が美女に鼻の下を伸ばしたという事実をリコが知ったら、ひどく憤慨するだろうが。
図書館はすでに目と鼻の先だったので、すぐ到着する。祐真は館内に入った。
相変わらず寂れた図書館だが、さすがに今の時刻は複数の利用者が散見された。時間帯の問題か、小学生や中学生が多かった。
館内に入った祐真は、例の『魔道書』があった本棚のコーナーに近づいた。そのコーナー付近を重点的に、『魔道書』目当てにくまなく調べていく。
しばらく調査を続け、祐真は落胆を覚え始めていた。前回も同じだったが、案の定、今回も『魔道書』ないしは、手掛かりすら発見できない結果となりそうだった。
様々な書籍が並ぶ本棚を眺めながら、祐真はぼんやりと思う。
リコの弱体化についてだ。昨日話してくれた内容が、再現VTRのように、脳内に流れる。
リコは淫魔であるため、生存には人の精が不可欠だ。つまるところ、肉体関係を持つ必要がある。
だが、リコは祐真以外の人間の精を吸うつもりはないという。しかも、祐真が自ら望まなければ、決して精は吸わないと固く決めているらしいのだ。
祐真からしても、その決断は理想的ではある。男との肉体関係は考えただけで鳥肌が立つのだ。つまり、祐真が乗り気になりさえしなければ、禁断の関係に進む可能性はゼロと言えるだろう。
だが、その場合、リコは弱っていく一方だが……。
だからこそ、そういった意味でもリコを『召喚返し』する必要があるかもしれない。
様々な思考が脳内を駆け巡っていた時、祐真ははっと我に返る。
すぐ背後を小学校低学年くらいの女の子たちが数名、楽しそうにお喋りしながらすり抜けていったところだ。
そこでようやく祐真は、自身が他利用者の通行の妨げになっていることに気がついた。
成果も芳しくない。もう帰ろう。
祐真はため息をつき、その場を離れた。
図書館を出た祐真は、きた道を引き返す形で家路に着く。日は傾いており、空は薄暗い。夜の帳が下りようとしていた。
祐真は図書館の敷地から歩道へと足を踏み入れる。通学鞄を小脇に抱え、歩き出した時だ。
背後から声が突き刺さった。
「おいお前!」
男の怒鳴り声。振り返ると、スキンヘッドの大柄な男がこちらに寄ってきていた。顔は憤怒の形相だ。
最初は人違いだと思ったが、どうやら祐真が狙いらしい。一体、どうしたのかと相手の強面の容貌とあいまって、祐真は立ちすくんだ。絡まれる謂れはないはずだが……。
「覚悟しろよ」
スキンヘッドの男は、祐真の眼前にくるなり、こちらの肩を掴んだ。そしてそのまま腹部に拳を突き入れる。
突然のことで、祐真は面食らうが、リコの魔術のお陰で、撫でられたかのように全くダメージはなかった。
それどころか、案の定、相手は拳を押さえてうずくまる。思いっきり殴ってきたためか、血が滲んでいるようだ。
「いきなり何なんだ。あんた」
先ほどのヤンキーの知り合いかもと一瞬思ったが、何だか違う気がした。どこか様子が変なのだ。祐真に対し、猛烈な殺意があるような……。
祐真はうずくまっている男をその場に残し、背を向けて駆け出した。早く離れたほうが懸命のようだ。
歩道をひた走ったあと、道の真ん中で立ち止まる。息を整えながら背後を振り返ると、誰も追ってきていないことを確認できた。
祐真はほっと息をつく。
何なんだろう一体。さっきから。
OL風の女性に絡んでいたヤンキーといい、さっきのスキンヘッドの男といい、今日はやたらと物騒だ。この地域も治安が悪くなってきた証なのか。
祐真は足早に歩き出す。不安なので、早めに帰宅したほうがいいだろう。
リコの『コルプス・フォート』のお陰で事なきを得ていたが、この魔術には時間制限がある。今日中が使用リミットであり、日付を越えると使えなくなってしまうのだ。魔術からリコの存在が発覚する危険性を考慮してのことである。
しばらく歩き、商店街に近づいた時だ。
「いたぞ!」
唐突に二人の男が、祐真の進路上に立ち塞がった。大学生くらいか、二人とも真面目そうな印象のある若い男たちだ。
そいつらは、まるで獲物を発見したハンターのように、鋭い視線を祐真に送ってきていた。敵意に満ち溢れていることが確信できた。
祐真は立ちすくむ。狙いは自分だと察知した。なぜだろう。当然、知らない男たちだ。狙われる理由もない。やはり、今日はとても妙だ。
二人の男はこちらに駆け寄ってくる。そのうち片方の男の手には、鉄パイプが握られていた。
近くを歩いていた年配の女性が、何事かと魔を丸くする。男たちは祐真の眼前まで肉薄していた。
片方の男が、鉄パイプを振り上げる。そして、容赦なく振り下ろされた。
祐真は片手で男の鉄パイプを受け止めた。アンダースローの投球をキャッチするように、とても容易だった。痛みもダメージもない。
男は相変わらず獣のように、敵意がこもった形相でこちらを睨んでいる。祐真の背筋に冷たいものが走った。
「お前ら、なんなんだ」
祐真は、鉄パイプを握ったまま言う。足が少し震えていた。とても嫌な感じだ。これはもしかして。
腕に力を込め、男の手から鉄パイプを奪い取った。しかし男は怯まず、即座に殴りかかってくる。もう一人の男は、こちらの背後に回りこもうとしているのを目の隅で捉えた。
タッグプレイに、祐真はたじろぐが、魔術のお陰で対処可能だ。
祐真は男の拳が体に届く直前に、腕を使って男の手を払いのけた。たったそれだけで、男はもんどり打って地面に倒れた。
魔術で力が強化されたお陰だ。無論、手加減はしているので、命に別状はないはずだが。
風圧を感じ、祐真は振り返った。同時に、腹部に物が当たる感触。背後に回りこんだ男が、腹部に拳を突き入れたのだ。
しかし、もちろん逆効果。男は拳を押さえてうずくまる。祐真は手に持っていた鉄パイプを男の足元に投げ捨てた。
いつの間にか、通行人が集まってきていた。祐真は顔を伏せ、男たちをその場に残したまま、足早に立ち去る。
商店街を抜けたところで、祐真は頭を抱えた。商店街の外れなので、周囲に人の気配は少ない。店舗も個人経営の小さな喫茶店だとか、BARが目に付く場所だった。
祐真は深く黙考する。どう考えてもおかしい。あまりにも立て続けに『絡まれ』過ぎている。これはどうしたことか。
理由は不明だが、間違いなく、魔術といった要素が絡んでいると思われた。淫魔術の時のように、背後で何かが跋扈しているのだ。
すぐにでも帰宅して、リコに報告をしなければ……。
祐真は走り出そうとする。それと同時だった。近くにあった個人経営の喫茶店から、人が出てくる姿が見えた。
それは三人の制服を着た女の子たちだ。祐真と同じ高校生だと思われた。他校の生徒だろう。
その女子高生たちは、祐真を見るなり、声を張り上げた。
「いたよ! 例の奴だわ!」
「皆、ここにいるよ!」
慟哭にも似た絶叫が、辺りに響き渡った。
走り出そうとしていた祐真は、体を硬直させる。ぞくりと、首筋に嫌な感覚が走った。
女子高生たちが声を上げた直後、近くにあるBARや定食屋などの様々な店舗から、次々に人が出てきた。年配の人間や、若者、学生と思しき制服姿の者。複数いる。
「あいつか」
「捕まえろ! 殺せ!」
「逃がすな!」
出現した人々は、次々に物騒な言葉を口に出す。彼らの中には、手にバットや調理に使っていたのだろうか、包丁を持っている者もいた。
彼らは、祐真に向かって一斉に走り出した。つまり、襲ってきたのだ。
慄然とする祐真。まるで暴徒を前にしたかのような騒然とした光景だ。思わず息を飲む。
包丁を持った定食屋の店長と思しき男が、目の前まで迫る。その後ろには、祐真を発見した女子高生たちが続いていた。
祐真は逡巡する。俺はどうすればいいのか。リコが施した『コルプル・フォート』の効果はまだ生きている。襲ってくる人々全員と充分に渡り合えるだろう。しかし、相手は多数だ。混戦になるだろうし、下手をすると死人が出るかもしれない。それに――。
祐真は決断を下した。迫りくる人間たちに背を向け、逆方向に走り出したのだ。
ここは逃げる他ないだろう。下手に戦ったら、騒動になる。警察だって出動してくるかもしれない。そうなると、祐真の不思議な力から、最終的にリコの存在まで発覚する可能性があった。
それに、スマートフォンの所持率が百に近い現代、誰かから動画を撮影される危険性もある。ネットにでも流されれば、祐真は一巻の終わりだ。
「逃げたぞ!」
「待て」
「追いかけろ!」
駆け出した祐真の背に、人々の声が突き刺さる。集団レースのスタートのように、複数の人間が走り出す音が背後から聞こえてきた。
『コルプス・フォート』の力を駆使し、祐真は全力で疾走する。
方向としては、自宅があるアパートは逆方向に向かっている状態だ。どうしようもなかった。進行方向がちょうど彼らによって塞がれていたためだ。
商店街があるエリアから随分と離れ、暴徒化した人々を撒いたことを確認した祐真は、足を止めた。ちょうど近くにあった小さな公園に一時避難する。
ポケットからスマートフォンを取り出し、リコに電話をかける。電話はすぐに取られた。
「もしもし、リコ?」
『祐真かい? 随分と遅いようだけど、どうかしたの? 今日の夕飯は祐真の大好きなハンバーグだよ』
現状とはまったく逆の、リコの安穏とした口調に祐真は焦りと怒りを覚えた。
「それどころじゃないんだ、リコ。大変なことが起こってて……」
祐真はリコに説明を行う。色々な人間に絡まれ、しまいには暴徒と化して襲われた出来事などをつっかえながら話す。
話を終えると、電話の向こうでリコが真剣味を帯びた様子が伝わってきた。
『なるほど。おそらく、それは退魔士の仕業だね。花蓮や沙希と同じく、推進派のメンバーに違いない』
「沙希とは違う退魔士なの? 沙希本人の仕業じゃなくて?」
祐真は、一連の現象を鑑みて、昨日逃げ延びた沙希が再度攻撃を仕掛けてきたのだと解釈していた。
『沙希の仕業じゃないよ。昨日の今日の話だ。あれほどの痛手、そう簡単に癒せるわけがない。沙希は今もって、戦闘不能だよ』
「なら、新手の推進派メンバーが……」
昨日に続き、早急な気がするが、他に説明がつかないのも事実だ。
くそ。また厄介事だ。祐真はうんざりする。しかも、今回は殊更面倒そうだ。
祐真は質問する。
「どうして人々が襲ってくるの?」
『詳細はわからないけど、魔術で操られているのは確かだね。術者本人を発見しないと解決できないかも』
「どうすればいい?」
『まずは僕が祐真の元にいくよ。君の安全を確保するのが先だ。今どこにいるんだい?』
祐真は、現在位置をリコに教えた。リコが助けにくればもう安心だ。今までのように、きっと俺を守ってくれるはず。弱体化の件が心配だが、リコは大丈夫だと言っていた。ここはリコに頼る他、術はないのだ。
『僕がいくまでそこで待機してて』
リコがそう言い、通話が終わった。祐真はスマートフォンをポケットに戻した。
それから公園内を見渡す。住宅街の真ん中にあるこの公園には、ブランコや、滑り台など定番の遊具が並んでいた。隅には、公衆トイレもある。こじんまりとしているが、最低限の設備は揃っているらしい。
祐真は公衆トイレに近づいた。そして、誰も見ていないことを確認し、男子トイレに入る。
中は無人だった。小便器が壁に二つ備え付けられており、反対側に個室用トイレが設置されてあった。
祐真は試しに、個室用トイレのドアを開けてみる。そこにも人はいない。明かり取りの窓があるお陰で、光が差し込み、光源がなくても内部は確認できた。
祐真は、個室に入り、内側からロックを掛ける。ここでリコがくるまで潜伏するつもりだった。
蓋がしてある便器に腰掛け、ほっと息を吐く。突如見舞われた異常事態に、神経が疲弊していた。見ず知らずの人々に襲撃されるのは、同じ高校の生徒たちに襲われるよりもまた違った恐怖を祐真に与えるのだ。
便器の上に座ったまま、じっとしているうちに、少し時間が経った。ふと、個室の外に人の気配を感じた。
足音だ。誰かが男子トイレに入ってきたらしい。ゆっくりと探るような足取りだ。
足音は、個室用トイレの前で止まった。祐真はリコが到着したのだと思った。ほっとして、声をかけようとする。
ほぼ同時だった。トイレのドアが激しくノックされた。ノックというよりかは、もはや殴りつけると表現したほうが正しいか。個室トイレが揺れるほどの強い力だ。
「おい、羽月祐真! 中にいるのはわかっている。出てこい!」
怒鳴り声。リコではない。知らない男のものだ。おそらく中年くらいの。祐真を名指ししている。
祐真は息を飲んだ。心臓の鼓動が早くなる。間違いなく、これは『敵』だ。出てはいけない。リコが助けにくるまで耐えなければ。
祐真が決心した時、さらなる足音が聞こえてきた。トイレの入り口からだ。トイレを叩いている男のものとは別の足音。しかも、複数だ。遠足の最中、ぞろぞろと集団でトイレを利用するかのような、大勢の人間が入ってくる音。
トイレのドアが叩かれる中、便器に座っている祐真の手の平にじんわりと汗が滲む。尿意はないはずなのに、小便がしたくなった。
「クソガキ! さっさと出てこい!」
「追い詰めたわよ! 逃げられないから覚悟しなさい」
「いい加減観念しろよ」
老若男女入り混じった罵声だ。公衆トイレを割らんばかりの勢いで、内部に響き渡る。
やがてドアがさらに激しく叩かれた。木製のドアが軋み、破片が飛び散った。ゾンビのごとく、複数の人間がドアを破ろうとしているのだ。
まずい。このままだとドアが壊され、引きずり出されてしまうだろう。
祐真は立ち上がった。それから、背後にある壁の上部に顔を向ける。
そこには明かり取りの窓があった。入り口が塞がれている以上、もうここしかない。
祐真は、便器のタンクの上に上り、窓に手を掛けた。上開きの窓であるため、手前に引いて蓋を開けるようにして窓を開ける。
人が通れるくらいの隙間が開いたところで、祐真はよじ登り、上半身だけを外に出した。
窓の外は、ちょうどトイレの裏手にあたり、生垣や小さな倉庫が見える。人の姿は確認できず、裏手にはまだ『敵』の魔の手が迫っていないことを示していた。
祐真は上半身を外に出した格好のまま、腕の力だけを使って、完全に窓に上る。そして、窓枠を掴んで、全身を外に出した。
体を捻り、トイレの外壁に足を掛けながら下りる。肉体強化の『コルプス・フォート』のお陰で、スムーズに事が進んだ。
地面に足が着き、砂地の感触が伝わってきたことで、祐真は無事、トイレからの脱出に成功したことを実感した。
祐真はそのまま周囲を見渡す。目の前には、生垣があった。その先に住宅街の路上が伸びている。
今もトイレの内部から、扉を叩く音が聞こえてきていた。トイレの正面に戻るのはまずいだろう。『敵』の集団が控えているに違いない。
逃げるならここからか。祐真は正面の生垣に近づいた。
すると――。
「いたぞ!」
成人男性の声がこだまする。いつの間にか、『敵』がトイレの裏手に回り込んでいた。一人の若い男だ。耳にスマートフォンを当てている。まるでトイレから出たことを察知したかのような動きだ。
ぞろぞろと他の人間たちが裏手に集まってくる。全員が、目に狂気が宿っていた。中にはナイフや木刀など武器を持っている者もいる。
「殺せ!」
一斉に、祐真へと襲い掛かってくる。
祐真は慌てて生垣を飛び越え、路上へと出た。なおも追ってくる人間たちを背後に控え、祐真は走り出す。
祐真は焦った。リコとの待ち合わせ場所が遠ざかっていく。また連絡を取り、どこかでリコと合流をしなければ。
日が落ちていく住宅街の路上を駆けながら、祐真はそれにしても、と思う。
疑問が生まれていた。どうして追っ手の人間たちは、祐真の居場所がわかったのだろうと。
公衆トイレに潜伏を開始した時もそうだったが、先ほど裏手に脱出した時もそうだ。ピンポイントで祐真を捕捉していた。まるで、こちらの動きを完全に把握しているかのように。
監視でもされているのか……。
しかし、その場合、どうやって? これまで散々、縦横無尽に駆け回って逃げていたのだ。そんな人間を誰がどのようにして捕捉するというのか。
祐真の中に生まれた疑念は、逃げている最中、ずっとくすぶり続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます